記憶とは泡のようなものだと誰かが例えていた事は覚えている。しかし、その言葉を誰が言ったのかはどれだけ記憶の底を漁っても出てこない。

それでもその言葉を想起するという事は多分それは記憶ではなく感覚として私の身体に染み付いているのだろうと私は考える。

なるほど、記憶が無くても身体が覚えているという実例もあるくらいだ、身体中に染み込んだ経験は記憶よりも得難いものだろう。

私は一人で誰もいない空間に向かって頷く。頭の中で自問自答を繰り返す。これもいつもしている事なのだろうか、何故だかピタリとピースがハマったかのようにしっくりときた。

それでも忘れたままだというのも癪だ、魚の骨が喉につっかえるくらいに不愉快だ。折角だから思い出すのを頑張ってみるとしようか時間もあることだしね。

──いつ？　わからない。

──どこで？　わからない。

──だれと？　きっと僕の知っている誰かと。

──じゃあ、誰を知っている？　誰⋯⋯誰⋯⋯

記憶の中には知り合い一人の顔すらも浮かんでこない。なのに知り合いという単語は知っている、おかしなものだ。どうにも頭の中に霧がかかったように思い出す事ができない。

思い出せなくても支障はないはずだ、なのに胸がざわつく。私はのんびりと歩を進めながら、必死に思い出そうとする。

その行為は手ぶらで闇の中を歩いている今とどっちが危険なのだろうか。もしかすると身体がその記憶に対してフィルターをかけているかもしれないのにそれを取り払おうとしているわけだから。

──しかし、今気付いたが私はどこを歩いているのだろう？

意識が記憶と考え事の中からこちらへと帰って来た。立ち止まって周りを見ても暗い風景が延々と続いているのが見えるだけ、そんな道を行き先もわからぬまま無意識の私は歩いていた。ただ黙々と黒い緞帳が幕を張ったような暗闇の中をただ一人で。

