「痛っ!」
小さな叫び声を上げたのはフランツだ。
見れば、彼の額から一筋の血が流れていた。
妻であるリーゼルが、慌てて駆け寄る。
「大丈夫かい、あんた?」
「心配することはない。ちょっとしたかすり傷だ」
余裕の笑みすら浮かべているが、出血している時点で痛々しく見えるし、無理しているように思えてしまう。
小石をぶつけられたのだろう。松明を投げられて火事になる、という最悪の想定に比べればマシかもしれないが……。
『いや、どっちもどっちだぞ。投石は投石で、当たりどころが悪ければ命に関わるからな!』
一人の短慮は一人に留まらず、全体に波及するのかもしれない。
「街にモンスターを呼び寄せた、諸悪の根源め!」
「しかもカトックさんを連れ去ろうだなんて! 悪魔の所業じゃないか!」
「出ていけ! アーベントロートから出ていけ!」
次々と小石が飛んでくる。
「おい、お前たち! 乱暴は止せ!」
ジルバが止めようとするが、頭に血が上った暴徒は聞き入れない。そもそも石を投げているのは、服装から判断する限り、自警団ではなく街の一般市民ばかり。自警団のサブリーダーが命令したところで、耳を傾ける義務も道理もなかった。
とりあえず、結果的には上手くいかないにせよ、騒動を鎮めようとしてくれるだけで、僕はジルバに感謝したいくらいだ。先ほどダイゴローが言っていた通り、案外ジルバは乱暴者ではなく、理知的な男なのだろう。
……と、彼を再評価したのだが。
「今日のところは、話し合いだけだ! だからこそ自警団だけじゃなく、みんなも連れてきたんだぞ? 実力行使に出るなら、俺たちだけでやる!」
ジルバは物騒な言葉を口にしていた。平和的な話し合いは『今日のところは』という条件付きらしい。
ジルバの発言とは関わりなく、僕たちに向かって投石は続けられる。
当たってもそれほど痛くないような、本当に小さな石ばかりであり、ふだんモンスターと戦っている冒険者にしてみれば、手で払いのければ十分という程度だったが……。
問題は、冒険者ではない者が二人いる、ということ。
「うわっ」
リーゼルはフランツに体を寄せて、頭や顔を手で覆っていた。
フランツも同じように身を守っており、表情を歪めている。妻に対して「心配することはない」と言ってみせた余裕の態度は、とっくに消え去っていた。
そんな二人を、見るに見かねて。
「ハッ!」
彼らに向かう小石を、カーリンが槍で叩き落とす。
僕やニーナの剣よりもリーチが長い上に、カーリンは技量も優れているのだ。こうして他人を守るには適任だと僕は思ったが……。
「ダメよ、カーリン!」
クリスタの悲鳴と、
「見ろ! 武器を抜いたぞ!」
「気をつけろ! 反撃する気だ!」
街の者たちの叫び声が、ピッタリと重なった。
『カーリンにしては珍しく、ドジを踏んだな。深く考える前に体が咄嗟に動いた、って感じか?』
今さら言っても仕方ないけれど、槍を使ってみせたことで、刺激してはいけない連中を刺激してしまったらしい。
ざわざわと騒ぎながら、まるで引き波のように、彼らは揃って後退り。一瞬だけ、投石も収まったが……。
「やられる前に、やっちまえ!」
群衆の一人が叫ぶと、それを合図にして再スタート。いっそう激しく、石が飛んでくるようになった。
もはやジルバも、彼らを止めようとはしなかった。それどころか、表情を険しくして、腰の剣に手をかけている。他の自警団メンバーも似たり寄ったりであり、中には、既に武器を構える者も出ていた。
「待ってくれ! そんなつもりはない! ただ、俺は……」
いつになく大きな声を出すカーリンだが、興奮する暴徒の耳には届かない。
次々と投げつけられる小石の中には、もはや『小石』とは呼べないサイズの石も混じっていた。
いや、石ばかりではない。燃えている松明を投げる者までいる!
