大陸全土で反転する意志による上位門番襲撃が発生するより少し前――――。
数日降り続いた雨がようやく止み、晴れ間の覗くリドルの門の前。
ヴァーサスは長雨で貯まった洗濯を済ませ、晴れている間に少しでも衣類を乾かそうと、家の外でせっせと濡れた服を棒と棒の間に張られたロープに干していた。
あれだけヴァーサスを苦しめた夏の日差しも、最近ではすっかり収まっている。
門番にとっては厳しい時期である夏は終わりを告げ、季節は秋へと移ろう。秋が終われば、それはヴァーサスがこの場でリドルの門番となることを誓った日から丁度一年が経過したことを意味していた。
「――うむ! これくらいでいいだろう。しかし最近は俺の服も増えたせいか、干す場所が足りなくなってきたな。今度増設するとしよう!」
ヴァーサスはロープの上で穏やかな風にたなびく衣類を見ると、満足げに頷く。
以前は数枚しかなかったヴァーサスの服も、今では何着にも増えていた。最初の頃、それらは服を二~三着しか持っていないヴァーサスのためにリドルが見繕って買ってきたものだったが、今では二人で選ぶようにもなっていた。
服だけではない。リドルと暮らし始めた頃、当然だが家の中にはリドルとエルシエルの生活用具しかなかった。ヴァーサスも当初はエルシエルが使っていた食器を使っていたものだ。
しかし間もなく一年が経とうという今。リドルとヴァーサスは夫婦となり、ヴァーサスの私物と言えるものも相当に増えていた。以前結婚祝いに訪れたウォンが言っていたとおり、この小屋では少々手狭になってきたかもしれない。
「そういえば黒リドルは一夜にしてあの屋敷を出現させていたが、一体どうやったというのだろう? あのような芸当が可能なら、俺とリドルの家も頼めばやってくれるのだろうか? ううむ……」
ヴァーサスはその場に自分一人だというのに口に出してそう言うと、ずんずんと家の中へと入っていく。
ヴァーサスはまだ知らないが、実は黒姫は別の平行世界で住む者がいなくなり、もぬけの殻になった屋敷を勝手に転移させて我が物としていた。なので実質窃盗犯である。バレれば間違いなく冷たい牢の中で臭い飯を食うことになるだろう。
暫くすると、ヴァーサスは何度も破損されてはパーツを継ぎ接ぎして修復した全身甲冑を身につけ、いつもの門番スタイルで再び家の外へとやってくる。家事で少々遅くなったが、今日も門番活動の始まりである。
「むむ……しかしリドルが傍に居ないとやはり寂しいな……。早く帰ってこないだろうか。何事もなければいいのだが……」
なんと、これから門番活動だというのに珍しくヴァーサスの表情は優れない。
実はここ最近、リドルは体調を崩していた。発熱のような目立った病状は無かったが、どうも常に本調子ではない上に、座標転移や領域操作の力までもが使えたり使えなかったりと不安定な状態に陥っていたのだ。
結局、だらだらとした不調が二週間を越えたことでヴァーサスと黒姫はリドルを説得。リドル自身は最後まで渋々といった様子でようやく宅配業を休業し、朝から黒姫の付き添いで診療所に出かけている。
「いつも俺には無茶だなんだと言っているが、俺からすればリドルも自分のことに関してはかなり無茶をするところが相当にあると思うのだが……ここはやはり、俺がもっとしっかりとしなくてはいけないな!」
そう言って門の前に立ち、決意を新たにするヴァーサス。
以前は他人の細かな不調などには興味も関心も抱かず、ただひたすらに自らが門番として責務を全うすることだけを考えていたヴァーサスも、リドルと生活を共にしたことでようやく人並みの機微を身につけ始めていた。
こうして門番活動をしながらも、ヴァーサスはリドルの体調を思うとそわそわと不安が収まらず、普段のような職務への高揚感を感じることはとてもではないが出来なかった。
「……リドルは昼には戻ってくると言っていたが……今日は昼からなにか滋養のつく料理を作ってやらなくては。リドルがずっとこの調子では、俺の気がもたんぞ!」
普段のヴァーサスを良く知る者が今の彼を見れば、なぜあのヴァーサスが門の前に立っているのに笑顔ではないのかと驚いただろう。
生涯愛すると誓った伴侶であるから当然ではあるものの、今のヴァーサスにとって、リドルの存在はそれほどまでに大きなものとなっていたのだ。
リドルの体調不良という予期せぬ出来事はあったものの、基本的にはその日も何事もない平穏な日々だった。管理者であるリドルが不調でも門の力は安定しており、以前のような災厄を自ら呼び寄せる事態は結局この数ヶ月発生しなかった。
――――緑豊かな木々と草原に囲まれた巨大な門に、穏やかな陽の光が降り注ぐ。雨粒を湛えた草花が光を反射してキラキラと輝き、土の匂いをヴァーサスに運んだ。
ウォンが語ったクルセイダスの真実。クルセイダスとエルシエルが導き、後を継いだ門番達が守り抜いた平和な日々。それは、この先もずっと続くかと思われた――――。
しかし――――。
しかしその男は、なんの前触れも無くその場へと姿を現わした。
それは、短い平和の終わりを告げる災厄の発露だった。
『――――さて、今の俺でどこまでやれるか。まずは試してみるとしよう』
「――何者だ? 名乗って頂きたい!」
そこに現れたのは、灰褐色のローブを深々と頭まで被った男――――。
男はゆっくりとした足取りで地面を踏みしめると、そのフードの奥から覗く白い瞳でヴァーサスをじっと見つめた。
ヴァーサスは即座に槍と盾を構えていた。彼自身は気づいていないが、瞬間的にヴァーサスの周辺に赤熱する領域が展開され、それは既に彼が完全な臨戦態勢となっていることを示していた。
『――――これは凄いな、予想以上だ。かつて俺が戦った時よりも、今のお前の方が遙かに強い。やはり、ここには俺が来て正解だった』
「――――もう一度言う、名乗ってもらおう。もし門に用があるというのならば、今現在門の主はこの場を留守にしている。申し訳ないが日を改めて貰いたい」
ヴァーサスは自らに歩み寄る男へと毅然とした口調で言い放った。すると男は歩みを止め、くつくつとフードの闇の中で不気味な笑い声を上げる。
『心配するな、今日はその門に用はない。用があるのは、お前だ――――ヴァーサス』
「――俺に? 俺に一体なんの用だ?」
男は心底機嫌が良いとばかりの声色でそう言うと、ローブの中に収められていた片腕を晒し、ゆっくりと掲げた。男の周囲に蒼と赤。相反する二つの色が混ざり合った領域が展開され、辺りの空気が一変した。
『俺の名は反転者。門番ヴァーサス――――俺はお前を殺しに来た。お前を消さなければ、俺たちは決して門の先へと進めないのでな!』
門番VS反転者――――開戦。
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