「――あっ、絢乃タン! こんなとこで会うなんて珍しいねー」
不意に声をかけられ、わたしが顔を上げるとそこに立っていたのは飲み物のトレーを抱えた短めのポニーテールに赤いフレームのメガネをかけた女の子だった。
赤が基調のチェックのシャツワンピースにニーハイソックスという彼女のコーディネートは、いかにも「デートのためにオシャレしました」という感じ。
「あ、唯ちゃん。今日は誰かと待ち合わせ?」
彼女は三年生になってからできた友だち、阿佐間唯ちゃん。アニメが好きないわゆるオタク少女というやつで、学校でも「マンガ・アニメ研究同好会」なる(里歩曰く)オタク養成クラブに所属していた。
ちなみに、彼女のメガネは伊達メガネである。
「うん♡ 今日はコウスケくんと初めてのデートなんだぁ♪ 三階で映画観るの」
唯ちゃんはポニーテールを揺らしながら、楽しそうに答えてくれた。
〝コウスケさん〟というのは唯ちゃんがその当時お付き合いを始めたばかりの彼氏さんで、一歳年上の大学生だ。彼もアニメが好きで、その縁で意気投合したらしい。
「……あっ! アナタが絢乃タンの彼氏さんですかぁ? 初めまして!」
「はぁ、そうです。桐島と申しますが……。絢乃さんのお友だち……ですか?」
今気づきました、という感じで唯ちゃんが貢に挨拶をした。そのあまりのハイテンションさに、彼女と初対面だった貢はタジタジになっていたけれど。
「うん。そういえば、貴方にはまだ紹介してなかったっけ。彼女は阿佐間唯ちゃん。今年初めて同じクラスになったの。で、彼がわたしの彼氏で秘書の桐島さんよ、唯ちゃん」
「初めまして、唯さん。たった今ご紹介にあずかりました、桐島貢と申します。絢乃さんとお付き合いさせて頂いております」
「だから貢、女子高生相手に態度堅いってば。――唯ちゃんごめんね。彼、いつもこんな感じだから気にしないでね? 里歩にもこんなんだから」
「あ、そうなの? うん、わたしは別に気にしないよ。――こちらこそ初めまして☆ 絢乃タンとお友だちになったばっかりの阿佐間唯でありますっ。よろしくお願いしま〜す」
唯ちゃんはオタクっぽい独特な言い回しで貢に自己紹介をして、ビシッと敬礼までした。わたしはこれが彼女の個性だとちゃんと認めているし、可愛いなぁとも思っているけれど。貢も彼女の個性を受け入れてくれるのか心配だった。
唯ちゃんが「ここ座ってもいい?」と訊いたので、わたしたちは彼女と相席することにした。
「……あのね、貢。唯ちゃんはアニメ好きで……その、オタクなの。だからしゃべり方とかがちょっと個性的なんだけど、変に思わないでくれたら嬉しいな」
「別に、僕は何も思いませんよ。個性なんて人それぞれですから」
「ホントに!? よかったぁ。ありがと」
彼に偏見がないことが分かっただけで、わたしは安心した。
「――ところで、絢乃タンたちもデート?」
この日のわたしのコーデは、七分袖のTシャツに珍しくチノパンを合わせ、その上から大好きな淡いピンク色のロングカーディガンを羽織っていた。もちろん、貢から贈られたネックレスはこの日も身につけていたけれど。
清楚系フェミニンコーデが多いわたしにしてはかなりカジュアルダウンした服装だったけれど、彼と一緒にいたから唯ちゃんも「デートだ」と思ったのだろうか。
「うーん、デートといえばデートかな。もうすぐ彼のお誕生日だから、今日はこの後材料とか買い込んで彼のアパートで早めにお祝いするの。わたしの手料理でね」
「プレゼントも頂いたんですよ。今日は絢乃さんがカレーを作って下さるそうで、僕も楽しみにしてるんです」
「へぇーー、いいなぁ♡ ちょっと早いけどお誕生日おめでとうございます☆ でもさぁ、彼のお部屋でお料理するとかって、なんか新婚さんみたいだねー」
「…………ブホッ」
唯ちゃんが最後に投下した爆弾で、貢は盛大にむせた。……何もそこまでうろたえなくても、とわたしは思ったけれど。
「……あっ、ゴメンなさい! あわわ、わたし何か悪いこと言っちゃいました!?」
「……………………いえ、大丈夫です。すみません、取り乱してしまって」
慌てて謝る唯ちゃんに彼が「何でもないですよ」という感じで答えたので、わたしには彼が動揺していた理由を知ることができなくなった。
やがて、唯ちゃんのスマホに〝コウスケさん〟から電話がかかってきて、唯ちゃんは「わたし、もう行くねー」と言い残して席から立ち上がった。
「じゃ、デート楽しんでくるから絢乃タンたちも楽しんでね☆ バイバ~イ♪」
「うん。またね、唯ちゃん」
――唯ちゃん一人がいなくなっただけで、わたしたちの周りはまるで嵐が過ぎ去ったみたいに静かになった。何だかよく分からない気まずさが残り、何となくいたたまれない空気にわたしは落ち着かないでいた。
「……さて、食材とケーキ、買いに行こっか。カレー作りにじっくり時間かけたいから」
「ですね。絢乃さんの帰りが遅くなったら大変ですし」
「…………うん、そうね」
正直なところ、貢の返事にわたしはちょっと不満だった。
せっかく彼氏の部屋へ遊びに(厳密に言うと〝遊びに〟ではなかったけど)行くのに、どうして早く帰らなきゃいけないの? 「今日は帰したくない」まで言わなくてもいいけど、せめて「ゆっくりして行って」くらいのことは言ってくれてもいいんじゃないの? わたし、そんなに子供じゃないよ?
