狭間に浮かぶ巨大な次元航行船。
反転者を中心とする反転する意志のメンバーが拠点とするこの船にも、ライトの誕生は伝えられていた。
「――――母子共に健康か。結構なことだ」
「ええ! 俺もその場にいたわけじゃないですが、聞いた話ではかなり大変だったみたいですよ! なんとあの深淵がお見舞いに現れたらしいですからっ!」
「私もそれはここから視ていた――――けどあの深淵は、この狭間で正気を保ちながらも以前より力を増しているように感じる。今のドレス・ゲートキーパーと78999番目のリドル・パーペチュアルカレンダーであれば、集積したラカルムとは単独でも戦えないことはないはず」
次元航行船の内部、大きく開けた休憩所のような場所で、反転者とロコ、そしてアッシュがリドルの出産とその場の様子について意見を交わしていた。
実は、アッシュもこの期間内にかつて襲撃した聖域へ謝罪に訪れていた。それ以来、アッシュがこの船に戻るのは実に数ヶ月ぶりである。
アッシュが聖域襲撃の際に負傷させたり殺害したと思われていた聖域の人々は、実はアッシュの武装領域に囚われたり、そう偽装されていただけで実は全員が無事だった。
しかし、直後に交戦したヘルズガルドの予想以上の強さにアッシュが手も足も出せずに完全撃破されてしまったため、彼らを聖域に戻すのが大幅に遅れてしまったというわけである。
もちろん、命を奪わなかっただけで大勢の人を行方不明にしていたわけで、アッシュはそれから数ヶ月、聖域で哀れな虜囚兼強大な労働力としてこき使われていたのだ。
「その二人に加えて、スイレンさんまで助太刀したらしいですよ! それでも押しとどめるのがやっとだったみたいですね。もし戦ったらヤバそうです!」
「そうか――――奴は、エントロピーを弄びすぎたな」
普段の調子でハキハキと応じるアッシュを前に、反転者は呟き、静かに瞼を閉じる。
自分達だけではない。反転者とロコがあの最後の門へと到達するはるか以前から、マーキナーは何度も、それこそ数え切れないほどの可能性を踏みにじってきたはずだ。
ロコが初めてあの門の向こうへと辿り着くまでに、一体どれほどの狭間の世界がリセットされ、そのエントロピーの痕跡も残さず消え去っていったのか――――。
こうして、ロコや反転者が以前の世界の記憶とエントロピーを次の周回へと持ち込んだこと自体が初めての出来事だったはずだ。
それよりも前の狭間で何があったのか。どのような人々が日々の生活を営んでいたのか。それらは想像することはできても、もはや知る手立ては存在しない――――。
「――――狂った機械は必ず廃棄する。ロコ、リドルとヴァーサスの子が生まれた事による修正値の算出は?」
「終わっている。予想以上の結果。あなたの想像した通り、やはりあの二人の子供は――――」
『――――ボクを壊す助けになりそう? でも安心して、ボクはもうリセットなんてしないから!』
● ● ●
「はっはっは! なんと小さく可愛らしい! この髪の毛の色も、赤い瞳の色もリドルそっくりだ! 鼻の形もリドルに似ている気がするな!」
「いやはや……一時は死ぬかと思いましたよ……。レゴスさんのおかげで産後の肥立ちとかそういう心配は全くしなくて大丈夫な上に、私も一瞬で妊娠前の体型や体調に戻して頂きましたが――――それはそれとしてあの泥船創造神、出産そのものには全然役に立ちませんでしたッ!」
増築が完了し、二階建てとなったリドルとヴァーサス、そして今はライトも加わった三人の家――――。
まだ自身の手のひらから腕の第一関節ほどまでの大きさしかないライトを抱え、満面の笑みを浮かべるヴァーサス。
誕生したライトの容姿はかなりの部分がリドルに似ているように見えた。
栗色の柔らかそうな髪の毛や赤い瞳。わずかに尖った唇や小さな鼻。鋭い眉と小さな額はヴァーサス似と言えるかもしれない。
出産からまだ数日だが、すでにリドルはレゴスの力で完璧な体調を取り戻していた。
通常、出産直後の一ヶ月は母体の体力低下と産道や胎内の出血もあり、絶対安静の期間である。しかし創造神レゴスの持つ神の力は、それら傷ついたリドルの肉体を即座に癒やしてくれていたのだ。