いつのまにか、ここを歩くのを当然の事だと思い込んでいた。まるでプログラムされた機械のように私は暗闇を歩き続けていた。

──それは誰の意思？　私⋯⋯それとも⋯⋯

パン！　何かを考えようとした瞬間何処かから破裂音が聞こえてきた。

あれ、私は一体何を考えていたのだっけ？　確か⋯⋯そうだ、知り合いの事だったよね。それよりも、何で私はここで止まっているのだろう？

──行かなくちゃ。

遠くでゆらゆらと何かが揺らめいているのが見える。それに向かって歩を進める事にした。

その場所では、ぼんやりとした光が灯った泡が私を待ち構えていた。それはシャボン玉のように浮かんでいる、大小と大きさが違うのは何か理由があるのだろうか？

とりあえず、目の前のシャボン玉をつついて割ってみた。そうすると、頭の中がすっと軽くなったような気分を感じた。

その感触で私の背筋はぞぞぞっと得体のしれない悪寒が走っていく。これはダメだ、割っちゃいけないものだと理解して距離を置く。

記憶は泡みたいなものと考えている、もしかするとこれが私の記憶なのか。とすると、さっき割れたから私の記憶は一つ少なくなったわけだな。

それでも、人は常に忘れながら生きているというのが私の自論だ。だから別に少しくらい割れても構わないかという考えが浮かんでくる。

好奇心でこの無数の泡を割ってしまいたくなるが無理矢理その好奇心を心の奥底へと封印をし鍵をかけた。

人の身体とは記憶全てがなくなっても動くものなのだろうか？　それだけは気になる⋯⋯一個ぐらいならいいかも。その瞬間、また一つ何かが割れた。

⋯⋯あれ、私はさっきまで何を考えていたんだったっけ？

まあいいか、と思い出せないので放っておく事にした。どうせろくでもない事だろう、自分の事は理解しているつもりだ。

⋯⋯こんな風になってしまったのは何でだったのだろうか、思い出そうしても思い出せない。

きっと、その泡はもう割れてしまったのだ。そう考えた後に虚無感を覚えた。

しばらく辺りを見回しながら薄暗い場所を進んで行くと『それ』はあった。

『それ』から目が離せない。あれは一体何だろう？

『それ』がどんどんと大きくなっていくのが見える。気がつけば私はいつの間にか『それ』へと歩み寄っていた。

近くで見ると『それ』は、私の身体全体を包んだとしても尚余裕のありそうな大きさをした巨大な泡だった。

ザザザ⋯⋯

頭の中にはノイズが警告音のように鳴り響いている。

それでも私は歩みを止めずに『それ』へと向かう。『それ』に近づいて行くと『それ』からは音が聞こえてきた。

ギッ⋯⋯ギッ⋯⋯

何かを切っているような音が、さっきからずっと目の前の泡から聞こえる。

手元を見ても何も見えない、闇に包まれたままだ。なので私は音から何の音か判別するしか出来なかった。

耳を澄ませて聞いてみる、この音は⋯⋯だな。姿形は見えないけど何故かそんな確信があった。

ギッ⋯⋯ギッ⋯⋯

その音が鳴っている所へとようやく辿り着く事が出来た。

『それ』は真っ黒に覆われている泡だった。何でこんなに惹き付けられたのだろうか？

考えている最中にも鋸の音が目の前から聞こえている。

その鋸が何かを切る音が聞こえる度、視界を覆っていた闇がどんどんと赤く染まっていき、それと共に「ああ⋯⋯」と聞き覚えのある声が耳に響いた。

それは、今まで聞いた事のない恍惚とした声を上げていたが誰の声かだけはすぐにわかった。

⋯⋯私の声だ。

なるほど、どうやら私が何かを切っているらしい。

何を切っているのかは皆目見当もつかないが、楽しそうに鼻歌混じりな所を見るに相当に機嫌が良さそうだ。

赤い色がどんどんと広がっていく、その部分だけは闇が払われていく。

闇が消えた部分には何かが映っているのが見えた。まるで、録画したドラマを見返しているような⋯⋯『それ』をじっと見ていると足りない何かを満たす快感に昂りを覚えそうになる。

