「――いらっしゃいませ! ご注文はお決まりですか?」
元気いっぱいに接客してくれた女性店員さんに、わたしは特上海鮮丼を二つ注文した。
「すみません、一つはワサビ抜きでお願いします」
「はい、かしこまりました!」
「――絢乃さんって、ワサビがダメなんですか?」
向かい合わせでテーブルに着いた貢が、こっそりわたしに訊いた。
「うん、そうなのよ。小さい頃に一家で招待されたどこかのパーティーで食べたお寿司のワサビが辛すぎて、それ以来トラウマになっちゃって。……他の食べ物ではこれといって、キライなものとか苦手なものはないんだけど」
「そうだったんですね……。僕、初めて聞きました」
「そうよね。今まで二人一緒の食事って、ほとんど社食でしかしたことなかったもんね。それに、わたしたちまだ知り合ってたったの五ヶ月だもん。お互いに知らないことの方が多いよね」
わたしにだって、彼のことで知らないことは結婚しようとしている今もまだまだ多い。
彼の学生時代のこと、子供の頃のこと、篠沢に入社してからわたしと出会うまでのこと、それから……過去にどんな恋をしてきたかについても。
「だから、これから少しずつ知っていけばいいんじゃないかなぁ。貴方も、わたしのことで知りたいことがあったら遠慮しないで何でも訊いて? 基本的にNGなしで何でも答えてあげるから。だってわたしたち、まだ始まったばっかりなんだもん」
「ほ………本当に、答えて下さるんですか? 何でも?」
「……う、うん」
若干前のめりに念を押してきた彼の勢いに、わたしはほんの少しだけ退いた。
「えーっと……では、絢乃さんのお財布事情について質問してもよろしいですか?」
「お財布事情? ……うん、まあ……いいけど」
わたしは唐突すぎる質問に思わず眉をひそめた。でも、「NGなしで何でも答える」と言ってしまった手前、答えないわけにもいかず。
「どんなことが訊きたいの?」
「えーと、絢乃さんは毎月のお小遣い、いくらくらいもらってらっしゃるのかなー、と……。会長になられてからは、高額な役員報酬をもらわれているということは伺いましたが、それ以前はどうだったのかな、と思って」
「………………」
わたしは渋い顔をして、給仕してもらった温かいお茶をすすった。
……この人、やたらわたしのお金のことばかり知りたがるなぁ。とは思ったけれど、わたしは知っていた。彼が決して、わたしの財産にしか興味がないわけではないことを。 彼の知りたがっていることが、たまたまお金に関すること、というだけで。
「う~ん、そうだなぁ……。会長就任前は、だいたい月に五万円くらいはもらってたかな。高校生のお小遣いとしては、けっこう多い方だと思うでしょ? 実はわたしもそう思ってたの」
「確かにそう、ですね。絢乃さんはあまり物欲がないようですし」
「やっぱり、桐島さんもそう思うよね? パパもママも、わたしに甘々だったから。わたしは『そんなにいらない』って言ってたんだけど、それでもくれるもんだから、いっつもお財布の中に一万円札がいーーっぱい入ってたなぁ。毎月持ち越し持ち越しで」
「へぇ……、それはそれは」
貢は絶句していた。そりゃそうだろう。
毎月わたしが使う分の金額は少ないのに(二~三万円もあれば十分足りるし、お釣りも来る)、それ以上の金額をもらっていたのだから。
女子高生が普段からお札でパンパンのお財布を持ち歩いているなんて防犯上よくないだろうし、そもそもわたし自身が落ち着かないのだ。
「……今は、どうなんですか?」
「今はね、役員報酬が高いっていっても税金納めたりとか色々で、実質手元に残るのは半分くらいだもん。で、結局いつもわたしのお財布に入ってるのは十万……くらいかなぁ」
わたし、実はこの若さで高額納税者だったりするのだ。そのうち、世界長者番付に名前が載る日が来るかもしれない。
でも結局、ポケットマネーはこんなものだ。それでもわたしには多すぎるくらいだけれど……。
「――お待たせしました! 特上海鮮丼二人前です!」
運ばれてきたのは、大きなボタンエビやウニ・イクラに、新鮮なお刺身が「これでもか!」とどっさり盛り付けられた豪華な海鮮丼だった。
「ありがとうございます! わぁ、美味しそう!」
「「いただきま~~っす♪」」
二人で仲良く食べ始めると、たちまちわたしの顔が綻んだ。
「あー、美味し~い! 幸せ~~♡」
「……絢乃さんが美味しそうに食べてる姿って、本当に癒されますよね」
「……ん?」
「…………いえ、何でも。美味しいですねー」
わたしは彼の顔を見つめて小首を傾げたけれど、本当は彼の呟きもちゃんと聞こえていたのだ。
* * * *
――昼食を済ませたわたしたちは、退職者や休職者たちへの家庭訪問を再開した。
そして、午後三時を過ぎた頃……。
ピーンポーン……、ピーンポーン……、ピーンポーン……、ピンポーン……。
「――ダメだ、留守みたい」
最後に訪問したマンションのエントランスでドアチャイムを何度鳴らしても、応答はなし。そこはオートロック式のマンションだったため、わたしたちは訪問を諦めざるを得なかった。
「どうしよっか? 明日改めて出直してくる?」
「えっ!? 明日は土曜日ですよ!?」
この日は金曜日だった。この人が平日で新たな勤め先に出勤していたのか、それともその時はたまたま外出中だったのかは分からないけれど、翌日貢も休日出勤になってしまうことはわたしにも分かっていた。
「分かってるけど、今は土日だって時間が惜しいの。貴方にも申し訳ないとは思ってるけど、ねっ? お願い、明日も付き合って! 心配しなくても休日手当はちゃんと払うから」
「…………分かりました。そこまでお願いされては仕方ありませんね」
「ありがとぉ~~! ゴメンねー」
やれやれ、と肩をすくめた彼に、わたしは改めてお礼とごめんなさいを言った。
「――あ、電話だ。村上さんから」
ふと、わたしのスーツのポケットでスマホが震えていることに気づいた。
「社長からですか?」
「うん。『仕事が溜まってるから帰ってこい』の連絡だったりしてね。――もしもし、村上さん?」
――通話ボタンを押して応答すると、案の定「会長、お仕事が溜まっているので社にお戻りください」と言われた。
「……やっぱりね。どのみち、今日は会社に戻らなきゃいけないみたい」
「そうですね」
結局、わたしたちが訪ねて行った旨を書いたメモを管理人さんに託し、わたしと貢はマンションを後にしたのだった。
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