「私が皇帝の玉座を手にした最大の理由は、貴様が敵に回らなかったことに尽きる」
「わたくしにそのような力などございません。すべてカイン様ご自身のお力によるものです」
「謙遜ではなく、本心からそう思っているのか?」
「もちろんですとも」
「貴様はそういう男だったな。もし、私が力に溺れたその時には……貴様が私を殺しに来い」
「そのようなことは起こりえません。カイン様はすばらしい治世をなさると信じております」
「そうか……皇帝に釘を刺すとは恐ろしい奴め……貴様は十分に尽くしてくれた。どこにでも行き、思うまま好きなように生きよ」
「ありがとうございます」
「だが、もし帝都が恋しくなった時には、いつでも戻ってくるがいい」
「お心遣い痛み入ります」
「……なにかあれば専用の秘匿回線に連絡するのだぞ」
「そろそろ下がってもよろしいでしょうか?」
「う、うむ。では達者でな」
◆
三十人ほどが入る502教室に始業の鐘が鳴り響く。
最初が肝心ということで普段以上に身だしなみにも気をつけた。シャツにはしわ一つない。
ジレも新調し、ネクタイを少しきつめに締める。
耳にかかるほどの、ふわりとした桃色の髪ばかりは生来のものなので決まらないのだが、だからこそ、他に一分の隙もなく……今の自分は完全に教師だった。
「おはようございます」
一礼して顔を上げる。窓際の最後列の席についた少女は、外の景色を眺めたままだ。
自分が受け持つ生徒は今、彼女しかいない。
今年入学したばかりで特別補習対象となった、ルーナという貴族の娘である。
前任者からの引き継ぎ書類には、二行だけ。
素行不良の問題児。
未熟な者同士仲良くすればいい……とのこと。
どのような共通点でも、きっかけになるという前向きな考え方である。
「おはようございます」
「…………」
少女から返事は無かった。
じっと見る。黒髪は背中を覆うほど長い。
頭にはウサギの耳のような、黒いリボンがピンと立っていた。本校――ノルンヴィノア帝国軍魔法学校の黒い制服も相まって、黒ずくめだ。
「初めましてルーナさん。わたくしは特別補習担当のエミリオ・クロフォードと申します」
「…………」
ルーナの金色の瞳が、ちらりとこちらに向く。
笑顔で返すと――
「うっざ……キモ……デカいくせに頭ピンクのお花畑かよ」
彼女はプイッと、また窓の外に視線を向けた。
秒で嫌われてしまった。が、仕方無い。補習を喜んで受ける生徒というのは、傷の無いエメラルドのようなものだろう。
教壇と彼女の席までの距離は遠かった。
生徒が一人なら、大きな黒板も無用の長物だ。
教壇を離れて彼女のそばへと移動する。
「何をご覧になられているのですか?」
「うわっ……なんでこっち来てんだよ?」
ガタッ! と、音を立てて椅子から転げ落ちそうになった彼女を、とっさに抱き留めた。
「大丈夫ですか? 足首などひねっていませんか?」
「ちょ! 放せって!」
男の子っぽい口振りで焦る少女を解放する。
「窓の外になにか驚くようなものがあったのでしょうか」
屋外運動場では、二年生が剣術訓練の真っ最中だ。みな真剣に取り組んでいる。
巨漢の剣術担当教師が、一瞬で九つの軌道の斬撃を放ってみせたくらいで、さほど驚くような出来事は見受けられない。
「ば、バカなのか? 急に瞬間移動したみたいに来るなんて。気配も感じなかったし」
「瞬間移動など使っておりません。普通に歩いてルーナさんの元へと参りました」
魔法力の効率を考えた場合、短距離瞬間移動はあまり燃費がよろしくない。
「足音も立てずに?」
「あっ……失礼いたしました。気をぬくと足音を立てて歩くのを忘れてしまいまして」
「はあッ?」
少女は椅子に掛けなおしながら素っ頓狂な声を上げた。
「それで、いったい何に驚かれていたのでしょうか?」
「だ、だから急に背後に立たれて……べ、別にビビッてねぇけど? 全然驚いてねぇし!」
「そうでしたか。どうやら、わたくしの勘違いだったようですね」
ルーナが金色の瞳でこちらを睨む。
「とっとと教壇に戻って好きにしたら?」
「生徒はルーナさんだけですから、今日はこの窓際近くで授業をいたします。陽当たりも良いですしね」
