その日の真夜中。
トイレのために起きた僕は、用を足した後も部屋には戻らず、なんとなく廊下を歩いていた。
『どうした、バルトルト。眠れないのか?』
そういうわけではないが……。
このリーゼルとフランツの家は、外から見た第一印象では、広々とした緑の中にある大邸宅。中に入ってからも、その印象は変わっていなかった。
『そういえば、まるで宿屋みたいだ、って言ってたな?』
家の中を歩き回っても、そう感じてしまう雰囲気だ。
ただし、あくまでも『そう感じてしまう』だけであって、実際には個人の邸宅なのだ。特に今のような時間帯に、住人であるリーゼルやフランツの寝室に近づくのは失礼に当たるだろう。
だから本当は、ウロウロするべきではないのだけれど……。
『そこまでわかっていながら、どういう風の吹き回しだ?』
ダイゴローに質問されて、答えようと考えるうちに、「なんとなく」だった気持ちが少しハッキリしてきた。
おそらく「もう最後だから」という思いが、僕の中にあるのだろう。
予想通り明後日アーベントロートを発つのであれば、今度は馬車ではなく徒歩かもしれないし、ならば朝早くに旅立つ可能性が高い。その場合明日の夜は、出発前夜という意味でバタバタするだけでなく、早く寝ないといけないだろう。のんびり夜を過ごせるのは、今日が最後となるのだ。
『おいおい。今夜だって、しっかり眠っておかないとダメだろ。明日は、モンスターが出る森へ行くんだぞ』
それは承知しているが、でも戦う機会はあまりないはず、と僕は考えていた。
カトックの目的は自警団の日常を見せることであり、そこには「カトックがいれば他所者の冒険者は必要ない」と示すことも含まれている。ならばモンスター襲撃事件の時と同じく、僕たちカトック隊には手出しさせないだろう。
『確かに、その予測は成り立つが……。だからといって、油断し過ぎるなよ? 何が起きるか、わからないからな』
そう諭すダイゴローだが、「だから早く寝ろ」とまでは言わなかった。今この瞬間、のんびりも少しならば構わない、と彼も思ってくれたらしい。
そもそも、こうやって脳内会話をする間に、眠気が覚めてしまった感もある。ふと廊下の窓から夜空を見上げると、きれいな月が浮かんでいた。
『ああ、家の中よりは、外を散歩した方が健康的だぜ。誰かが寝てる部屋には近づかない、という意味でも』
と、僕の心中を察するダイゴロー。
頷いた僕は、月の明かりに誘われるようにして、裏口から庭へ出るのだった。
敷地や建物が大きいだけあって、裏庭も広い。
アーべラインのカトック隊の家でも、部屋の位置的に裏庭は見慣れていたが、あちらの庭とは雰囲気が違う。農地の畑と繋がっているのだろうか、庭を囲む柵が存在せず、公園や空き地のようなスペースに感じられた。
大きな木が立っているのはカトック隊の家と同じだが、こちらは一本ではなく、何本も生えている。中には、手作りのブランコが枝からぶら下がっている大木もあった。
『妙だな? ここの家に、ブランコ遊びをするような子供はいないが……』
子供が生まれた時のために、今から用意してあるのだろうか。あるいは、近所の子供たちを遊ばせるためだろうか。
『可能性としては、あの夫婦が子供を亡くしてる、ってのも考えられるぜ』
ダイゴローが悪い想像をしてしまうのは、真夜中のテンションなのかもしれない。
暗い可能性を考えると、しんみり湿っぽくなるが……。そんな事情は聞かされていないのだから、敢えて考えたくはないし、そもそも考えること自体が失礼だろう。
こうして。
少しの間、一人で――いや僕の中にいる相棒をカウントするならば二人で――夜の散歩を楽しんでいたのだが……。
ドン、ドンと、何かを叩くような鈍い音が聞こえてきた。
『おいおい。無人の夜の庭で物音とは、穏やかじゃないな。ちょっと不気味なくらいだぜ』
「怖がらせないでくれよ、ダイゴロー」
思わず、声に出して反応してしまう。
