それから行われた試合は、まさに手に汗握る白熱した戦いとなり、観客と化した学生たちは我を忘れて声援を送った。
「……ふぅ、さすがお強い」
「君もやるじゃないか」
最終的な結果はダンテの敗北で終わったのだが、もうそんなことは誰も気にしてはいない。
ダンテはさわやかな笑顔を浮かべながら握手を求めると、童顔の学生も同じ表情でダンテの手を握り返した。
「私はランディ・トーマス・アルバだ」
童顔の学生――ランディは子ども特有の純真さが残っており、ダンテが今まで相対してきた性根が捻じ曲がった貴族とは違うのだろう。
……まだそうなっていないだけかもしれないが。
いずれにせよ、いまのところ彼と争う必要性は皆無であるとダンテは判断した。
「よろしくお願いします……アルバ卿」
「ランディで構わないさ」
「ありがとうございます、ランディ殿。あなたは尊敬に値する人物ですね」
この言葉はダンテの本心から出たものだ。
名すら知らない相手を信用し、敬意を表することができる貴族など、そうそう居るものではない。
もし彼がこの純粋さを保ったまま成長したのなら、ダンテは彼を相手に詐欺を働こうとは思わないだろう。
「それはなんともくすぐったいな」
「あなたはあなたのお父上にとっての誇りなのでしょうね」
ダンテはそう褒め称えることで、ランディは気をよくする。
これで彼はダンテの味方になってくれる公算が高いだろう。
「それでは失礼」
「ああ、またしよう」
幾多の学生たちが惜しみない拍手と称賛の声を上げる中、ダンテは軽く会釈をしてからコートを後にする。
こうしてダンテは賭けに勝ったのだった。
「若君様、ちょっとやりすぎではないでしょうか?」
コートを出たところでアルが駆け寄ってくる。
彼は笑顔の仮面を顔に張り付けていたが、その下には心臓が止まるかと思ったぞ馬鹿野郎などの文句がぎっしりとつまっていた。
「おや、私は我が従僕からその程度と見られていたのか」
「危うすぎるので信用しきれないのですよ、我が主っ」
互いに軽口を飛ばしあった後、ダンテはラケットを手渡して持ち主へ返すよう言い含める。
それが終われば――。
「レディ」
ダンテが向かう場所は決まっていた。
幅広なベンチに腰を下ろし、ぼうっとした様子でダンテのことを見つめているアンジェリカのもとへと急ぐ。
「レディ、終わりましたよ」
ベンチの横には取り巻きの女学生や侍女たちが居たのだが、誰一人としてダンテのことを止めようとする者は居なかった。
「は、はいっ」
アンジェリカは豊かな胸の前で、祈る様に両手を合わせ、息を弾ませながら返事をする。
彼女の声には、今までにない緊張が混じっていた。
「……前に交わした約束を覚えていますか?」
アンジェリカの熱い視線を肌で感じながら、ダンテはひざまずいて目線をアンジェリカよりも下げる。
「も、もちろんですのっ」
「それは良かった」
ダンテは微笑んでからアンジェリカの手を取った。
普通ならばあいさつの口づけかと思いきや、ダンテはアンジェリカの手を返して手のひらを上にする。
アンジェリカが戸惑いに満ちた視線を向ける中、ダンテはそっと人差し指を彼女の手のひらの上に置いた。
「私の秘密をひとつ、お教えします」
ダンテはアンジェリカが読み取れる様、一文字一文字ゆっくりと自らの名前を書いていく。
「ダ……ン……」
アンジェリカはその単語を全て言の葉に乗せて読み上げる。
そしてダンテが最後の文字を綴り終わった時、
「ダンテ……」
初めて詐欺師の名前を呼んだ。
「ダンテ」
唇の上でもう一度その名前を転がしてから、アンジェリカはダンテの瞳を見つめる。
「ダンテ。それがあなたの名前なのですか?」
「レディ、私は私の秘密をお教えしたのですよ?」
