「子爵領の民を生贄に捧げて、二万ほど。そしてここに陣法の入口を作り……彼の地と繋ぐ」
王女は既にこと切れたハンスの首筋に筆を宛て、優雅な所作で、床の模様に何かを書き足していく。
犠牲者たちは時間差で殺されたのか、彼の血液はまだ凝固はしておらず。
流れ出ていく血液はただの、赤い絵の具のように扱われていた。
「罪人の血では多少足りませんでしたが、折よく補充できたのでよしとしましょう」
「……眉唾物だな」
「ご心配なく。王家の公文書に、実際に使用できた例がいくつか載っていました」
絵本に出てくる怪しげな黒魔術の、魔法陣のような模様。
それを見た東伯は心底、胡散臭そうな顔をしていた。
しかしその陣が何なのか、クレインは既に知っている。
「王家に伝わる、時渡りの秘術。これがあれば勝利は揺らぎません」
「時間操作などと、子どもでもあるまいし……。まあ、それで気が済むならば好きにするといいが」
真面目に準備をしている王女と、東伯の温度差は激しい。
ヴァナウート伯爵は腕組みをして、至極詰まらなさそうに眺めるばかりだった。
「結果として子爵領での作戦は成功したわけですし、よろしいではございませんか」
そこに不穏な空気を感じたのか、好々爺という雰囲気のヘルメスが割って入る。
すると東伯は、意識をそちらに向けた。
「軍議のつもりで来たのだが……。まあいい、お前もよく働いてくれた」
「いえいえ。世論の操作など、赤子を殺すよりも容易いことです」
窓際に隠れ、息を殺しつつ。
何の話かと思いクレインが聞いていれば。
「アースガルド家が我々の側に付いた、か。そんな事実は無いというのに」
「嘘も百度繰り返せば、真実になるということでございますよ」
「子爵も、哀れなものよな」
アースガルド家がラグナ侯爵家と敵対を表明した。
その情報を侯爵家に齎したのは、ヘルメス商会だと言う。
「道化という意味では、お兄様も同じですが」
「くく。姫様が暗殺を目論んでいるとも知らず、援助までする有様ですからな」
随分前から計画の用意を続けていたようで、そこには王女以下、この場の全員が話に噛んでいたらしい。
そうと知っても、クレインの頭は不思議なほど平静を保っていた。
「死んだと思っていた、可愛い妹が生きていたのです。心を許せる唯一の相手なのですから、当然です」
「うむうむ。そうですなぁ」
そう言って微笑む王女は至極楽しそうに語るが、手は止めていない。
上機嫌なままに筆を滑らせつつ、彼女は更に続ける。
「ラグナ侯爵家が王位の簒奪を狙っているので。それを防ぐために、共に戦いましょう――暗殺事件も侯爵家の仕業です」
それは王子の基本方針であり、その考えを決定づけたのは彼女の助言だった。
しかし、それも全て虚偽だ。
「ええ、デタラメを全て信じてくださいました」
「まったく、最高の兄君ですな」
ヘルメスはもう、第一王子への侮蔑を隠そうともしていなかった。
彼は王女の描いた絵にまんまとハマり、いいように踊らされた愚か者としか見られていない。
その様子を見ていれば、クレインも察した。
「なるほどな……王子には見るべきところが無いと、北侯が断言するわけだ」
全ては彼らの掌の上だったというのに。
王子本人も彼の臣下も、本気で侯爵家が全ての黒幕だと信じ切っていた。
「騙されていたのは、俺もか」
クレインは小声で自嘲するように言うが、王子暗殺の犯人は王女の手先で間違い無いとは知れた。
それは前回の人生で、暗殺の真相を知る宰相も言葉を濁したはずだと納得もいく。
謀殺されていたはずの王女が実は生きていて、彼女が王子殺害の黒幕だった。
王族同士で殺し合っていた。
そんな事実を、話せるわけがない。
侯爵はその件に何かしらの不満を持っていたのだろう。
だから会話の流れがああなったのだと、クレインは納得しているが、全ては過去の話だ。
