気の遠くなるような時間が流れた。
ヴァーサスが反転者となり、数え切れぬ程の宇宙を幼いヴァーサス諸共破壊して回るのを、ロコはずっと見ていた。
『彼が少しでもロコさんについての記憶を取り戻したらまずいから、ロコさんや、ロコさんに連なる家系に位置する場所には新しく別の人を配置してみたよ。君がファスティパーマネントさんだから、新しい人たちはパーペチュアルカレンダーさん。ただ、君がヴァーサスさんと因果を結ぶのは時間切れ寸前だから、関わってくるとしたらかなり後半だね』
機械に埋め尽くされた薄暗い世界で、ピンク色の兎が何一つ動かずに淡々と音を発する。ロコは封じられた領域の中、そこから出ることも出来ないまま、その音を聞いていた。
『でも安心して。君はもう見事ゴールに到達した。君はもう時間切れを心配する必要も無いし、死ぬ心配も無い。これからはボクと一緒に特等席で観戦できるよ』
「そう……」
やがてその世界で自由な行動を許可されたロコは、どこまでも続く機械の海を歩きながら、マーキナーの言葉を聞いていた。
父や母、祖父や祖母と特段仲が良かったわけでは無い。だが憎んでいたわけでも無かった。しかしマーキナーが言う通り、ロコがその世界から観測した新しい狭間の領域に、ロコへと繋がる家系は最初から存在していなかった。
ロコがこの場へと到達したことで、ロコの母も、ファスティパーマネントとして生を受けた母方の祖父も、一切のエントロピーを残さず消え去ってしまった。
「お母さん……みんな……」
ロコが見る限り、マーキナーの介入は予想よりも遙かに少なかった。マーキナーが行うことは、リセット時の舞台設定までで、それ以降の流れについては基本的に傍観者であった。
しかしその舞台設定を整える際の行いには一切の情がなく、苛烈で、どこまでも機械的だった。それこそ、あらゆる宇宙と可能性を掌握した神のようにマーキナーは振る舞っていたし、それだけの力を持っていた。
『見てよロコさん。恐ろしいラスボスの反転者は、君たちがやっていたのよりも凄い速度で宇宙を壊しているよ。まだまだ全然時間切れまで時間があるのに! それに、自分は直接動かずに、現地の適当な人と協力してヴァーサスさんも殺している。とてもストイックで、慎重かつ大胆に働いているね! とてもラスボスっぽいよ!』
「ヴァーサス……」
興奮気味に話すマーキナーの声を聴きながら、ロコものその光景を見つめていた。
高慢で見下した物言いをしながらも、救いを求めてくる存在をできる限り見捨てずに救おうとしていたかつてのヴァーサスはもうどこにも居ない。
自分の目的のために幼い子供すら躊躇せず血の海に沈める想い人の姿を、ロコはただ見続けさせられていた。それは、ロコにとって死よりも苦痛を伴う時間だった。
仲の良い、幸福そのものといった様子の家族の父を洗脳し、その父の手によって母と娘を殺害する。反転者に残された全殺しの槍一本では門を跡形も無く破壊することが難しいとはいえ、その行いを平然と繰り返すことのできるヴァーサスを見せられるのは、正に地獄に等しかった。
ロコは、ずっとその光景を見ていた。
どこまで行っても変わらぬ機械で埋め尽くされた世界の中、ロコはずっと見ていた。
千年が経ち、二千年が経ち、やがて一万年に差し掛かろうという長い年月。
狂気に取り付かれて虐殺を繰り返すラスボスと化したヴァーサスを、ロコはずっと見ていた――――。
だが――――。
だが彼女は、ただ無為にその光景を見続けていたわけでは無かった。
『――――あれ!?』
驚きの色が浮かぶマーキナーの声が機械の世界に響いた。
ロコはそれについてはなんの反応も示さず、ただその時を待っていた。
『おのれ……おのれえええええええッッ! 貴様のような取るに足らん手駒に足下を掬われるとは……ッ! 俺が……俺の情報が……座標が……消えていく……あと一歩……あと一歩で……この次元で完成する……そこまで来ていた……ッ! 貴様のような……門番如きに……っ!』
ロコの意識の先、全てを見通す視界の先。
そこには自身の生み出した全殺しの槍によって刺し貫かれ、今正に討ち滅ぼされようとする反転者の姿があった。
しかも、その肉体を貫く全殺しの槍は、ロコやかつてのヴァーサスが想定していた力を遙かに超える進化を見せていた。この状態の全殺しの槍によって因果を破壊されれば、あらゆる並行世界にわたる反転者の因果全てが完全に抹消されることになるだろう。
『うわー! うわー! どうしよう!? ラスボスが死んだ! ラスボスなのに途中でやられちゃったよ!? それにこんな殺され方したら、もう復活もできないじゃないか! あーもうどうしたらいいんだ!』
その光景に、マーキナーが憤慨の声を上げた。
そしてその声を聞いたロコは、心中に精一杯の侮蔑を浮かべた。
――――やはりそうだった。このデウス・エクス・マーキナーという存在は、表層では人類の幸福のためという理想を掲げながら、既にその内面ではその古ぼけたプログラムよりも、自分自身の筋書き通り、予定調和内で起こる突発的な出来事を安全な位置から眺めることに愉悦を感じる――――狂った機械だ。