こういう場合、逃げるという選択肢もあるが……。むしろ逆に、音のする方向へ足を進めることにした。
『怖いもの見たさ、ってやつだな』
好奇心というより、正体不明のままにしておくのはかえって怖い。そんな心境ではないだろうか。ダイゴローに言われたせいで、意識していなかった自分の行動理由を考える形になってしまった。
どちらにせよ、なるべくこちらの存在は秘密にしたい。だから足音を忍ばせて、息を潜めて、そうっとそうっと近寄っていくと……。
「どうして……。どうして……」
女性のすすり泣きが聞こえてきた。
さらに近づくと、それらの正体が判明する。
一本の大木に重なるようにして、人影が一つ。
一瞬ドキッとしたが、でも大丈夫。オバケでも何でもなかった。
部屋着である赤色ジャージを着た、僕たちの仲間。ニーナだったのだ。
『ああ、そういうことか……』
納得するダイゴローの声には、哀れむような響きも含まれていた。
「カトック……。どうして……」
木の幹に顔を埋めて、額をこすりつけるような姿勢で、嗚咽するニーナ。ドン、ドンと大木に拳を打ち付けているのは、やり場のない悲しみをぶつけているのだろう。
『あれだけハッキリ、カトックから言われちまったからなあ。カトック隊に戻るつもりはない、って。ニーナにしてみれば、泣くしかない心境だろうぜ』
それでも彼女は、冒険者パーティーのリーダーという責任ある立場だ。みんなの前では涙を見せなかったし、仲間たちと同室だから、ベッドに入っても枕を涙で濡らしたくはなかったのだろう。
こうして、わざわざ一人になって、溢れる涙とやるせない気持ちを発散させているのだ……。
『わかってるな、バルトルト? 下手に慰めに行ったりせず、そっとしておけよ』
もちろんだ。
ニーナにしてみれば、誰にも見せられない姿なのだ。
僕はゆっくりと回れ右して、来た時以上の慎重さで気配を隠しながら、その場から立ち去るのだった。
同時に、改めて僕は確信していた。
明日がアーベントロート滞在の実質的な最終日。つまり、カトックの顔を見るのも最後になるのだろう、と。
建物まで戻ったところで、また見上げれば、相変わらず夜空には美しい月が浮かんでいた。幻想的にも思える、うっとりするような月だ。その月明かりの下では、一人の少女が悲しみに暮れているというのに……。大きなギャップを感じてしまう。
『お前らしくないな、バルトルト。でも夜っていうのは、そういうもんなんだろう。変にロマンチックになったり、妙なことを考えたりするようだが……』
たった今見たばかりのニーナの様子を思い浮かべて、彼女のカトックへの想いの強さに、僕は改めて心打たれていたので……。
ある意味、ダイゴローの言葉はタイミングが良かった。
『……知ってるか? 俺の国では「月がきれいですね」って言葉に「あなたを愛しています」って意味もあるんだぜ。俗語だけどな』
翌日。
「おはよう!」
朝食の席で顔を合わせたニーナは、真夜中の姿が夢だったかのように、明るい笑顔を浮かべていた。泣き腫らした痕も全く見えない。
でも痕跡が残っていないからこそ、自然な表情には思えなかった。吹っ切れたから笑っているのではなく、みんなの前では無理して表情を作っているのだろう。そう感じてしまった。
そして、朝食の後。
「さあ、行こう! 久しぶりにカトックと一緒に出かけるの、楽しみだね!」
努めて元気に振る舞うニーナに率いられて、僕たち六人――マヌエラを含めたカトック隊――は、リーゼルとフランツの家を出発。
「そうね。ダンジョンではないにしても、モンスターが出現する森なのでしょう? そういう場所へカトックと行くのは、なんだか昔を思い出すわ」
と、クリスタはニーナに明るく返していたが……。ニーナが悲しみを隠しているのは承知の上で、敢えて彼女の体裁に合わせたのではないだろうか。
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