「……お前も分かってるだろう。俺たちは他人であることの方が、互いに幸せなんだ」
ダンテが兄だと知らなければいい。
ただの失恋であれば、いずれ傷は癒え、新たな恋も始められるだろう。
きっとベアトリーチェの隣には、ダンテよりももっと良い人が立てるはずだ。
ベアトリーチェほど、性格がよくて一生懸命な女性に、惚れない男など居ないはずがない。
だから、ダンテはただ黙ってベアトリーチェとの関係を断ち切らなければならないのだ。
「……やだ、やだよぉ」
ベアトリーチェの瞳から、真珠のように大粒の涙がぽろぽろとこぼれだす。
彼女ほど感情の機微に敏くないダンテであっても、ベアトリーチェがなぜ泣き出してしまったのかは分かる。
ベアトリーチェもダンテと同じ気持ちを抱いてしまったのだ。
好きだった。
愛していた。
だから、他人になんてなりたくなかった。
「頼む、ベアトリーチェ――」
本当はダンテも嬉しかった。
ベアトリーチェが自身のことを好きで居てくれていると分かっただけで、全てを放り捨てて逃げ出してしまいたくなるくらいの喜びで胸が打ち震えている。
自分も好きだと、愛していると打ち明けてしまいたかった。
だがそれは許されない。
法で、倫理で、それだけはダメだと縛られている。
血のつながった家族を愛してはいけないと、決められてしまっていた。
「――そんなことを言わないでくれ」
ダンテは懇願する。
唇を血がにじむほど噛みしめ、手が真っ白になるほど強く拳を握って自分の感情を押さえつける。
詐欺師の経験と力全てを総動員して自らをあざむく。
それが必要だから。
「なんで?」
「頼む」
「いやだよ。だって私は……」
ダンテの心は既に決壊してしまいそうだった。
あと少しでもやり取りを続ければ、しゃにむにベアトリーチェを抱きしめて、愛していると告げてしまっただろう。
しかし、そうはならなかった。
「私はダンテさんのこと――」
「何をやってますのっ!!」
鋭い叱責がダンテとベアトリーチェの間に割って入る。
嫉妬、怒り、憎しみ、様々負の感情が入り混じったその声は、アンジェリカが上げたものだった。
「……アンジェ。どうやって……?」
アンジェリカは生粋のお嬢様であり、いつもならばはしたなくも屋根に上がったりはしない。
事実、彼女は恐怖を覚えているのか、震える手で高台の欄干に捕まっていた。
誰に聞いたのかは知らないが、ダンテのために勇気を振り絞ってここまでやってきたのだ。
「ダンテさま、なぜですの!? その汚らわしい者といったい何をなさっていたのですか!!」
「それは――」
ダンテはアンジェリカへの返答に窮し、答えを口にしないまま、アンジェリカの下へと歩み寄る。
「アンジェ、とりあえず一旦こちらへおいで。そこは話をするような場所ではない」
「ダンテさまっ! ごまかさないでくださいましっ!」
ダンテはさえずるアンジェリカを手すり越しに一度抱きしめてから抱え上げる。
「ダンテさまっ」
「アンジェ……」
ダンテはアンジェリカを床に立たせると、両手で彼女の頬を包み込み、しっかり目と目を合わせた。
「君が考えていたようなことは、絶対にない」
「で、ですが、尋常な様子ではございませんでしたわ」
確かに、アンジェリカの邪魔が入らなければ、ベアトリーチェは決定的な言葉を口にしてしまっていただろう。
そうなればダンテの理性がどうなったのかは……分からない。
そういう意味ではアンジェリカに助けられたというべきかもしれなかった。
「アンジェ、私を信じてほしい」
ダンテはアンジェリカを両手に抱いたまま、ベアトリーチェへちらりと視線だけを向ける。
「私がベアトリーチェとそんな関係になることは絶対に無いし、あってはならない」
「――っ」
愛していると告白する前に否定された形となり、ベアトリーチェが思わず息を呑んだ。
「事情があったんだ」
「事情、ですか?」
アンジェリカは疑わし気な目でダンテを責める。
確かにこんな人目のつかない場所で男女が会い、深刻な様子で顔を突き合わせている現場を目撃しては、信じられなくて当然だった。
「今それを言うことは出来ない。でも君を裏切る様な真似は、誓ってやってはいないよ」
「…………」
ダンテがいくら信じてくれと言っても、アンジェリカの不信感をぬぐい去ることはできない。
アンジェリカの視線は冷ややかなまま、じっとダンテに注がれていた。
「ダンテさま、私も信じたいのです」