彼が黙って聞いている間にも、彼らは更に答え合わせを続けていく。
「あの王子はただのボンクラとして、北侯の悪評を撒くのは骨でしたなぁ」
「……よく言う。自らの悪事を押し付けておいて」
いくら味方である貴族の屋敷とは言え、普段ならもう少し周囲に気を配ったのだろうが。
今の彼らにはどこか浮かれた雰囲気があった。
上機嫌に語るヘルメスの口から、次に出てきたのはラグナ侯爵家の悪評についてだが。
ここにもヘルメス商会の手は入っていた。
それも、かなり広範囲に。
「侯爵家が麻薬の密売に手を染めた事実も無し。……奴隷売買? ええ、稼がせていただきましたとも」
クレインが北の情勢を聞くときは。トムを始めとして、北で情報を仕入れた商人から話を聞いている。
むしろ、そこ以外から聞いたことは無かった。
「考えてみれば、そこにも気づく要素はあったはず、か? ……いや、これは無理だな」
北の地で最も大きく、権力を握っている商会はどこか。
当然、ラグナ侯爵家のお抱えとされていたヘルメス商会だ。
大抵の商人はそこから商品と情報を仕入れてくるので、悪評を立てようと思えば大した労力も無く。
ジャン・ヘルメスは、すぐに噂を広められる立場にいた。
しかし前世では、一応の味方として見ていたのだ。
それが裏で敵と内通し足を引っ張るどころか、最初から敵方だったと言われたクレインは――逆に、腑に落ちていた。
「……最初から最後まで、敵だったということか」
彼の商会がアースガルド家の敵であり、ラグナ侯爵家の敵であり、ヨトゥン伯爵家の敵であること。
そして東側勢力の味方でもあること。それは確定した。
状況から見れば、いっそ清々しいほど敵方だった。
むしろ味方であった時期がない。
「敵の評判を落としつつ、こちらの資金を増やせたのです。一石二鳥ではございませぬか」
「物は言いようだな」
しかしラグナ侯爵家のお抱え商会という触れ込みだったのだから、前世の彼に、ここまで本格的に裏切っているなどと知れるはずもない。
前回までの人生で、それを看破するのは無理がある。
そう結論付けて、彼の中で消化したというのに。
犯した余罪は勝手に自白されていく。
「北侯の名を出せば、どこの商会もすぐに抵抗を諦めてくれましたでな。あれほど楽な仕事もございませんでした」
権力に物を言わせて脅し、謀略を仕掛け。
金にあかせて商会を潰し、そして吸収する。
クレインはそれが、ラグナ侯爵家のやり方だと聞いていた。
しかしそこは、ヘルメス商会も同じやり方をしている。クレインがそう思ったことは何度かあった。
例えばサーガ商会が潰されたときのことを思えば、この上なく悪どい手法だ。
「しかし。相変わらず、根っからの悪人だな」
「善悪など、金次第でひっくり返るものですぞ。役人など、鼻薬一つでコロリといきますでな」
非合法なやり方で儲けていたのは、ヘルメス商会だけで。
全ての罪を侯爵家に丸投げしていた――というのが実情らしい。
自分たちが行った非道を侯爵家がやったことと宣伝していたのだから、面の皮の厚さは折り紙つきだ。
ヘルメス商会が一連の動きを始めたのは、王国歴500年よりも前からだ。
つまり三年前――クレインが過去に戻れる範囲よりも以前から、彼は裏切っていた。
「北はそれで良いとして、南伯は口説き落とせましたの?」
「ああ、ようやく首を縦に振った」
「ひぇひぇ、あの美しい姫君を好きにできるとは。東伯様も役得ですなぁ」
「……少女趣味は無いぞ」
ここでも答え合わせだ。
東伯は別に少女趣味でなく、アストリ本人には何らの興味も抱いていない。
「南の商品差し止めで、当商会が損害を出した分は――」
「北で回収済みだろう。それに、サーガ商会から没収した権益分もあるな」
「これは手厳しい」
