「春眠暁を覚えずということわざがありますが、ある国の詩人の言葉で、春は気候が良く夜が短いこともあって、つい寝過ごしてしまうという意味だそうです」
502教室の窓際の席で、ルーナは机につっぷしていた。
窓辺には柔らかい陽光が射し込んで、彼女を包むように照らしている。
艶やかな黒髪がキラキラと美しい。
「そうですね。こんな日は勉学に励むよりも、ゆっくりとこの時間を楽しみましょう」
一度、教室裏の準備室に戻ると、お湯を沸かしてティーセットを用意した。
カップは二つ。角砂糖の小瓶。町の商業地区でも有名な菓子店の焼き菓子も用意して、ティーポットと一緒に銀のトレーに載せる。
教壇ではなく、窓際の席に運んだ。
ルーナはつっぷしたままだ。
「良い茶葉が手に入ったのですが、一人でいただくにはもったいないと思いまして」
体内時計で三分きっかり。
カップに紅茶を注ぐと、ルーナがむっくり起き上がった。
「真面目にやる気があんのか!? 授業しろよ!」
「そうでした。では、ティータイムのあとにいたしましょう。せっかくの紅茶を冷ましてまでする授業など、この世には存在しませんから」
薄い琥珀色の紅茶は、皇帝陛下への献上品にもなる特級茶葉特有の色合いだ。
が、それよりもルーナの視線は焼き菓子に釘付けだった。
「そ、それ……なんだよ? お、美味しそうじゃんか」
「こちらは帝都に本店を構えるパティスリー『リュミエル』のノルンヴィノア支店で買い求めた、四種のナッツとバターの焼き菓子になります。よろしければ、紅茶と一緒にお召し上がりください」
ルーナの金色の瞳がこちらを睨む。
「食べ物に釣られるようなアタシじゃねぇ!」
「紅茶のお砂糖はいくつがよろしいですか? あいにくミルクやレモンは切らしておりまして」
「ふ、二つ寄こせコラァ!」
ルーナの好みは角砂糖二つ。また一つ、生徒の事を知ることができた。
彼女のカップに小瓶から角砂糖を二つ落とす。彼女はムッとした表情のまま、ティースプーンで薄い琥珀色の水面をかき回した。
「召し上がれ」
「こ、紅茶なんて別に大して好きじゃ……う、うまぁいなにこれぇ……」
一口飲んだ途端に少女の目尻がトロンと落ちた。
「焼き菓子もどうぞ」
「せ、センコーがそこまで言うなら……食べてやる」
焼き菓子を口にする。サクサクほろほろと口の中で軽く解けて消える食感に、彼女はますます目を細めた。
「香ばしくて軽くて、なのにバターの濃厚さとかすかな塩味が絶妙なハーモニーを奏でてるぞコノヤロウ!」
なんとも幸せそうだ。ルーナは貴族階級の出身のはずだが、まるで初めて食べたかのような感動の仕方に見える。
「普段はあまり、こういったものは召し上がらないのですか?」
「そ、そうだよ。なあセンコー……アタシのこと、どこまで知ってんだ?」
「貴族階級の出身としか伺っておりません」
少女はティーカップを手にしたまま、水面に映る自身の顔に視線を落とした。
「本当は貴族なんかじゃないって、わかってんだろ?」
「なにか事情がおありなのですね」
二枚目の焼き菓子を頬張ると、少女は「ま、このセンコーならいっか」と呟いた。
「アタシは孤児院の出身なんだ。ある日、魔法の才能があるって判って……その力で孤児院のみんなを助けたかった」
「大変ご立派な志しです」
「けどほら、センコーも見ただろ。アタシは闇魔法しか使えないんだ。それが暴発して……危うく孤児院のみんなを殺しかけた」
ルーナの表情に暗い影が落ちた。
「それはとても苦しみましたね」
「アタシはいいんだ。けど……もう、孤児院にはいられねーじゃん」
いつの間にか空になったルーナのカップに、おかわりを注ぐ。
「お砂糖は二つでよろしいですか?」
少女は無言で頷いた。
「ノルンヴィノアへは、どのような経緯で?」
「貴族の中には子供ができなかったり、生まれた子供に魔法の才能が無かったりってのもあんだろ? アタシが闇属性の魔法が使えるって噂になったら、すぐに貴族から養子にならないかって誘いが来たんだ」