……でも、喉元まで出かかったこれらのセリフを、わたしはグッと飲み込んだ。言えば彼を困らせてしまうと分かっていたから――。
* * * *
――ショッピングモールに入っている高級志向のスーパーでカレーの材料となる野菜と牛肉・カレールウ(甘口)、そしてチョコレートケーキを買い込んで、わたしたちは代々木にある貢のアパートへと引き返した。
アパートは築二十年くらいのコンクリート造りで二階建て。外観は代々木という土地に合わせてモダンな造りになっている。
「――うわぁ、塊の肉がゴロゴロ入っているカレーなんて僕初めてですよ! 楽しみだなぁ! ……ところで、リンゴは何に使うんですか?」
彼の部屋は二階。外階段を上がりながら、重いエコバッグを提げた彼がしきりにはしゃいでいた。
「リンゴはねぇ、すりおろしてカレーの隠し味に使うの。今日あのスーパーで買ったルウにはリンゴが入ってないみたいだったから」
わたしが子供の頃から食べ慣れている、我が家のシェフお手製の甘口カレーには隠し味にすりおろしリンゴが使われていて、この日は彼にもその味を再現してあげたいと思っていたのだ。
シェフはルウから手作りしていたけれど、わたしは既製品のルウを使うことにした。ちょっと手抜きしているようで、わたし個人はちょっと彼に申し訳なく思っていたのだけれど……。
「ああ、なるほど。母のカレーも昔から、リンゴとハチミツ入りの市販のルウを使ってましたよ」
「ああ、あのシリーズね? わたしも里歩のお宅でご馳走になったことあるよ。あれって甘口だけじゃなくて、全体的に甘めのイメージだけど」
某有名食品メーカーから発売されている超ロングセラー商品のことだ。
「ですよねぇ。でも今日は、絢乃さんお手製のカレーが食べられるのですごく楽しみです」
彼は屈託のない笑顔でそう言って、玄関の鍵を開けた。
* * * *
――貢の部屋はワンルームだけれど、ちゃんとしたユニットバスも付いていたし、Wi-Fiも完備されていた。そしてA型の彼らしくきちんと整頓されていた。
極めつけは、調理道具が充実していたこと。貢曰く兄の悠さんが持ち込んだものらしいけど、圧力鍋まであったのにはわたしもさすがに驚いた。
わたしたちはお部屋の中央に置かれていた座卓に座り、彼のお誕生日を二人きりでささやかにお祝いした。
彼はカレーもケーキも美味しそうに平らげてくれて、作った側としても大満足だった(できればケーキも手作りしたかったけど、そこまでの時間がなかったのが残念!)。
「――ところで絢乃さん、卒業後の進路はもうお決まりなんですか?」
どういう流れからそうなったのか、食後の話題はわたしの高校卒業後の進路に及んだ。
「うん、もう決まってるよ」
「進学されるんですか?」
「ううん、大学には行かないで、このまま経営一本でやっていこうと思ってるの。ママには『進学して本格的に経営を学んでもいいんじゃない?』って言われたんだけど、わたしやっぱり会社が好きだから。学ぶなら現場でバリバリ仕事しながら学びたくて」
「そうなんですか……。まあ、入社するならまだしも、経営陣のトップに学歴はあまり関係ないですからね。絢乃さんさえよければ僕は反対しませんが」
貢はわたしの考えに理解を示してくれた。彼に打ち明けてよかったと、わたしも安堵したのを憶えている。
ちなみに、里歩は卒業後は体育教師を目指して大学に通っていて、アニメ好きの唯ちゃんは専門学校でクリエイターを目指すべく勉強している。二人とも、夢に向かって自分の道を歩み始めたのだ。
「あ、それとね、わたし早く結婚したいの。できれば高校を卒業したらすぐにでも。パパを早くに亡くしたでしょ? だから、早く新しい家族がほしいの」
「結婚…………ですか? それって」
「今のところ、お婿さん候補は貴方だけだね、貢」
「そう……ですよね」
この時彼がどうして困ったような顔をしていたのか、わたしには知る由もなかった。
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