ゆったりと風景が流れていく。かすかに潮風の混じった心地よい風が頬を撫でた。
「お、おいセンコー! あれ! あの道の脇で売ってるのはなんだ?」
ルーナがデッキから身を乗り出して指さす先には――
「ジェラートの販売ワゴンですね」
「見た感じアイスだよな? センコーは食べたことあんのか?」
「はい。大変美味しいですよ。あのワゴンには氷結系の魔導器が備え付けられているようです。魔導技術の発展により、冷たいものを手軽に食べられるようになりましたね」
「いや、そういうことは全然訊いてねぇし」
口を尖らせながらも少女の視線はジェラートに釘付けだ。
ワゴンの前は女性や子供たちで大賑わいだった。誰もが色とりどりのジェラートを手にして楽しげである。
平和な日常が、ごく普通のものとしてありふれている。ここには戦乱も暗躍も陰謀もない。それが、とても幸せだと感じずにはいられなかった。
皇帝陛下の治世あってのことだ。
「なんかニヤニヤしてないかセンコー?」
「おや、そうですか」
「あっ! さては食べたいんだろ。だったらえっと……後でつ、付き合ってやってもいいぞ」
「後と言わず、今からお付き合いください」
ルーナの身体をすくい上げるようにお姫様抱っこして、軽くデッキの床を蹴り降車する。
「ひゃっ!?」
腕の中で少女が息を呑むように小さな悲鳴を上げた。
着地には細心の注意を払う。膝のクッションを効かせて、音を立てずに歩道脇に無事、下車完了。
トラムは気づくことなく走っていく。ジェラートを買い求める客の視線を多少集めてしまったようだ。
そして――
「停留所で降りないのは、い、いけないんだぞ!」
腕に抱かれたまま少女が耳まで赤くなって吼えた。
「おっと、これは失礼いたしました」
「自分でルールを説明してから五分もしないうちに違反してんじゃねーよ」
「はははは。これは一本取られましたね」
「いや一本取るとかそういうんじゃないだろ……つーか……」
少女がうつむき気味になって顔を背ける。
「早く降ろせよバカぁ」
「あっと、そうでした。ルーナさんは軽くて抱き心地も良いものですから、ついずっとこうしていたくなってしまいまして」
「センコーそれ絶対他の大人に言うなよ。あと、アタシ以外にやるんじゃないぞ。逮捕されるから」
「はぁ? そうなのですか」
「そうなんだよ! あーもう恥ずかしい」
町行く人々もぽつぽつと足を止め、こちらに集まる視線が増える中、彼女をそっと降ろす。
「人目を引いてしまいました。ジェラートを買いにくいですね」
「アタシが興味もったから無茶したんだろ。別にそこまでしてくれなくてもいいんだぞ。けど……トラムも行っちゃったし、せっかく降りたんなら買わなきゃ負けた気がする! ほらぼーっとしてないで並ぶぞセンコー!」
ルーナの方からこちらの手を取って、引っ張られるままジェラートワゴンの列に加わると、ほどなくして何事も無かったかのような雰囲気になっていた。
上手く溶け込むことができたようだ。ルーナが堂々としていたのがかえって良かったに違いない。
ジェラートを買って食べ歩きを始めると、もはや誰も我々を気にしなくなっていた。
「冷たくて甘くて……けど学食のアイスよりさっぱりしてて、だけど味はしっかり濃くておいしいぞ」
「そうですね。ルーナさんはジェラートも初体験ですか?」
「う、うっせー! なんか文句あんのかこらぁ!」
「いいえあまりに的確なもので驚いているのです。一般的なアイスクリームよりもジェラートは乳脂肪分が少ないため、さっぱりとしています。反面、空気の入り方が違っておりまして、ジェラートはアイスクリームに比べて空気の量が少なく密度が高い。だから味わいそのものまで薄くなるということはないのですよ」
「つ、つまりなんだよ?」
「初めて食べたというのに、ルーナさんはアイスクリームとジェラートの違いを見抜いた……この場合は味わい抜いたとでもいいましょうか。すばらしい感性です」
見る間に少女の頬が赤くなる。
「は、はぁっ!? べ、別に普通の感想言っただけだし。そういうんじゃねーし。つーかセンコー全然食べてないな。食べないんなら、センコーのジェラートもよこせ!」
「はい、どうぞ召し上がれ」
まだ手つかずのジェラートを彼女に差し出した。
「いいのかよッ!?」
「ルーナさんの好きな物をまた一つ知ることができただけで、わたくしは幸せです」
「その言い方キモッ! けど、ジェラートはもらうからな」
少女は両手にジェラートを装備して、ミルク風味とピスタチオ風味を交互に食べ比べる。
「ピスタチオって豆なのに……おいしいッ!?」
「正確には豆科の植物ではありませんね。食用に適した堅果になります」
「細かいことはいいんだよ!」
「これも校外学習ですから」
「ほんとセンコーって空気読めないよな。けど、ジェラートがおいしいから特別に許してやる」
少女は楽しげに目を細めた。
◆
軍事力の発展に伴い魔導技術は飛躍的に進歩した。その恩恵が魔導器という形で、広く人々の生活に根付いて暮らしを豊かにしている。
中央区画にある博物館や資料館の一つに、魔導技術館があった。国立魔法研究所が監修しており、展示はどれも素晴らしいものばかりだ。
館内を順路通りに回って、魔法と魔導器の研究について造詣を深めたあと、技術館の外に出たルーナがため息をつく。
「さすがのルーナさんも、そろそろ疲れて来ました?」
「べ、別に……ただ、朝っぱらから博物館とか資料館とか美術館とか、何軒はしごすんだよ!」
「このあとは国立図書館に行く予定です」
と、ルーナに告げた瞬間、背後で気配がざわついた。
振り返ると逃げてしまうので、じっと我慢する。
サスリカはトラムで飛び降りてジェラートを買ったあとも、いつの間にか影のようについてきており、ここまでほぼ一緒に校外学習のルートを回っているような格好だ。
ずっと息を潜めてルーナに気づかれることなくついてきていたサスリカだが、何に反応したのだろう。
ルーナが口をとがらせた。
「せっかくのデー……校外学習なのに本読んでる場合かよ!」
再び後方で気配がざわつく。先ほどよりも動揺しているような雰囲気だ。
「ルーナさんは本がお嫌いですか?」
「本なんて教科書で十分だし。それより剣術の稽古とか馬の遠乗りとかの方が楽しいぞ」
「国立図書館に行けば剣術の指南書もありますし、剣豪の物語も読めますよ」
少女は腕組みをしてぷいっとそっぽを向いた。
「物語なんてガキの読むものだろ?」
背後でサスリカの気配がさらに大きくざわついた。
「馬の品種改良の歴史について書かれた本や、図鑑などもありますから」
「馬は好きだけど馬の本には興味ないからな。乗り方だって知ってるし。本なんて読んでも時間の無駄無駄」
後ろの方でますますサスリカが落ち込んでいっている。そんな気がしてならない。
どうやらルーナは本が嫌いで、サスリカは読書好きなようだ。
今日はルーナのための一日なのだが、サスリカがショックを受けたままにするのは少し気の毒だ。
それに押しつけかもしれないが、ルーナにも本を好きになってもらいたい。
本から得られるのはなにも知識ばかりではない。物語であれば主人公の成長を通じて共感し、感動し、物質的には得がたい宝物を得られるかもしれないのだから。
どうすればルーナは図書館に興味を持ってくれるだろう。
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