「げぇっ……最悪」
少女は机の天板につっぷした。
そのままぴくりともしない。
「気分が悪いようでしたら、医務室に運んでさし上げましょう。遠慮は要りません。先生を頼ってください」
俗に言う“お姫様抱っこ”をした瞬間――
少女が再び吼えた。
「テメェ空気読めよ! そうじゃないだろ?」
「はい?」
「落ちこぼれで退学寸前のヤツが補習でセンコーをシカトして寝に入ってんだよ!」
「そのような生徒は見当たりませんが」
「アタシだよ! あんだコラァ! テメェがデカイからって、アタシが小さすぎて見えなかったってか!? 売ってんのかアァン?」
「売る……と仰いますと?」
「おまけに天然かよ!」
「はい」
「肯定すんな!」
「この髪色も背丈も天然のものですから」
「んなこと訊いてねぇし!」
彼女は腕の中で身をよじりながらジタバタした。魚がピチピチと跳ねるようだ。
「ルーナさんが朝から大変お元気で、安心いたしました。これなら授業ができそうですね」
「とりあえず降ろせ! バカッ!」
恥ずかしいのか怒っているからか、彼女の顔は真っ赤だ。
牙を剥き唸るような素振りも、追い詰められた魔獣がシャーっと威嚇するような愛らしさだった。
「放せ! 降ろせ! 放っておけー!」
ますます激しく手足をじたばたさせる彼女を、そっと椅子に座らせる。
「きちんと補習を受ければ退学にはならないのです。落とした単位を、わたくしと共に拾い集めましょう」
ルーナはジトッとした視線で呟く。
「アタシは退学になりたいんだ!」
「なぜです?」
「そ、そんなのセンコーには関係ねぇし」
「ではぜひとも関係を結びましょう」
少女の眉間にしわが寄る。
「その言い方……なんかヤバくね?」
「教師と生徒が関係を結ぶのに、何か問題があるのですか?」
「もっとヤバくなったし!」
「ヤバいというのは若者言葉で、すごいという意味だと聞きます。つまりルーナさんはわたくしと関係を持つことに、大変興味があると仰りたいのですね?」
「ちっげーから! オマエさっきからなんなの?」
腕組みをして考える。
生徒からの問いに向き合うのも教師の務めだ。
「自分が何者で、どこから来てどこへと向かうのか……探し続けることこそ人生ではないかと考えております」
「なに言ってんだ? わけわかんないし」
少女は困惑しているようだった。彼女の求める解答ではなかったのかもしれない。
自分が何者かを知るとはつまり――
「もしやルーナさんは哲学に興味がおありなのですか? わたくしはその分野に疎いのですが、学びたいのでしたら、今から専門書の揃った図書館に参りましょう」
「行くかよッ!」
これも違ったか。アプローチを変えてみよう。
「それにしてもルーナさんとは会話が弾んで楽しいですね」
「弾んでねぇから! なんでアタシがツッコミしなきゃいけないわけ?」
「性格的には、わたくしの方がツッコミかと存じますが」
「初対面だけど断言できる。それは絶対ない。ボケてるってかズレてんだよ」
金色の瞳でこちらを睨みつけながら、少女の口から吐息が漏れた。
「本当にこの学校のセンコーなのか?」
「まだクラスを受け持たせていただいてはおりませんが、いつかは担任になって生徒たちを導き、育み、立派な魔導士として世に羽ばたかせたいと思っております。人の道を外れる魔導士には決してならぬよう、指導していきたいのです」
「本気で言ってんの?」
どうして自分はいつも「本気なのか?」と問われるのだろう。
珍しい桃色の髪のせいか、はたまた決心や熱意というものが、伝わりにくい顔の作りをしているからか。
「本気も本気です。マジというやつです」
「……わかった。じゃあ、アタシが試してやんよ」
少女は席から立ち上がった。
「では早速ノルンヴィノアの町の図書館へと参りましょう。校外学習許可の申請は、こちらであとからしておきますので。鉄は熱いうちに打てと言いますし」
「だから行かないっての! いいかセンコー。テメェがどんだけ根性あんのかみてあげっから、アタシと勝負だ」
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