男は、窓から外を眺めていた。
歴史を感じさせる、古色然とした深みのある窓枠。
はめ込まれたガラスは厚みがあり、水晶のような透明度を誇っている。
明かりの落とされた部屋、月明かりが青白く忍び込んできていた。
そこから見えるのは、夜の闇に包まれ、僅かに明かりがまばらに見える王都…昼間の喧騒が嘘のように寝静まった、人気のない街並み。
時折、風が街路樹を揺らし、噴水の水路を揺らし…しかし、それだけで。
そんな景色を見下ろしながら、ぽつりとつぶやいた。
「いよいよ、明日、か……」
男の顔に、深い笑みが刻まれる。
もしもこの瞬間にその表情を見たものが居れば、背筋を凍らせたであろうその笑み。
抵抗できない獲物を前にした肉食獣のごとき、猛々しさと傲慢さで染まった表情。
吊り上がった唇からは、それこそ牙のような犬歯が覗く。
「宰相の奴も、まだ気づいてはおらん……もはや、止めることなどできはしない。俺の勝ちだ」
くっくっくっ、と声を抑えながら喉を鳴らす。
寝室、なのだろう。天蓋が付き精緻な彫刻が施された、三人は楽に寝られるであろうサイズの大きな寝台。
当代きっての名手と言われる画家の書いた風景画、繊細でありながら計算しつくされた配色の磁器、どれほどの手間がかかったかわからぬほどに複雑な模様を描く、毛足の長い絨毯…。
数え上げればきりがないほどに豪奢な部屋。
そこに一人佇む男の声は、誰にも届かない。
いや、誰かを傍に置くことなどできなかった。
長年の宿願、この王国の実権を我が手に。
ようやっと、その宿願が叶うのだ。わずかな情報の洩れも許されない。
男には、心を許せる部下はいなかった。
しかし、金を払えば払っただけの仕事をこなす部下には事欠かなかった。
それでいい、腹心などに頼るのは失われた時のリスクが大きすぎる愚の骨頂だ。そう、信じてきた。
そして今、まさにそれが結実しようとしている。
「長かった……長かったぞ……くくっ……ははっ、はぁっはっは!!」
かつて貴族の最高位、公爵として振舞っていた先祖。
しかし、政争に敗れ所領は没収され、今や伯爵位にまで落ちぶれてしまっている。
しかし、そんな日々ももう終わるのだ。そう、明日から。
「愉快だ、実に愉快だ……最高の気分だっ!!」
高揚が最高潮に達し、芝居じみた仕草で両手を広げ天を見上げた、その時だった。
「ぐがっ!?」
突如首筋に、否、後頭部に感じる、冷たく鋭い痛み。
無機質で致命的な何かがするりと滑り込むように突き入れられ、体の中枢を断ち切っていくのが、嫌に鮮明に感じられた。
慌てて振り返ろうとするが、体に上手く力が入らない。
……違う、体に力が入る入らないが、わからない。
呼吸が、上手くできない。
いや、それすらもわからない。
体から、反応が返ってこない。
延髄、と呼ばれる脳の一部。
脊髄へとつながり、体の各所へ延びる神経へと指令を伝達する、その大本。
そこが、差し込まれた刃によって、断たれたのだ。
男本人には、そこまで正確に知る術はなかったのだが。
崩れ落ちる体、それでも驚くべき執念と精神力で体を捩る。
何がおこったのかを把握しようと。
そしてその目に映る、黒い影。
そこにいたのは、底知れぬ虚無を感じさせる女だった。
闇を纏ったかのような黒い衣は、体の動きを阻害しないシンプルで機能的なもの。
折れそうな程に細く、触れれば切れそうな程に鋭さを感じる肢体。
光を吸い込みそうな長い黒髪が、かすかにふわりと踊っていた。
月の光そのもののような白い肌、その顔は冷たく整っていて……表情は、底知れない場所に引きずり込まれそうな程に、無表情だった。
今まさに、男の命を刈り取ったというのに、そのことに何の感慨も見せないその顔。
それが酷く理不尽に感じられて、憤怒の形相で女を睨む。
あと一日、いや半日で宿願が成就したというのに。
自身の、そして先祖代々の恨みを込めたその表情は、それだけで命を奪えそうな程だったというのに。
女の表情は、僅かにも動かなかった。
そして。
体が、落ちる。
呼吸も、鼓動も、止まったのだろう。
ゆっくり、ゆっくりと死が近づいてくるのを感じた。
嫌だ、死にたくない、死にたくない!!
叫んだつもりが、声にはならなかった。
……やがて、男の意識は闇へと落ちて。
女は、その亡骸に幾度か触れ、死を確認して。
すぅ……と。
闇に溶け込むかのように、その姿を消した。
その翌朝、伯爵の死が王都を騒がせることになる。
厳重に施錠された部屋の中で一人。
鍵をこじ開けた、あるいは道具を使って開けた形跡もなく、誰かが出入りした様子もない。
いわゆる密室と呼ばれる中での暗殺に、現場を検分した衛兵隊長は小さくため息をつきながらこぼした。
「またか」と。
ジュラスティン王国の王都ジュラスティナ。
広大で肥沃な大地から得られる富を集め繁栄するその都では、まことしやかにささやかれる都市伝説があった。
いわく、深夜に一人部屋にいると、窓をすり抜けて亡霊が忍び込んでくる。
その刃から逃れることはできず、狙われたが最後、命はもはや長らえない、と。
その都市伝説がある意味真実だと、その刃にかかったものは知ることになるが……もちろんそれは、誰にも伝えられない。
少女を出迎えたのは、悪党だった。
人を人とも思わない死の商人と、自分を人と思わない少女は何を思うのか。
次回:「ゴースト」と呼ばれる少女
暗殺少女は、夢を見ない。
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