「私はブルームバー……」
家名を口にしかけたアンジェリカの唇を、ダンテの人差し指がそっと押さえる。
それはあまりにも無礼に過ぎる、有り得ない行為。
当然、アンジェリカは驚きのあまり以降の言葉を凍らせてしまった。
「レディ、私はあなたに興味があるのですよ。家の名前には一切興味がありません」
しかもダンテは無礼な物言いをも連ねていく。
不埒者としてなんらかの罰が与えられてもおかしくはない程度のことはやってしまっていた。
もちろん、ダンテはなんの目算もなくこのような真似をしでかしたわけではない。
アンジェリカの態度、声、視線。様々な要素をつぶさに観察し、その結果、この程度ならば許されると踏んでのことだ。
実際、ダンテがアンジェリカの唇から指を放しても、彼女はまるで言葉を忘れてしまったかのように沈黙していた。
「貴様、なにをしているっ!」
「アンジェリカ様っ」
ただ、アンジェリカが許しても、周りの連中まで許してくれるわけではない。
先ほどとは明らかに違う、殺意すら籠った強い言葉がぶつけられ、取り巻きの男たちが2人の間に割って入る。
あっという間にアンジェリカとダンテの間には人の生け垣が出来てしまった。
「おやおや」
そんな風に険悪な空気が漂っているのにも関わらず、渦中のダンテは余裕綽々として笑みすら浮かべていた。
「私は普通にレディと話をしようとしただけですが」
「黙れっ! アンジェリカ様の唇に無断で触れるなど、許されるわけがないだろうっ!」
取り巻きの男たちは口々にそうやってダンテを罵り、責め立てる。
だが、肝心のアンジェリカはというと、顔見ることはおろか声すら聞こえてこなかった。
「許す許さないはあなた方ではなく、レディが決めることですよ」
そう言ってダンテは肩をすくめると、アンジェリカにも自身の声が聞こえる様な声で告げる。
「まったく、あなた方はレディのことを一切見ようとしていないようですね。レディのためと主張しながら、結局はあなた方にとって利になる言動をレディに押し付けているだけにすぎない」
「減らず口をっ」
「ならこの中の誰がレディに愛をささやきましたか? 誰がレディ自身を見ましたか?」
結局、取り巻きの連中はブルームバーグ家から何らかのおこぼれに与ろうとしてこびへつらっている奴らがほとんどなのだ。
取り巻きの中の何人が、アンジェリカ自身のことを見ているのだろう。
アンジェリカは見目麗しい少女だが、それだけを理由に貴族たちが群がりなどしない。
それは非常に美しい顔を持つダンテに誰も話しかけてこなかったことからも明らかである。
みんな、アンジェリカだからではなく、ブルームバーグ伯爵家という絶大な力にこそ集まっているのだ。
「我々を侮辱するかっ」
ダンテに図星を突かれたからだろう。
取り巻きの中から一人の若い男が顔を真っ赤にしながら進み出て来た。
「これが侮辱に聞こえたのなら、君がそう考えている証左ですよ」
「貴様っ!」
男はそのままの勢いで白い手袋を外すとダンテ目掛けて叩きつけて来る。
その意味は、あなたに決闘を申し込む、という意味だ。
実に古式ゆかしい方法でもって喧嘩を売って来たのだが、ダンテはこれを買うつもりなど毛頭なかった。
だが無意味に挑発したわけでもない。
より自身をアンジェリカにアピールするため、噛ませ犬が欲しかったのだ。
ダンテは冷たい目で床に落ちた手袋へと目線を落とし、再び目線だけ動かして男を見る。
「君。自分のことなのだから、まさか代闘士を立てたりはしませんよね?」
「は?」
決闘とは言っても、貴族の場合は本人が戦うことはめったにない。
誰か騎士級の人物や傭兵を雇って、代わりに戦わせるのだ。
目の前の男も恐らくはそうするつもりだったのだろう。
「君はレディのことなのに自分の命程度もかけられないのですか? なるほど、怒るわけですね」
「き、貴様はどうなのだ!」
「当然のことを聞かないで頂きたい」
ダンテは両手を広げ、自分の横にも後ろにも人っ子一人居ない事をことさらに強調してみせる。
「私はいつ如何なる時でも、私のために私が生きる。レディのために戦う時はもちろん私自身の命を賭けますよ。でなければ失礼というものです」
ダンテは生き馬の目を抜く様な世界を、自らの力でくぐり抜けて来た。
甘やかされ、何もかもを他人にやってもらい、金や安全も保障されて生きて来た貴族などとは根本からして違うのだ。
覚悟も、実力も、自信も、何もかもが男を圧倒していた。
ダンテが冷ややかな目で見ているだけで、男の額からダラダラと脂汗がしたたり落ちる。
「くっ」
今、男は人生の岐路に立たされていた。