「その申し出を受けられたのですね」
「孤児院にはいられないし、寄付金もどっさりだかんな。選択の余地なんて無かった」
「ルーナさんほど素晴らしい生徒を、わたくしは存じ上げません」
「ば、バカなのか? 落ちこぼれたからここにいるんだぞ!?」
少女が唸って威嚇する。
「大切な人々を守るために、そこまでの決断を下せる人間のどこが落ちこぼれなのでしょう。大変、ご立派です」
「ご、誤解すんなよ! き、貴族になれるっていうから受けたんだ……けど」
まだルーナの苦難は終わらなかったようだ。
「新しい皇帝が闇魔導士を死刑にしまくっただろ?」
「減刑された者は一人としていなかったそうですね」
「法で裁けたのは一部って話なんだろ? 噂じゃ闇魔導士だけを暗殺する特殊部隊が編成されて、帝国を裏で操ってた結社だかなんだかの闇魔導士を皆殺しにしたって……」
「なるほど。特殊部隊……ですか」
カップをソーサーの上に置き、思案する。
そういった“部隊”の話を耳にした記憶はない。
「帝国の発表だと、そんな部隊は設立されてないっていうけど、腕利きの暗殺集団でもいなきゃ、一掃なんて無理だし」
「カイン皇帝に限って、そのような隠蔽はなさらないかと存じますが……」
「あれぇ? センコーもしかして暗殺部隊にビビッてんのか? なんか顔色がよくないな。けどほら、センコーは闇魔法使えないなら大丈夫だって。あ、アタシは使えるけどビビってねーし。つーかセンコーって、闇魔法の話になるとざっこくなるんだから」
「闇属性の魔法は大変恐ろしいものです」
ルーナは小さく息を吐いてから続けた。
「マジでビビりだな」
「お恥ずかしい限りです。そういった情勢の中、ルーナさんはどうしてこの学校に?」
少女はますます大きな溜息をつく。
「タイミング最悪で、アタシを養子にした貴族のクソオヤジがよその女と子供作ってさ……家庭崩壊。その赤ん坊には魔法の才能があった。アタシは用済み。母親は自殺。まあ、本当の母親じゃなかったけど……いい人だった」
過酷な生い立ちに耳を傾け続けるうちに、頬を雫が落ちていった。
「ルーナさん……わたくしが必ずや、ルーナさんを一流の闇魔導士にしてさしあげます」
「うわっ! なに泣いてんだよキモッ! だいたい闇魔法見たら気絶するセンコーには無理だろ! 常識的に考えて! あと時勢的にも一流の闇魔導士はヤバいだろ!」
ルーナが他者を拒絶するような素振りを見せるのも、信じられる人間や頼れる人間に恵まれなかった、つらい境遇があってのこと。
誰に彼女を咎めることができるだろうか。
「さあ、ルーナさん。焼き菓子をもっともっとたくさんお食べください。そして立派に大きくなられるのです」
「泣きながら食わせようとすんな! 口に突っ込もうとす……もごご……うまっ……うまぁ……」
「わたくしには、こうして焼き菓子を食べさせてあげるくらいしかできませんから」
「ぷはっ! センコーならもっとやれることあんだろ! もういい美味しかったごちそうさまでしたッ!」
半分切れたような口振りで、少女は二杯目の紅茶を喉に流し込んだ。
カップをソーサーに置いて、真顔で一言。
「センコーさ、クビは近いぞ。ちゃんと仕事するか次の仕事探しておけよ」
「では、ちゃんと仕事をすることにいたします。このあとの座学の授業を受けていただけますね?」
「な、泣かれるとキモいから……聞いてやるけど、つまんねぇ話だったら寝るかんな」
「それはまた難易度の高い……」
おもしろい授業は実在するが、自分にそれができるかというと別問題なのだ。
結局、このあとの講義の半分以上を、ルーナは眠って過ごした。
教師の仕事は、これまでしてきた仕事のノウハウが通じない難しいものである。
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