『私は――――ラカルム――――全てを――――ラカルムに――――』
「ラカルム殿――――」
そこは、まさに虚空だった。
闇も、光も、空間も時間も。全てが虚ろで現実感が無く、両の足は確かに地面に着いているようでもあり、浮遊しているようにも感じられた。
じっとりと張り付くような濡れた感覚があると思えば、かさつくような乾燥を感じた。熱いようで寒く、眩しいようで何も見えない。そんな場所だった。
虚空の窮極に座する者――――虚ろなる深淵ラカルム。
時も、空間も、意識すら曖昧となる永遠の夢の中。漂い続けた破滅の結末。
だが、ヴァーサスとリドルは知っている。目の前に漂うこの虚無の主が、本当に望んでいるものを――――。
「ヴァーサス、リドル君。君たちにはなにか考えがあるみたいだね?」
「たはは……考えって程のことじゃないのですが……ただ、ずっとラカルムさんにお願いしようと思ってたことがあったんです。そうですよね、ヴァーサス」
「うむ。せっかくこうして対面できたのだ。この機会に頼もうと思っている!」
「ハハッ! 深淵に頼みごとなんて、さすが君たちはスケールが大きいね。わかったよ、なら――――」
ラカルムの前に立つ二人に尋ねるドレス。ヴァーサスとリドルはなにやら二人で顔を見合わせて頷き合うと、最初から心は決まっていたとばかりに笑みを浮かべた。
ドレスはそんな二人を見て納得したように頷くと、踵を返して他の門番達に目配せする。そしてそれと同時、一度は晴れた虚空の周囲に、再び強烈な破滅の意志が迫った。
「僕たちは君たち二人がその頼み事を終えるまで時間を稼ぐよ。 ――――カムイ?」
「ひゃッ! な、ななな、なに!? しょうがないでしょ!? 私そんなに強くないし、あんなキモイの吸ったら絶対ヤバイし! 大体なんでドレスは私をこんなとこに連れてきたの!? こんなの絶対無理ッ!」
するとドレスは、ずっと他の仲間達の影に隠れ、悲鳴を上げて逃げ回っていたカムイに声をかけた。とはいえカムイの言い分ももっともである。もしカムイがラカルムの闇を吸収していれば、いかにメルトの歌で強化されていたとしても、カムイは耐えきれずラカルムに存在を上書きされていただろう。
「やれやれ……さっきは一人だけ何もしてなかったんだから、ここではちゃんと働いて貰うよ。ほら――――」
「え、ドレ――――んっ?」
カムイの顔を自らの側にクイと向け、そのまま一切の躊躇無く口づけるドレス。唇を塞がれたカムイの瞳が驚きに見開かれるが、すぐにそれは潤み、同時に凄まじい程の黄金の輝きを二人共に纏わせた。
「――――ん、これ位でいいかな。これでカムイも暫く皇帝領域が使えるはずだよ」
「あ……ああ……あわわわわ! うわっ!? え、今、え!? なに!? これ!? え!?」
赤面し、興奮のあまりガクガクと壊れた人形のように首を振るカムイ。そんなカムイをよそに、ドレスは満面の笑みで他の門番達に目配せすると、その周囲に自身の領域を展開する。
「さあ、後は頼んだよ二人とも! 黒姫さん、君にも力を貸して欲しいんだけど、大丈夫かい?」
「ええ、もちろんです。今の私はまだラカルムさんとは因果を結んでおりませんので。 ――――白姫、ヴァーサス。任せましたよ!」
「師匠、リドルさん! 私、お二人のことを信じてます! お二人を邪魔するものは、なんでもかんでも斬って見せますっ!」
「ああ! 頼んだぞ、みんな!」
ヴァーサスとリドルを守るべく、迫り来る闇に散っていく仲間達。
無数の閃光と雷鳴、そして轟音が鳴り響いたが、それはすぐに虚無の空間に飲み込まれ、遠くになっていく――――。
『ああ――――私は――――貴方たちを知っている――――ヴァーサス――――リドル――――どこかで――――』
「ハッハッハ! さすがラカルム殿だ! そういえば、初めて会ったときも以前に俺と会ったことがあるような口ぶりだった。きっと、俺も知らないどこかから、ラカルム殿はずっと俺のことを見ていてくれたのだろうな」
「そうでしょうね……私たちには到底想像もできませんけど、きっとそうだったんだと思います」
既に、ヴァーサスは全殺しの槍を収めている。ヴァーサスにも、リドルにも、もはやラカルムと戦う意志はなかった。
「――――ラカルムさん。私、ラカルムさんにずっとお礼が言いたかったんです。あなたに試練だーって言われてボコボコにされたとき――――あのとき初めて、ヴァーサスのこともっと良く知りたいって、もっともっと近づきたいって思ったんです」
「俺もそうだ。あのとき、俺はリドルのことを必ず守り抜くと誓った。俺にとって大事な存在だと、大切な人だと気づかせて貰った。ありがとう」
「そういえば、私たちの結婚を祝ってくれたのもラカルムさんが最初でしたね! だってあのときもう『結婚おめでとう』って言ってくれてましたから!」
「確かにそうだった! なんともありがたいことだ!」
『結婚――――男女が――――一つ屋根の下で――――侵蝕を――――』
「たはは……相変わらず字が不穏ですけど……まあ、結局そうなりましたよ。はい」
――――それは、まるで久しぶりに会った友人と世間話でもするように。リドルとヴァーサスは、笑みを浮かべてラカルムに語りかけた。
「それでですねラカルムさん。なんと私たち、子供が出来たんです! まだ小さいんですけど、いるんです! なので、ぜひともラカルムさんにお願いしようと思ってたことがありまして!」
「うむ! 実は二人でそうしようかと話していたのだ!」
『頼み――――私への――――頼み――――』
既に、ラカルムの姿は巨大な瞳では無く、僅かずつではあるが二人のよく知る女性の輪郭を取りつつあった。この場、この時間軸、この次元のラカルムに対して、リドルとヴァーサスがよく知るあのラカルムが同調し始めていたのだ。
「はい! ――――ラカルムさん、私たちの子供の名付け親になってください!」
リドルの希望に満ちた明るい声が虚空に響いた。
リドルの発したその言葉が、果たしてラカルムにとってどれほどの意味を持っていたのか。それを知る術はない。
しかし、リドルとヴァーサスから届けられたラカルムに対するその想いは、確かにラカルムという存在を大きく変質させた。
なぜなら、二人がラカルムに頼んだその行為こそ――――今まであらゆる次元で破滅と絶望のみをもたらし、一切の可能性を残すことを許さなかったラカルムという存在が、初めて生み出す可能性の光だったからだ――――。
目の前にうっすらと映し出されるラカルムの像。
その瞳から一筋の涙が虚空へと落ちた。
真なる虚空の主 次元喰いラカルムは名付け親になった。
闇は晴れた。
消滅と崩壊の結末を迎えるかに思われたクロガネとシトラリイの世界は、何事も無かったかのように、全て元通りになった――――。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!