それから翌日、翌々日、さらに次の日からもずっと、アンジェリカは毎日学校にやってきてはダンテとの時間を楽しんでいた。
彼女が父親をどのように説得したのか、それとも無理やり我が儘を通しているのか、ダンテに知る術はない。
重要なのは、ダンテたちの思い通りに事態が進みつつあるということだった。
「ダンテさま、ダンテさまはこれからどうなされますの?」
校舎の廊下を歩いているというのに、アンジェリカはダンテの左手に両手を回し、抱きかかえるようにしている。
片時も傍を離れたくないといった様子なのだが、それでも離れなければならない時もあった。
「私はこれから剣術の稽古だね。アンジェは……音楽だったかな?」
学校では男女によって授業が分かれる事もある。
男性は戦場で戦う事態になった時のため、剣術や乗馬、軍略などの授業を受けなくてはならず、女性は芸術や女性に対する医術などを学ぶことになっていた。
「はい、ですのでご一緒できなくて残念ですわ」
「私もアンジェの綺麗な歌声が聞けなくて残念だよ」
ダンテがそう言うと、アンジェリカは恥ずかしそうに顔を伏せる。
「えっと、私の歌は、まだ練習中ですので……」
決して彼女の歌が下手ということはない。
売り物としての価値を高めるため、男性に気に入られるための技能は徹底して叩き込まれている。
一人で練習をしていたと自慢げに胸を張って踊りだした挙句すっころんでしまったベアトリーチェよりは、格段に腕前は高いはずだ。
「ふふっ。なら最高の歌が聴ける日を楽しみにしているよ」
「…………っ」
ダンテに自らの歌を聞かれることへの羞恥と、ダンテから褒めてもらうことへの欲求がせめぎあっているのか、アンジェリカはしばらく沈黙する。
しかし、ダンテのお願いには結局勝てなかったのか、アンジェリカはダンテの腕に頬をこすりつけるようにして頷いたのだった。
「それじゃあアンジェ。私は行かなければならないから」
ダンテは空いている腕でアンジェリカを軽く抱きしめ、頬を触れ合わせて軽くビズを行う。
「また終わったら、ね?」
「は、はいっ」
ダンテはアンジェリカから体を離すと、背を向けて歩き出した。
剣術の訓練にはいくつかの道具が必要になる。
もちろんそれらの道具は自前で用意せねばならないのだが、革製の防具や木剣は非常に場所を取るため、校舎の端に設けられたロッカールームを利用することになっていた。
アンジェリカと睦み合っていた間に、他の者は既に準備を終えてしまっていたのかロッカールーム付近にはひとの気配がほとんどない。
少し急ごうかとダンテが足を速めようとした瞬間――。
「早く早くっ。来ちゃうわよっ」
「分かってるわよ」
女子生徒二人が、ダンテが使っているのとは別のロッカールームへと入っていくのを目撃してしまった。
その二人がただ自分の荷物を取りに来ただけであるのならば、ダンテも無視して自分の用事をすませただろう。
しかし、重そうにバケツを持っていては、さすがに放っておくわけにはいかなかった。
「チッ、あいつら……」
最近、ダンテはアンジェリカと時を共にし、アルはフェリドを警戒してダンテのそばを離れなかった。
その結果、誰が割を食うのか。
――ベアトリーチェである。
ベアトリーチェはアンジェリカとその取り巻きの女生徒たちから良いように使われていた。
さらには嫌がらせとしか思えない様な行為も行われていたのだ。
それをダンテたちはやめさせようとしたのだが、そういったことは口で言って止まるものではない。
特に自己顕示欲の強い貴族は、何か下の存在をいたぶることで、自分が上の存在であると確認しようとする。
貧乏で体も小さく、権力も持っていないベアトリーチェは、格好の獲物なのだ。
ダンテはわざと足音を立てて廊下を歩き始める。
なんらかのいたずらをするであろう女生徒たちへの牽制だったのだが――。
「失礼」
ダンテが軽くノックをしてロッカールームへいささか強引に入った時、女生徒ふたりは既にことを済ませた後だった。
ロッカールームは、小部屋の両壁に二つずつ鍵付きの衣装棚が備え付けられていて、四人の生徒がひとつの部屋を使うようになっている。
そのうちのひとつ、恐らくベアトリーチェが使っていると思しき棚に、泥水がぶちまけられていた。
かけ方が雑なのはダンテの足音に気づいて行動を急いだのかもしれない。
「ダ、ダンテさま……」
「あ、あの……これは……」
震えている女生徒たちは、アンジェリカの取り巻きの中にいたふたり、過去、ダンテはベアトリーチェに嫌がらせをしないように何度か言い含めていた。
それでもこんなことをしでかすのだから性根は完全に腐りきっているのだろう。
「べ、ベアトリーチェが、ダンテさまの周りをうろちょろしていたので!」
ベアトリーチェはお礼と称して度々ダンテやアルにサンドイッチを差し入れていた。
もちろん、周りに見られない様こっそりと行っていたし、校舎の屋根に設けられた秘密の場所で食べていたのだが、それでも完全に見られないでいることは不可能だったらしい。
おそらくこの二人はアンジェリカに忖度してベアトリーチェをダンテから遠ざけようとしたのだろう。
「そ、そうなのですっ。ダンテさまにはアンジェリカさまという思い人がいらっしゃるのに、あの貧乏人が――」
ダンテは口々にわめかれる言い訳など聞く気はさらさらなかったのだが――。
「――なるほど」
ふと、気づく。
ダンテの近くにベアトリーチェが居るだけでこうして彼女に危害が加わってしまうことに。
今回は女生徒が行ったいたずらでしかないが、もし、フェリドがベアトリーチェになんらかの価値を見出したとすれば、ダンテのせいで危機に陥ってしまう可能性があった。
「君たちは私たちのことを考えたから、こうしてくれたんだね」
「は、はいっ」
「おっしゃる通りなのです!」
ふたりはダンテの示した逃げ道に、しっかりと喰らいつく。
ダンテとしては、こんな連中を許したくはない。
しかし、目的のために見逃さざるをえなかった。
「……こんな方法を君たちに取らせてしまったことが私の失態だよ、すまないことをしたね」
「え、いや、その……」
ダンテは優しく微笑みかけると、顔を引きつらせている女生徒からバケツを受け取った。
「あとは私がやっておくから君たちは授業に戻りなさい」
「そ、そんなっ。ダンテさまのお手を煩わせるわけには――」
「いいから」
ダンテは笑顔を崩さないまま、ふたりの女生徒を室外へと追い出してしまう。
扉を後ろ手に閉めたダンテは、惨状を前に顔を歪める。
「まったく……」
泥水をぶつけるように掛けたのか、ベアトリーチェの衣装棚は上部から泥まみれになってしまっている。
鍵を開けなければ分からないが、恐らく棚の隙間から侵入した泥水が、中にあるベアトリーチェの荷物をぐちゃぐちゃに汚していることだろう。
「さて、と。このまま待った方がいいか……。授業が終わってすぐなら間に合うか?」
ダンテはこの惨状を前にしたベアトリーチェと話し合うつもりであった。
目的は――。
「あれ? ダンテさ……ん……」
ダンテが思案していたところに折よくベアトリーチェがやって来る。
彼女はロッカールームに入るや否や、目の中に飛び込んできた惨状に、口をぽかんと開けて固まるしかなかった。
「ちょうどいい。ベアトリーチェ、話がある」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!