ダンテは否定も肯定もせず、笑顔で問い返す。
アンジェリカは一瞬頭上に疑問符を浮かべたものの、すぐにダンテがした問いかけの意味に気づく。
約束は、一方的にダンテだけが秘密を明かすのではない。
ダンテはひとつ秘密を明かすごとにアンジェリカの秘密を添えることになっていた。
「アンジェリカ。私の名前はアンジェリカです」
「アンジェリカ……」
ダンテも同じように伯爵家の一人娘の名前を呟く。
互いに互いの名前を言の葉に乗せたふたりは、視線を絡ませ合う。
未だ知っていることは互いの名前程度のもので、言葉を交わしたこともわずか三度しかない。
それでもアンジェリカとダンテのふたりは初めて想いが通じ合った恋人同士の様に見えた。
「翼が生えて飛んで行ってしまわない様に、繋ぎとめておかなければいけませんね」
ダンテは片方の手でアンジェリカの手首を掴み、もう片方の手で彼女の手を包み込む。
独占欲をむき出しにしてどこまでも貪欲にアンジェリカを求めていると、態度で見せつけたのだった。
「まあ……」
これには名前を褒められ慣れていたアンジェリカも意表を突かれてしまう。
彼女らしくもなく、オロオロと視線を彷徨わせ、そのくせダンテを振り払ったりせずにされるがままになっている。
もはやアンジェリカの心はダンテ一色に染め上げられてしまっていた。
「アンジェリカ様っ」
そんな二人だけの特別な空間に、悲鳴じみた声が割って入る。
声の主はベンチのかたわらに控えていた三十代後半くらいの侍女だった。
「殿方にそこまで触れさせてはなりませんっ。旦那様になんと言われるか……!」
1度目と2度目はこのような注意はされなかった。
それは、アンジェリカがダンテを求めていなかったからだ。
しかし今回は違う。
名前を呼び捨てても注意すらしないほど、アンジェリカはダンテのことを受け入れようとしていた。
今はまだ手を握り合うだけだが、このまま逢瀬を重ねれば更なる関係へと発展しかねない。
それでもし傷物にでもなってしまえば、アンジェリカの価値は大きく下がってしまうことだろう。
ブルームバーグ侯爵家にとって、その損失は絶対受け入れられないはずだった。
「…………お前が何も言わなければいいだけだわ」
「アンジェリカ様っ」
再びの叱責に、アンジェリカは唇を尖らせる。
しかし、侍女の叱責を振り切ってダンテとの関係を望む様子は見られない。
まだ、ダンテへの想いより家の呪縛の方が上回っているのだろう。
それを読みとったダンテは、握りしめていたアンジェリカの手を離したのだった。
「あっ」
アンジェリカが非難するような目をダンテへ向ける。
確かにこのままダンテが退けば、家の名に怖気づいてしまったような印象を与えかねなかった。
「アンジェリカ、ここでは少し雑音が大きい様です」
「……そうね」
だから帰る。アンジェリカはそう予想したのだろう。
ふつうはそうだ。
伯爵家ひとつに喧嘩を売る様な真似は誰もしない。
誰しも命は惜しいものだ。
しかし、ダンテはそんな常識に当てはまる様な男ではなかった。
「失礼」
ダンテは一言断ってから立ち上がると、アンジェリカの座るベンチに両手を着ける。
アンジェリカの体を両腕の間に挟み込むようにして。
そんな傍からはダンテがアンジェリカのことを抱きしめているかの様にも見える体勢に、侍女からまたも悲鳴に似た非難の声が上がる。
だが、誓ってダンテは指一本、髪の毛一本すらアンジェリカに触れてはいなかった。
「いずれ、また」
ダンテが耳元で囁くと、アンジェリカは緊張のあまり身を凍らせて、消え入りそうなほど小さな声で「はい」と返事をしたのだった。
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