『困ったなぁ! いくらまだ時間切れじゃないからって、反転者とヴァーサスさんはまだ戦ってもいないんだよ! それに何? この反転者を倒した人、ただの冴えないおっさんじゃないか! これじゃあちっとも映えないよ! どうしよう。まだ途中だけど、やり直した方がいいのかな?』
マーキナーとロコが見つめる先で、跡形も無く消滅する反転者。
どうやら、反転者が自身の目的を達成するために利用していた仲睦まじい家族によって、手痛いしっぺ返しをくらったようだ。
――――しかし、その場にはまだ幼い狭間の世界で最後の一人となったヴァーサスと、そしてロコの消えた穴埋めとして世界に放り込まれたパーペチュアルカレンダーの人間が関わっていた。あまりの出来事にマーキナーは見落としているが、この結果を招いたのもまた、マーキナーが弄んだ因果の帰結なのだ。そして――――。
「――――やり直す必要は無い。この世界は続ける。私と――――ヴァーサスで」
『え? なに? ちょっと今忙しいから、後にして貰えるかな? 今ボクはとっても悩んでるんだ。あまりにも想定外で処理が追いつかないよ。うーん、やっぱりリセットかな。こんな酷い展開じゃ、どうせこの先も大したことは起こらないだろうしね。うん。そうしよう!』
いつの間にその場へと来ていたのだろう。
マーキナーが音を媒介するピンクの兎の横へと現れたロコが、静かに声を発した。
マーキナーはロコに注意を払っていない。たとえ最後の門へと到達して強大な力を得たロコとは言え、自身に匹敵するほどの力は無い。マーキナーはロコに対して、そう認識していた。だが――――。
『あ――――れ? おか――――しいな。処理が、おいつかな――――い』
「確かに私の力では貴方を滅ぼせない。けど、貴方の処理速度に負荷をかけることはできる」
『あ――――れ――――お――――か――――し』
マーキナーの声がどんどん途切れ途切れとなり、最後には声として認識できないただのノイズへと変わる。
ロコは、この数千年の間ずっと門から注がれるエントロピーの力を使用せず、自身の内へと溜め続けていた。それによってロコが操れるエントロピーの力を増大させ続けていた。
しかし、それはマーキナーも同じこと。
この最後の門にロコよりも遙かに先に到達していたマーキナーの操れるエントロピーは、ロコが僅か数千年で追いつけるような生やさしい力量差ではない。
「だけど、それでも一時的に貴方が普段から処理しているエントロピーの総量を増大させることはできる。突然増えたアクセスを処理できずにダウンする、サーバーのように」
そう、ロコは長い歳月をかけて溜め続けたエントロピーを、全てこの瞬間にマーキナーへと流し込んだのだ。長く一定量のエントロピーを処理し続けていたことがマーキナーにとっての仇となった。
ロコの言葉通り、もはやピンク色の兎は言葉を返せない。まず先ほど自身が発した、おかしいという言葉の処理を完了しなくてはならない。
「暫くそうしてて。私はヴァーサスのところに行く。そうしたら、今度は私たちがラスボスになってあげる。貴方にとっての――――だけど」
『ア――――ア――――ア――――』
ロコはそう言い残し、その世界を後にした。
この行いはただの時間稼ぎに過ぎない。それはロコにもわかっていた。
マーキナーはロコが与えたエントロピーを処理しきれば再び何事も無く活動を再開する。それは、本当に僅かな時間。
数百年――――いや、恐らく数十年も無いだろう。
「大丈夫――――今度こそ、私は最後まで貴方と一緒にいるから――――」
ロコは狭間の領域を飛翔しながら、自身の胸の中に輝くエントロピーに語りかけた。
ずっとロコが持ち続け、数千年の間見続けた――――彼女にとって最も重要で、かけがえのないエントロピー。
それは反転者の――――否、彼女がよく知る本来のヴァーサスのエントロピーだった。
狭間の領域に存在する反転者の因果は、クルセイダスとエルシエルが用いた全殺しの槍の進化形態によって全て跡形も無く消え去った。
しかし、狭間の領域の外に囚われていたロコが持っていたヴァーサスの因果は、一切のダメージを受けずに残っていた。
間違いなく、ラスボスとしての反転者はあの瞬間の二人によって打倒された。そしてラスボスである反転者が打倒され、その因果全てが狭間の世界から消滅したことで、ロコの中に眠る本来のヴァーサスが復活する道が密かに発生していたのだ――――。
「待っててヴァーサス。必ず、私が助けてあげるから」
最後の門の力を得たロコはそう呟くと、先ほどマーキナーに対して行使しなかった残り僅かなエントロピーを結集させ、小さな――――本当に小さな可能性の宇宙を創り出す。
ロコはその宇宙をじっと見つめ、決意を宿した表情でその中へと消えた――――。
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