「うわっ!」
「大変!」
僕も仲間たちも、石より松明を優先的に叩き落としていた。
家屋や庭木など、燃え移りそうなところへ投げ込まれるのを防ぎたいのだから、投石と違って「自分が避ければいい」という話ではない。飛んでくる松明から逃げるのではなく、逆にそちらへ向かっていき、手を伸ばしても届かない場合には、武器を使ってでもリーチを長くする必要があった。騒動の引き金になったのはカーリンの槍だとしても、対処のためには、僕もニーナも剣を抜かざるを得ない状態だ。アルマも鞭を使うくらいだった。
『あの娘の鞭は、攻撃用じゃなく調教用だろ? 人や物を直接叩くようには出来てないはず。ほら、あんまり上手く使えてないぜ』
そうやって叩き落とした松明は、ガシガシと足で踏みつけて消火する。クリスタやカーリンは氷系統の魔法が使えるのだから、松明の炎に対しても、そちらの方が有効的なはずだが……。
二人とも、敢えて魔法は封印していた。もしも呪文を唱えたら、さらなる攻撃の意思とみなされて事態が悪化する。そう判断しているのだろう。
ますます殺気立つ状況の中。
「こうなったら仕方がない。みんな、聞け!」
自警団の代表として、この場をまとめる者として、ジルバが号令を発する。
動きを止める者はおらず、彼の声なんて誰も聞いていないようにも見えるが、それでもジルバは言葉を続けた。
「予定を前倒しにするぞ! この場で、やつらと決着を……」
不穏な発言と共に。
剣を引き抜き、扇動するかのように高々と掲げたところで……。
「そこまでです! 双方、武器を収めなさい!」
朗々とした声が、全体に響き渡った。
「カトック!」
ニーナが、真っ先に反応する。
ある意味、当然の話だった。カトックは群衆の後ろから現れたのだから、振り返らなければ彼らの視界には入らない。
一方、僕たちにとっては正面側だ。そのままでも見える位置だった。
『……とはいえ、普通ならこの連中の人波に阻まれて、とてもじゃないが見えないはずだけどな。バルトルトだって、すぐには気づかなかっただろ?』
その点はダイゴローに同意する。さすがカトックには敏感なニーナ、と言うべきだろうか。
そんなことを考えている間に、
「カトックさんだ!」
「カトックさんが来てくれた!」
振り返った街の者たちが、彼の存在を目で確認して、口々にカトックの名前を叫び始めた。
石や松明を投げる行為はピタリと止まり、状況は一変。今までの殺伐とした空気は消えて、むしろ穏やかな雰囲気すら流れ始めた。
これがカトックのカリスマなのだろう。いかにアーベントロートの住人が彼を信頼しているのか、具体的に見せつけられた形だ。
興味深いのは、最もカトックの近くに立つ者たちだった。彼に駆け寄るのではなく逆に、畏怖するかのように二、三歩、身を引いている。結果、彼が歩くに従って、その進む方向だけ人々の塊が消えて、道が出来ていた。
『まるで海を割るモーゼだな……』
よくわからない表現だが、ダイゴローも、この状況に感心しているらしい。
「みなさん、恥ずかしくないのですか?」
歩きながら、群衆に対して諭すような言葉を投げかけるカトック。
「冒険者だって、この街を訪れた旅人です。良き隣人です。いえ『この街を』どころか、私に会いに来てくれた客人ではないですか!」
ハッと息をのむ音が聞こえてきた。カトックの客人という点に反応したようだ。
「冒険者の方々だけではありません。フランツさんやリーゼルさんもいるではないですか。同じアーベントロートの住民、あなた方の仲間です!」
先ほどまで彼らは二人を裏切り者扱いしていたが、もはや口には出さなかった。カトックに対しては、何も反論できないらしい。
彼らに語りかけながら、カトックはその中を割って進んで、群衆の前まで出てきた。そのまま、僕たちに視線と言葉を向ける。
「あなた方もあなた方です。か弱い一般市民に対して、武器を構えるなんて……。それでも冒険者ですか? 恥ずかしくないのですか?」
今度は、ニーナがハッとする番だった。
彼女は慌てて剣を下ろし、抗弁する。
「違うよ、カトック。これは……」
カーリンの槍は投石からフランツとリーゼルを守るためだったし、僕やニーナの剣、アルマの鞭は、松明対策で仕方なく使い始めたに過ぎない。
そうニーナは主張したかったはずだ。だがカトックは、しょせん言い訳と判断したようで、全く聞こうとはしなかった。
続いて彼は、
「ジルバさん、あなたもですよ」
振り向いて、ジルバを責める。
「あなたは自警団のサブリーダー、責任ある立場でしょう? あなたがいながら、どうしてみんなを止められなかったのです?」
「面目ない。俺も止めようとはしたんだが……」
ジルバは肩を落としながらも、カトックの「どうして」に答える意味で、こうなった経緯を語り始めた。
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