中央へ進出した時。南伯からの援助が必須だと思ったので、ただ計画に巻き込もうとしていただけだ。
領地の経済を止めて、脅し。
裏切らないための保険として、愛娘を人質に取る計画が進んでいた。
舞台裏はただ、それだけのことだった。
「王都では、それで伯爵の評判が酷いことになりましたが」
「中央の評判など知らん」
「……まあいいですわ。お兄様も群臣も、完全に信じ込んでいましたし」
クレインが王子と初めて会ったとき、彼は東伯が小児性愛者だと認識していた。
これに関しては彼だけでなく。王都の高位貴族は皆、誰もが疑いもしていなかったことだ。
「いや、それ以前の問題だよ。馬鹿野郎」
王子がクレインに、北候への印象を尋ねた際。彼は東伯への印象も尋ねていたのだ。
後々味方として、合流させるつもりで動いていたのかもしれない。
「……王子からすれば、東側勢力は味方に見えていたんだろうな。それも、頼れそうな唯一の」
彼はそう推測を立てるが、それは今考えても仕方がないことだ。
頭を切り替えようとしていれば、今度は東伯と東候の嘲り声が聞こえた。
「途中からは噂に乗ってみたものの、それをあっさりと信じるとはな。中央の奴らは性癖が歪み過ぎではないか?」
「然り。謀略を疑いもせぬとは」
それは東部で戦乱に明け暮れた彼らの側からすれば。
平和ボケをし過ぎて、笑えるほど滑稽に映っている。
「何でも許される立場にいれば、背徳的なものに手を出したがるものらしいですぞ。ああ羨ましい」
唯一貴族ではないヘルメスが茶化すが、この点についてもクレインには納得がいった。
本格的な戦争を仕掛けてきたときから、薄々感づいてはいたし。二度目の戦争で、アストリ以外の何かが目的にあると確信していた。
そうでなければ、東候が乗るはずはないと思っていたからだ。
「ヘルメスも、もうじき貴族になるのです。興味があるならおやりになれば?」
「ヘルメス伯爵ですか。それこそ羨ましい」
ここ数年に起きた騒乱の大部分に、彼らが関わっている。
今までクレインの身に訪れた危機も、こうして見ればほとんどが彼らのせいだ。
「それは皮算用と申しましてな。計画が成ってから嫉妬していただきたいものです、ヘイムダル子爵」
「ははは、気が早いのはどちらか」
彼らが何かしらの利益を得たり、何かの目的を達するための謀略。
それに巻き込まれたと考えれば――クレインの胸中には、得体の知れない感情が渦巻き始めていた。
「……いや。ここまでは耐えられた、はずだ」
出て行っても殺されるだけだと、当時のクレインはまだ耐えることができたはずだ。
そう、話がこれで終わっていれば、いくらかは冷静でいられたはずだった。
この直後に、決定的な何かがあった。
しかしそれが何かを思い出そうとしても、頭が思い出すことを拒否しているかのように痛み出し、思考はまとまらない。
「何なんだ、一体」
こんな話を聞ける機会はもう巡って来ないかもしれない。
だから、クレインは言い知れない不安にも耐えて、現実に起こる答えを待つ。
今の彼は隠れているので当たり前だが、クレインの心情とは関係なしに、密談は続いていく。
勢力圏に潜む敵対勢力の人間は全て、徹底的に排除して。
外敵はまだ遠く、近場に残る味方でない存在は、子爵家の若造が一人だけ。
その配下も既に始末してある。
これで警戒を強めろと言う方が無理だったのだろう。
クレインが聞いているなどと思いもしない彼らは、よく歌った。
そして、彼が最も知りたい情報。
同時に、彼が最も知りたくない情報。
「しかし、子爵家は味方に付けても良かったのでは?」
アースガルド領は何故滅ぼされたのか。
その疑問は、ヘイムダル男爵の口から出てきた。
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