姦しい子女たちの笑い声が石造りの廊下を駆けずり回る。
本来ならば清廉なる学び舎なのだから、いくら休み時間だとてこのように騒々しくすることは決して許されるものではない。
だが、その中心になっているのがブルームバーグ伯爵家の一人娘とあっては話は別である。
彼女の背後に控える強大な力を恐れ、誰一人としてアンジェリカ・ジュリー・ブルームバーグ及びその取り巻きたちのことを注意することが出来なかった。
そんなにぎやかな集団が階段へと差し掛かった時。
「レディ」
一階と二階をつなぐ階段から、涼やかで通りのいい声が少女たちへと飛んでいく。
たったその一言で、少女たちは舌が縫い付けられてしまったかのように口を閉ざす。
「ここでまた会えるとは奇遇ですね」
声の主であるダンテの顔は、少女たちからは逆光で確認することはできない。
少女たちは各々が手でひさしを作り、目をすがめつつ階段の上を確認する。
「どなたですの?」
気の強い性格故か、それとも自身が大きな力を持っていることを自覚しているからか。
アンジェリカは形のいい眉をひそめ、不機嫌そうな表情でダンテの呼びかけに応じる。
「これはつれないことを。どうやら想っていたのは私だけでしたか」
「上からのそのもの言い、無礼でしょう。顔を見せて、それから名を名乗りなさい」
「いいでしょう……」
コツコツと靴音高く、ダンテは階段を下りていく。
少女たちとの距離が縮まることでダンテの貌から光のヴェールが失せ、真正面からダンテの顔を覗き込んでしまった少女たちは、あまりの美貌に言葉を失ってしまった。
「ルンペルシュティルツキンとでもお呼びください」
笑顔とともにダンテの口から語られたのは、おとぎ話に出てくる悪魔の名前。
名前を知られれば力を失ってしまう悪魔の名をダンテが名乗るなど、まさに皮肉と言っていいだろう。
「レディ」
ダンテは言葉とともにアンジェリカの手を取ると、あのダンスパーティーの時と同じくその甲へと口づけた。
「あ、あなた……」
アンジェリカの頬が薄紅色に染まる。
ただ男が手の甲にキスを落としただけではアンジェリカが動揺するはずもない。
突然の再会により、いつもは固く閉ざされている心の扉にわずかながら隙間が生まれ、ダンテがその隙間に無理やり踏み込んでこじ開けたからこその反応だった。
「そ、そんな名前、あるはずないでしょう」
「ええ、偽名ですから」
アンジェリカの言葉をさらりと肯定したダンテは、いたずらっぽい笑みを浮かべてエメラルドグリーンに輝く少女の瞳を覗き込む。
「私はあなたのことを想っていたのに、あなたは私のことを想っていてくれなかった。その仕返しです」
「なっ」
アンジェリカの頬が先ほどとは別の理由で紅潮していく。
彼女の揺れる感情を楽しそうに観察したダンテは、満足げにうなずいた後、握っていた手をようやく離した。
「私の名前を知りたいですか?」
「別に、知りたくなどありませんわっ」
勝気なアンジェリカの反応を、ダンテはおかしそうに笑う。
ただその笑い方は、嘲笑や失笑といった悪意のある笑いではなく、子猫の戯れなどを見たときに思わず出てしまう様な、慈愛を持った笑みであった。
「私はあなたの名前を知りたい」
「あなたっ」
アンジェリカの瞳に怒りの炎が宿る。
ダンテの知りたいという言葉は、翻せば少女の名前を知らないと言っているも同じ。
自己意識が強いアンジェリカにとっては許されざる無礼だった。
「私がブルーム……んむっ」
アンジェリカが家名を口にしようとしたところで、再びダンテが彼女の唇を人差し指で封じてしまう。
「私は、この愛らしい唇から直接あなただけの名前を聞きたいのですよ。それ以外は、知りたくない」
二度も無断で唇に触れるなど、普通の男がすれば八つ裂きではすまない。
そうならないのは、他とは隔絶した美しさを持つダンテの魔貌故だろう。
「レディ、約束します。これから将来において、一度まみえる度に私はひとつの秘密を明かしましょう。私に何を問うか、考えておいてください。それに見合うだけのあなたの秘密を添えて」
こうしてダンテは罠を仕掛ける。
これでアンジェリカはダンテのことを想い、日が経つにつれてその想いを募らせていくだろう。
始めはただの興味でも、それが積み重なって大きくなれば、いずれは恋となる。
もちろんそれは、ダンテによって創り出された偽りの恋なのだが。
「も、もう会わないかもしれなくてよ」
「会います。必ず」
「なぜですか?」
アンジェリカの瞳は、もはやダンテの色違いの瞳だけを見つめ、そこから外すことが出来なくなっていた。
「私があなたに対して抱いている感情と同じものをあなたが持っているからですよ」
「あら、ずいぶんと強気なのですね」
ダンテはひとつうなずくと、アンジェリカのおとがいに触れ、宣言する。
「そうさせてみせると私が決めた。この世界の中で、最も価値があり、なによりも光り輝いているあなたを手に入れると、私が決めたからです」
それはあまりにも横暴で、アンジェリカの気持ちを考えない一方的な宣言だ。
勝手に気持ちを決められ、押し付けられる。
普通ならばこんな告白は受け入れられるはずがない。
しかしアンジェリカの瞳には侮蔑とは違う感情が宿っていた。
「そう……ですの」
アンジェリカはたまりかねたのか、ダンテから視線を外してそっぽを向く。
舞踏会でもそうだったが、アンジェリカの周りにいた男たちは全てブルームバーグの名に遠慮し、おもねることしかせず、いつもアンジェリカを腫れ物の様に扱っていたのだろう。
おそらく、これほどまでに強くアンジェリカへと迫った男はいなかったはずだ。
ダンテこそが初めてアンジェリカだけを見て、アンジェリカだけに価値を求めて迫って来たのだと、アンジェリカはそう感じている様だった。
「レディ」
ダンテは一歩下がってから一礼する。
「また、逢いましょう」
「………………」
アンジェリカはその言葉に対し、そっぽを向いたまま否定も肯定もしない。
ただ、彼女の瞳はわずかながら色づいていた。
ダンテはその結果に満足すると、あえてアンジェリカとその取り巻きたちの
横を通り抜け、立ち去ろうと――。
「ふえっ」
「おっと」
間が悪いことに、曲がり角から小柄な少女がふらふらと歩いてきてダンテの胸に顔をぶつけてよろめいてしまう。
ダンテは、転倒しかけた少女の腕をとっさに掴んで支えた。
少女の腕にはたくさんの袋がぶら下がっており、そのせいで少女の足元がおぼつかなくなっていたことは容易に想像がつく。
おそらく、アンジェリカや取り巻き全員の荷物をこの少女へ押し付けているのだろう。
ダンテはこっそり嘆息しつつ少女の顔へと視線を向け――あまりにも予想外にすぎる光景を前に、そのまま身を強張らせてしまった。
「――――っ」
「す、すみませ……あれ?」
なぜなら今ダンテにぶつかって来た少女は、怪我を負ったダンテを心配して路地裏にまでやって来た、あの底抜けに善良で純粋な少女、ベアトリーチェだったからだ。
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