自身が決闘しなければ、アンジェリカの信用を失ってしまう。しかし、信用を得るためには自身の命を賭けなければならないのだ。
どちらの道を選択しても、終わりなことに変わりはなかったが。
「…………」
そんな風にして選択すら出来ないでいる男を冷ややかな目で一瞥し、ダンテは足元の手袋をつまみ上げる。
本来ならば、手袋を拾い上げた時点で決闘は受諾されたことになるのだが、自分が望んでやったことだというのに男は顔をひきつらせていた。
ダンテはそんな男に無言のまま歩み寄ると、
「落としましたよ」
なんて言葉を笑顔と共にぬけぬけと言い放った。
もちろん、そんな間抜けな話などありはしない。
だが、散々真正面からダンテに脅された男は、その言葉を否定することなど出来なかった。
「気を付けてください」
ダンテは男の燕尾服に付いた胸ポケットに手袋を突っ込むと、バカにするかの如く二度ぽんぽんと叩く。
「決闘と勘違いされてはことですからね」
そこまでされたというのに、男からの返答はなかった。
ダンテは満足げに頷くと、手を振ってアンジェリカと自身の間にあった人の壁を割る。
自身の責任を自身で持てない連中だ。抵抗など出来ようはずが無かった。
「レディ」
人の波間に立っているアンジェリカへと、一礼する。
「今日の所はこれでお別れです」
「……何故ですか?」
アンジェリカにしてみれば、これだけモーションをかけられたのだ。
ダンテが素直に退いてしまうことが信じられないだろう。
「あなたと踊れないこの舞踏会に、これ以上居る意味はありませんからね」
あくまでも目的はアンジェリカなのだと、ダンテは告げる。
果たしてアンジェリカの人生で、これほどまでに強くアンジェリカ自身を求められたことがあるだろうか。
間違いなく無かっただろう。
そして、それこそがダンテの目的であった。
ただ挨拶をして褒めただけであれば、アンジェリカはダンテのことを見栄えのいい男が居た、程度にしか認識しないだろう。
それでは壁にかかった絵画と同じでしかない。
そんな事ではアンジェリカの心を奪うことなど夢のまた夢。
だからダンテはここまでしたのだ。
今、アンジェリカの中にダンテという存在が強く焼き付いたはずである。
それがどのような感情であるかはまだ分からないだろうが、少なくとも取り巻きのようなその他大勢のくくりから抜け出したのは確実だった。
「それでは、失礼いたします」
アンジェリカが答えを出す前に、ダンテは悠然とその場を離れて行く。
本当にこの舞踏会を後にするために。
誰も、そんなダンテを止めることなど出来はしなかった。
ダンテはそのままの足でホールを抜けると衛兵たちに断ってから屋敷を後にする。
しばらくダンテ一人で夜道を歩いていると、慣れ親しんだ足音がダンテを追いかけて来た。
「やり過ぎだ、お前」
そんな文句と一緒にダンテは肩を軽くどつかれてしまう。
「アル、いつの間に逃げてたんだ?」
ダンテが一人で取り巻きとやり合っていた最中、従者であるはずのアルは完全に姿を消してしまっていた。
「逃げてたんじゃねえ。なんかあったら大きな騒動を起こしてお前が逃げ出せるように準備をしてたんだっつーの」
「本当か?」
もちろんダンテは本当にアルのことを疑っているわけではない。
アルがそう言っているのならそうなのだろう。
今までも彼らはそうやって互いを助け合い、様々な危険を潜り抜けて来たのだから。
「だったらテメーはもう助けてやんねえぞ。一人で突っ込んで野垂れ死ね」
「それは困るな。じゃあコイツで買収するとしようか」
ダンテはそう言うと、手首をくるんと回転させる。
すると魔法のように、小さくも美しい光を放つダイヤモンドがダンテの掌の上に現れた。
それを見咎めたアルが、チッと舌打ちをして顔を歪める。
「てめっ。人には色気出すなって言っといて、自分はやりやがったのか」
「あいつが俺に決闘なんか仕掛けてくるのが悪いんだ」
男は貴族らしく、いくつか装飾品を身に着けており、それがちょうど胸ポケットの近くにあったため、ダンテはそこからダイヤをひとつ失敬したのだ。
ダンテが手袋を返す際、わざと男の胸ポケットに詰め込んだのにはそういう理由があったのだ。
男は面目を潰され、高価な宝石は盗まれと、踏んだり蹴ったりな目にあっている。二度とダンテと関わり合いになりたくないだろう。
アルは喉の奥でクククッと笑いながらダンテの肩に手を回す。
「まずは親父に換金してもらうとするか」
「ああ」
そうして二人の詐欺師は帰路に就いたのだった。
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