アンジェリカとてプライドがある。
絶世の美貌を誇る彼女が選ばれず、地味でパッとしないベアトリーチェが選ばれてしまうなどあってはならないことだ。
だからアンジェリカは、彼女らしい方法で全てを上書きする選択をした。
「アンジェ――」
「証をいただけませんこと?」
アンジェリカは軽く目を閉じ、唇を前に突き出す。
証。すなわち口づけだ。
ベアトリーチェの目の前で口づけをするならば、ダンテを信じる。
アンジェリカらしい、傲慢な願いだった。
「…………」
ダンテは迷った。
ここでアンジェリカの言うとおりにしなければ、計画が頓挫してしまう可能性もある。
だが口づけをしてしまえば、ベアトリーチェを深く傷つけることだろう。
もうダンテ自身が深く傷つけてしまった以上、更に傷口をえぐるなんて真似は、絶対にしたくなかった。
だから、ダンテは迷った末に――。
「アンジェ」
アンジェリカを抱きしめた。
更にはその頬に口づける。
「ダ、ダンテさまっ。私は子どもではございませ――」
ダンテの胸に顔を埋めたアンジェリカが、抗議の声を上げる。
それを遮り、ダンテはアンジェリカの真っ赤な唇に親指を這わせた。
「唇は、神さまの前で誓い合うのが最初だろう?」
「それは……」
「男としての矜持も考えてくれないかな。私は、ケダモノにはならないと決めているんだ」
そう言って、もう一度頬に唇を落としてから胸にかき抱いだく。
「アンジェ」
ダンテは口をアンジェリカの耳元に寄せ、瞳だけベアトリーチェへと向ける。
「信じてくれ」
ダンテは信じていた。
ベアトリーチェを。
ベアトリーチェの、ダンテの嘘すら見抜く瞳を。
「私には君しかいない」
ダンテは情熱を込め、詩を吟じるかのようにアンジェリカへと囁き続ける。
「私は君だけを愛しているよ、アンジェ」
ダンテは自身を騙り、愛の言葉を紡ぐ。
詐欺師の嘘すら見破るベアトリーチェの瞳を見つめながら。
「ダンテ・エドモン・ブラウンは、アンジェリカ・ジュリー・ブルームバーグを愛している」
ダンテはアンジェリカの頭に手を添えて、ぎゅっと包み込むように抱きしめる。
さらには額に一度口づけ、言葉を重ねていく。
「君にこの言葉を信じてもらえるなら、私はすべての神と父母の名誉にだって誓おう」
「…………もう、仕方ありませんわね」
アンジェリカが呟くと同時、ベアトリーチェも目をパチパチとしばたたかせる。
どうやらベアトリーチェにも、アンジェリカにも、正しくダンテのメッセージは伝わった様だ。
ベアトリーチェは愛さないが、アンジェリカにも偽りの愛しか与えない。
ダンテはこれからも嘘偽りの世界を歩み続ける。
そんな、とても悲しいメッセージが。
「アンジェ、ありがとう」
そう言ってダンテはアンジェリカから体を離し、思い直してもう一度抱きしめる。
「ダ、ダンテさまはケダモノにならないと――」
「アンジェ、私の首に両手を回してしっかり抱き着いて」
ダンテはアンジェリカの悲鳴を無視して両足の膝裏に左腕を通し、右手は背中から回して胴体の服を掴む。
「な、なにをなさるおつもりなのです?」
いわゆるお姫様抱っこの状態になってしまったアンジェリカは、ダンテの腕の中でじっと縮こまっていた。
「だってアンジェは私のためにこんなところにまで来てくれたのだろう?」
「そ、それは……」
ダンテの鋭敏な耳は、こんな時であろうとアンジェリカを呼ぶ侍女のものと思しき声を聴き分けていた。
アンジェリカは、侍女や取り巻きたちを振り切って屋根に上り、この高台にまでやってきたのだろう。
「目を瞑って。全て私に任せて」
「え……きゃっ」
アンジェリカがダンテの言うとおりにするよりも先に、ダンテは高台の手すりを飛び越え、屋根に着地する。
あまりに激しく揺さぶられたアンジェリカは、恐怖からダンテにしがみつき、短く悲鳴をあげた。
「ダンテさまってば、意地悪です」
「ははっ、ごめんごめん」
すっかり機嫌が直ったのか、アンジェリカの声からは暗い感情を伺うことは出来なかった。
ダンテはアンジェリカがきちんと目を瞑ったことを確認してから、体を横に向ける。
「それじゃあ、少し揺れるけれどすぐに終わるからね」
「はいっ」
最後に、さ・よ・な・らと、口の動きだけでベアトリーチェに別れを告げ、ダンテは屋根を滑り降りていった。
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