その快感に飲まれないように意識をしっかりと保つ、何でこんなに興奮しているんだろう⋯⋯考えても答えは出ない。

──ザザッ！

その瞬間、視界にノイズが走り、頭に割れそうなほどの痛みが襲う。

頭を押さえようとするが身体は思ったように動かない。

──ザザッ！

そうだ、この光景は⋯⋯

──ザザザザザザザザ。

さっきよりも強くノイズが走る、痛みが更に増していく。

痛い、痛いけど思い出さないといけない、これを、見ないといけない⋯⋯何故かそんな使命感が胸を襲った。

その使命感に促されるまま、意識を集中させてみると闇がかかっていたその物体が鮮明に浮かび上がっていく。

──記憶が、甦ってくる。

知らなければ幸せだったのに、忘れていたままでいれば、思い出さなければ辛い思いをしないでよかったのに。

──その物体は、人だった。もっと正確に言えば⋯⋯人だった「モノ」。

その人物の名前はおろかどういう関係だったのかも思い出せない。

一つだけ見てわかったのは女の人だ。それ以外は何もわからない、思い出せない。

ただ、頭と胸の奥が痛い。ずくん⋯⋯ずくん⋯⋯と身体の芯から痛みが全身に広がっていくように感じる。

──い。──たいよ。

彼女だったモノは何かを訴えるように声を上げている。

その声に私はハッとして何とかして止めようとするが、起きてしまった事は変えられない事に気づく。

人は、過去を変える事は出来ないのだ。一度ひび割れてしまったモノは完全に治す事が出来る訳がない。

⋯⋯彼女が声をあげれなくなるまで時間はかからなかった。

最後の方ははぐちゃぐちゃと何かが潰れたような音が口から漏れていただけだ。

目を背けたくなる光景が目の前に広がっている。しかし、目を離す事は出来なかった。

きっと、これが私の罪だと何かにずっと責められ続けているのだ。

私は地面に座り込み、人であった物を抱きしめて泣いている。

自分がやったのにまるで悲劇の主人公気取りな事に自分の事ながら腹が立つ。

その景色は、やがて破裂するかのように私の視界から消えていった。

茫然としながらそこで立ち尽くしていると、突然地面がなくなり、私の身体は落下し始めた。

どこへでも落ちていけばいいと思ってしまった。抗おうとする力さえ残っていない。

何で私はこんなにうちひしがれているのだろう。

生きようと思う心が死んでいる、『　　』とともに死んでしまった。

『　　』？　一瞬、誰かの事が思い出せそうな気になる。しかし、思い出そうと意識すればするほどそれは遠ざかっていく。

『　　』の記憶はもうとっくに割れてしまっているのだろう。『　　』の事を思い出せない事に私は涙を流した。

落ちていく、更に、更に深い闇へと⋯⋯

ああ、そうだ私は⋯⋯『　　』のことが⋯⋯だから⋯⋯

──そして、意識はゆっくりと覚醒していく 何も待つものがない世界へと向かって。

私は、ゆっくりと目蓋を開けて目を覚ます。そこにはいつもの見慣れた景色が広がっていた。

まず目に入ったのは白い天井、そしてそのまま視線を横に落とすと白い壁と扉が見える。⋯⋯ここは全てが白に囲まれた部屋だった。

白石病院二〇三号室、これが今の私の生活の拠点になって幾年。

私以外誰もいない部屋。ここは俗にいう隔離病棟と言われる場所だった。

うん、今日も覚えている。自分の記憶に欠落がない事に安堵する。

まあ、忘れていたら確かめようもないんだけどな。私はそう軽く自嘲した。

「⋯⋯おはようございます」誰もいない空間にぽつりと呟く。そして上半身を起こすと少しベッドが軋む音が部屋に響いた。

顔が濡れている事に気付き指を当ててみる。そうすると、指に水滴がついた。

どうやら、眠っている間に泣いていたらしい。

夢の内容は思い出せないが、ひどく悲しく夢を見た事だけはわかる。

しかし、いやに身体が重いな⋯⋯ん、なんだこれ？

私は手に当たった物を拾いあげる。──それは千切れたベルトだった。

今気付いたが、手首には真っ赤な後がついている。軽く動かすと痛みが全身に走ったかのように痛んだ。そして、痛みと共に記憶が蘇る。

──ああ、そうだ。何で忘れていたんだろう。

忘れてはいけない事を忘れていた。それは、私の病気の話だ。

手がヒリヒリと痛むので見てみると、眠る前は深爪になりそうなほど短く切られたその爪が少し伸びていた。そして、マニキュアでも塗ったかのように真っ赤に染まっている。

それをしばらくじっと見ていると、首から何かが垂れてくるのがわかったのでそこに手を伸ばしてみる。

「⋯⋯ッ！」

痛みを首に感じ、弾かれたように手を首から離した。呆然としながらその手を見てみると手は朱肉に押し付けられたみたいに真っ赤に染まっている。

その後、遅れて首から垂れたものが白いシーツに赤い斑点を作っていった。

これが、私が隔離病棟に入れられている理由。私の病状は話せば誰だって私の元から離れていくだろう。

でも、もういいか⋯⋯どうせ近寄ってくる奴なんていないし、言ってしまおうか。

──『殺人衝動』これが私の心に巣食っている病名だ。

私の周囲ではいつの間にか人が消える事件が起きていた。冗談半分で同僚に私が犯人だってからかわれる事もあったっけな⋯⋯

私がやった事は私すら自覚していなかった。気付いたのは三十人目を殺した時だ。

その時初めて、私は人を殺している最中に目を覚ます事が出来た。そして、私はそのまま自首をして今に至る。

「⋯⋯もう長くないかもな」

また誰もいない空間にぽつりと呟いた。

この症状は人を殺さなくなった私を殺す事でその餓えを満たそうとしている。拘束すら役に立たない。気が付けば私は自分を傷付けていた。

そうだ、私は私に殺される。寝ている間にじわじわとなぶり殺されるのだ。

それが私の死刑宣告。いつ死ぬかわからない余生を過ごすのが私への罰だ。

そうして私は今を生きている。この何もない世界に一人きりで、死を待ちながら。

殺人衝動。 死を待つあなたへ。

殺人衝動。死を待つあなたへ。