だがそれとこれとは話が別。実は助産行為自体が数十億年振りだった泥船創造神に対し、リドルは未だに憤慨の声を上げていた。
「クククッ! さあライトよ! この黒姫こそ貴様のもう一人の母となる存在だッ! 我が顔をその原初の記憶に刻み込むが良いッ! べろべろばーッ!」
ヴァーサスに抱かれるライトの前で、禍々しい邪気を発しながら渾身の面白顔を披露する黒姫。しかし生後間もないライトにはまだ周囲の光景ははっきりとは見えていない。黒姫の面白顔は完全にスルーされてしまう。
「むう……? 反応が薄いな? ならばこれならばどうだッ!?」
「く、黒姫さん。それはちょっと怖いですよ!」
「ハハッ! 無事に生まれてくれて良かったよ。あと数分遅れていたら、僕たちもきっとラカルムさんに飲み込まれていただろうからね」
「――――こうして俺たち家族を助けてくれていること、三人には本当に感謝しかない! しかし黒リドルはともかく、ミズハやドレスは自分達の用事は大丈夫なのか? この三日間、ずっと俺たちの傍に居てくれているが……」
黒姫の左右から、さらに覗き込むようにしてライトを見つめるミズハとドレス。
本来であればドレスなどは皇帝としての業務が山積しているはずなのだが、出産から今日までの数日間。ドレスはこうしてつきっきりでヴァーサスやリドルの身の回りの世話や家事に奔走してくれていた。
「側近を連れず、僕一人でっていう条件で宰相のユキレイに許可を貰ったんだよ。実は僕もそろそろ身を固めようかと思っていてね。今回はその実地訓練も兼ねているのさ」
「私も大丈夫です! まだ有給休暇も八十日くらい残っているのでっ!」
そう言って笑みを浮かべるドレスとミズハ。実はドレスは間もなく結婚を控えていた。すでにデイガロス帝国のみならず、その報せは大陸中に知れ渡っている。
そしてそんな四人の輪の中に、すっかり普段通りの様子となったリドルがやってきてヴァーサスの隣に腰を下ろした。
「……しかし我が子ながら、良く見なくてもこの子めちゃくちゃかわいいじゃないですかっ! これは将来絶対優秀な宅配員になりますよ! ですよね、ライトちゃん?」
「いや待つのだリドル。ライトの将来はライト自身に決めさせてやろう。 ――――門番か宅配員か、どちらかを選んで貰うのだっ!」
「なら、もういっそのこと両方やって貰えばいいのではっ?」
「宅配門番か……それは新しいな!」
「(ふふっ……その点については心配要りませんよ。なんたって貴方たちは――――)」
家業を継がせる気満々で我が子の将来に思いを馳せるリドルとヴァーサス。
そしてそんな二人の様子を、黒姫は微笑ましく見守っていた――――。
二百年後の未来で二人の家系図を見た黒姫は既に知っているのだ。リドルとヴァーサスが最終的には七人もの子を授かり、ナーリッジでも珍しい大家族になることを。
――――きっと、せっかく増築したこの家もすぐに手狭になるだろう。
黒姫はそんな二人の未来を思い、穏やかな笑みを浮かべた。
「――――さて、俺もいつまでもこうしていたいが、リドルとライトのためにも門番活動を頑張るとしよう。休暇は今日までと決めていたのだ!」
「まあ、ヴァーサスの場合は職場がすぐ眼の眼ですから、ライトちゃんの子守とかしながらでも門番できるんですけどね」
「はっはっは! その通りだ! 職場が近いというのはなかなかに素晴らしい!」
そう言ってヴァーサスは腕の中でゆっくりと呼吸するライトを優しくリドルに預けると、気力充実とばかりに立ち上がる。そして一同が見守る中で馴染みの全身甲冑を一瞬で身に纏い、再びリドルとライトの傍に戻って力強く頷いた。
「では行ってくる! 何かあればすぐに駆けつけるからな!」
「はい。行ってらっしゃいヴァーサス。門番、お願いしますね」
「うむ!」
それは、普段通りのやりとり。
二人が今まで幾度となく交わしてきた、もはや習慣となった言葉。
しかし、今日その時。その言葉はある者によって遮られた。
『――――こんにちは! パーペチュアルカレンダーさんのお家はこちらでよろしいですか? 門番ヴァーサスさんを迎えに来たよ!』
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