――もうどれくらいの時間、悶々としていたのか。窓の外が茜色に染まり始めた頃、ベッドの縁に座ったままだったわたしは、制服のポケットでスマホが振動していることに気づいた。
……そういえば、マナーモードを解除することも忘れていたのだった。
画面を確かめると「桐島さん」と表示されていたので、わたしは迷うことなく通話ボタンをタップした。
「――はい、絢乃です」
『桐島です。メッセージ、読みました。「声が聞きたい」とあったので、お電話を』
「……えっ? 桐島さん、お仕事は――」
電話なんてしていて大丈夫なの? と思って、わたしは驚いたけれど。
『もう就業時間は終わっています。これから車で帰宅するところで』
ハッとして腕時計で時刻を確かめると、もう夕方五時を過ぎていた。篠沢商事の社員は基本的に九時始業、十七時退社なので、当然彼にとっても退社時間だった。
「そっか……、もうこんな時間だったのね。全然気づかなかった」
あまりにもショックが大きすぎて、わたしは時間の経過にさえ気づかずにいたらしい。人間の脳というのは、そういう状況の時には思考を止めることで、精神のバランスが取れるような仕組みになっているのだろうか。
『実はですね、メッセージにはすぐに気づいていたんです。本当はその場で、それこそ仕事なんか放り出してお電話したかったんですけど』
「それは社会人としてダメでしょう? お仕事はちゃんとしなきゃね」
働いているということは、少なからず責任を背負っているということなので、まだ高校生だったわたしのようにはいかなかっただろう。
『……ですよね。そうおっしゃると思ってました』
わたしがたしなめると、彼からそんな返事が返ってきた。
あんなに緊迫していた状況だったはずなのに、その言葉でわたしは思わず吹き出してしまった。――やっぱり彼には、わたしの心を和ませる不思議な力があるみたいだ。
『――そんなことより、絢乃さんのお父さまのことです。末期ガン……だそうで。それはショックだったでしょうね』
「うん……。ママから電話で聞かされた時、『ウソでしょ!?』って思ったわ。これが悪夢なら、早く醒めてほしい、って」
わたしは泣いていなかったけれど、声は暗く沈んでいたらしい。彼は電話越しに優しく相槌を打ち、「お気持ち、お察しします」と言ってくれた。
『泣かれていたのは、ショックだったからですか?』
「それもあったけど……。パパの苦痛を代わってあげられないことが悔しくて、もどかしくて……。わたしには何もできないんだ、って」
普通は逆なんだろうな。大病を患った我が子の苦しみを代わってあげられたら……、と心を痛めて泣く親の話なら、TVや雑誌、ネットなどでよく目にする。
でも、子供の側にだってその権利はあるはず。――わたしはそう思った。子供の方だって、親が大病を患っていると知ったらその苦しみを代わってあげたいと思うものなのだ。
むしろ、子供側の方がその気持ちは大きいかもしれない。
『うん、なるほど。お父さまのことを思い遣って涙を流されるなんて、絢乃さんは優しいですね。そんないいお嬢さんに恵まれて、会長はお幸せだと思います』
「……えっ? そう……かな?」
そういえば、寺田さんにも同じようなことを言われた。でも、子供が親のことを気にかけるのは当たり前のことじゃないの?
『はい。恥ずかしながら、僕自身にもそういう経験はありません。――それに、きっとお父さまも、口に出してはおっしゃらなくても心の中ではいつも感謝なさっていると思いますよ』
「……そう」
父は不器用な人だったし、照れ屋なところもあったので、愛情表現が分かりにくい時もあった。
だから、父がそう思っていたことを知れたのは彼のおかげだった。
『――それで、お父さまは今どうなさっているんですか? 今後の治療方針などは聞かれました?』
「うん。パパの希望で、通院治療を受けることになったんだって。もう手術とかの外科的治療はできないから、って。主治医の先生もパパの意思を尊重してくれたそうよ」
主治医が後藤先生ではなくても、きっと父には最期の瞬間まで好きなように生きさせてあげたいと思ったのだろう。医師というのはそういうものなのかもしれない。
「パパは会社も仕事も愛してるから、ムリをおしてでも会社に顔を出すと思うの。それがパパの生き甲斐だから」
『そうですか……。では、会社でお父さまに何かあれば、僕が絢乃さんにお知らせしましょう。――あと、絢乃さんに一つ、僕からアドバイスさせて頂きたいんですが』
「うん……?」
『お父さまの余命を、〝あと三ヶ月しかない〟と悲観せず、〝あと三ヶ月もあるんだ〟と前向きに捉えてみて下さい』
「……え? どういうこと?」
彼の言っている意味をつかみかね、わたしは首を傾げた。
『その方が、あなたも気が楽になると思うんです。三ヶ月もあれば、お父さまにして差し上げられることもまだまだたくさんあるでしょうし、お父さまも心穏やかに最期を迎えられるんじゃないかと』
彼の言葉はまるでキレイな水のように、わたしの心にすぅっと沁み込んでいった。
「……うん、そうね。わたしもパパには、悔いを残してほしくないもん。だって、親孝行もそんなにできてないから……」
わたし自身はそう思っていても、父に言ったらただの謙遜だと受け取られただろうか。
『そんなに思いつめないで下さい。弱音を吐きたくなったら、またいつでも僕にご連絡下さいね。僕があなたにして差し上げられることなんて、それくらいしかありませんけど。それであなたのお気持ちが楽になるんでしたら、いくらでもお付き合いしますから』
「うん。ありがと、桐島さん。――それじゃあ、また何かあったら連絡するね。じゃ、失礼します」
『はい。ではまた』
彼は律儀にちゃんと返事をして、電話を切った。
――彼と話せたことで、わたしの心はだいぶ落ち着いた。
彼の口調は穏やかで優しくて、温かくて。まるでお日さまのような包容力に溢れている。この後だって、そして今も、わたしは彼のこの温かな人柄にどれほど救われてきたか分からない。
彼の言葉をもっと聞いていたい。彼の笑顔が見たい。――わたしはその日以来、何度そう思ったことだろう。
「――そっか。わたし……、桐島さんのことが好きなんだ」
わたしは読書好きで、恋愛小説もよく読んでいたから、この感情を「恋」だとはっきり確信できたのかもしれない。
そして、わたしは心の中で彼の言葉を反芻してみた。
「あと三ヶ月しかない」と悲嘆に暮れるよりも、「あと三ヶ月は父と一緒にいられる」とポジティブに考えた方が気が楽になる。――なるほど、確かにそのとおりかもしれない。
この事実を知って、いちばんショックを受けていたのはわたしよりも、父と母だったのだ。
でも、すぐに事態が急変すると決まったわけではなく、三ヶ月という猶予があった。
だとしたら、その三ヶ月という猶予をどう使えばいいか。――ただただ悲しみに暮れて泣き暮らすのか、父が悔いを残さないために有効に使うのかということを、彼はわたしに教えてくれたのだと思う。
わたしは今でも、彼に感謝している。
この言葉のおかげで、わたしも母も、悔いを残すことなく父を見送ることができたのだから――。
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