「――この人たち分かってるのかな? この件に関しては、わたしに反発するだけ損だって」
わたしは首を傾げた。いくらわたしや母のことがキライだからって、何でもかんでも反発すればいいというものではないのだ。
「……まあいいわ。この人たちのことは、次の取締役会で問題にするから。困るのよねー、こういう時に役員が足並み揃えてくれないと」
わたしはため息をついてそのメールを閉じ、山崎さんに送ってもらった退職者と休職者たちのデータをプリントアウトした。
「――桐島さん、わたし今日外出してても大丈夫かなぁ? 何か予定入ってたっけ?」
「えーと……、今日は来客の予定もありませんし、業者の方との打ち合わせも入っていませんね。昨日のようなイレギュラーがなければ、の話ですが」
貢が手帳のページをめくりながら答えた。
その前日のように、急な来客(悠さん来訪のことだ)もないわけではないけれど、基本的には前もってアポを取ってもらうことになっているのでかなりレアなケースということだ。
「オッケー。じゃあ、今から外出しても大丈夫そうね。さっそくわたしたちも動きましょうか」
「はい……って、えっ!? 僕が車を出すんですか!?」
急に外回りをする羽目になった彼は、目を丸くした。
「そのとおりよ。申し訳ないけどお願いね。お昼はわたしがご馳走するから」
わたしは彼に車を出させることを、当たり前だと思ったことは一度もない。いつだって感謝しているし、振り回してしまうことに申し訳なさも感じている。
だからせめて、ランチには美味しいものをご馳走しようと思ったのだ。
「……かしこまりました」
ランチをおごる、というわたしの言葉に釣られたのかどうかは分からないけど、彼は運転役を承諾してくれた。
プリンターから吐き出されたコピー用紙の束をクリアファイルに突っ込むと、わたしは外出の支度をして貢と二人、会長室を後にしたのだった。
* * * *
――わたしたちが訪ねようとしていた退職者・休職者たちの住まいは都内各地、23区内から果ては郊外の市街地にまで散らばっていて、とても一日では回りきれなかった。
オフィス・学校・自宅の行き来以外の遠距離ドライブはこれが初めて。……だったけれど。
「これが仕事じゃなくてプライベートなドライブデートなら、もっとよかったんだけどなぁ」
わたしは助手席で思わずボヤいた。
デートで遠距離ドライブするなら、車窓からの眺めももっと楽しめたのに。〝仕事〟という大義名分があるだけで、あまりウキウキもしていられなかった。
「せっかく桜も咲き始めてるのに……」
通り道の小学校の敷地内からは、ポツポツと薄いピンク色の可愛い花が見えていた。そういえば、篠沢商事の敷地に植えられている桜もこの頃から蕾が綻び始めていたと思う。
わたしが貢と出会ってから、早くも三つめの季節を迎えようとしていたのだ。
「この件が片付いたら、二人でのんびりドライブデートしましょうね、絢乃さん」
「…………え?」
「すみません、思わずお名前で呼んでしまいました」
彼は「ヤベぇ」という顔で、小さく謝った。
一応仕事中ではあったけれど、車の中ならプライベートとそう変わらない。だから、名前呼びくらいで気にすることはないのだ。
「ううん、そんなことはいいのよ。ドライブデート、今度はプライベートでうんと楽しもうね!」
「はい。ですから今日は誠心誠意、この仕事と向き合いましょう。何といっても、これは会長にとって初めての大仕事なんですから」
「うん」
わたしは力強く頷いた。
すでに退職してしまって、別の仕事に就いている人たちは仕方がない。けれど、休職中の人には一人でも多くまた会社に戻ってきてほしかった。
そのためには、彼らが会社に戻ってきてきやすい環境を、トップであるわたしが整える必要があったのだ。
「会長がきちんと話に耳を傾けて、誠実に語りかければ相手も分かってくれると思いますよ、会長の誠意を」
「うん、そうよね。わたし頑張る!」
こちらが真心を込めて接すれば、相手も真心で返してくれるものだ。――父も生前わたしにそう教えてくれて、実際にそれを信念として会長としての職務に邁進していた。
今こそわたしも、父の信念を受け継ぐ時だ――。そう思った。
* * * *
「――えーと、一人めのお宅はこのあたりでしょうかね」
午前十時ごろ、ナビの画面を確認した貢が車を止めたのは台東区の下町情緒溢れる住宅街のコインパーキングだった。ここから東京スカイツリーも近いらしい。
「……そうみたいね。お名前はえっと、野川さん。三十六歳。軽度のうつ状態になって退職したんだって」
わたしは資料をめくりながら内容を読み上げた。
ちなみにどうしてその人の症状が分かったかというと、山崎さんがメールしてくれた個人資料には診断書のコピーまで添付されていたから。それも、この野川さんの分だけではなく、診断書をもらっていた人全員分! 山崎さん、どこまで仕事熱心なのかしら。
「奥さまとまだ小さいお子さんもいらっしゃるらしいけど、生活はどうしてるんだろ?」
「退職金はもらったでしょうけど、それだけでは苦しいかと。奥さまも働いていらっしゃって、収入があるのかもしれませんね」
「お子さん、まだ五歳よ? 保育園に通わせて? 大変でしょうね……」
わたしには(当然ながら)まだ子供なんていないので、働くお母さんの大変さなんてあまり分からないけれど。楽ではないことだけは分かる。
その原因を作ってしまったのは、自分の会社の社員なのだ。そう思うとわたしも決して他人事ではなかったし、その上に立つ者としてものすごく良心が傷んだ。
「……さて、行こうか」
わたしは気合いを入れなおして車を降りた。
「桐島さん、貴方もついてきて。わたしひとりじゃ心許ないから」
「………………そうおっしゃると思ってました」
彼も渋々そうに見えたけれど、後から降りてきたのだった。
* * * *
――ピーンポーン……、ピーンポーン……。
『――はい?』
呼び鈴を押すと、インターフォンから女性の声で応答があった。
この家のインターフォンはカメラ付きではなかったため、わたしたちの姿は見えていないらしい。
「突然押しかけて申し訳ありません。わたしは篠沢商事から参りました、会長の篠沢絢乃と申しますが。野川雅樹さんの奥さまでいらっしゃいますか?」
『はい……、そうですけど。会長さん? 夫の会社の?』
「ええ、そうです。……あの、ご主人はご在宅でしょうか?」
奥さまが不思議がるのもムリはなかった。ご主人はもう会社を辞めてから半年以上が経とうとしていたのに、突然元勤め先のボスが訪ねてきたのだから。一体何事かと思われただろう。
『ああ……、はい。夫にご用ですね。ちょっとお待ち下さい!』
慌ただしくインターフォンを切り、わたしたちは玄関先で一分少々待つこととなった。
「奥さま、慌ててらっしゃいましたね」
「そりゃそうでしょ。ご主人が辞めちゃった会社の、それもいちばん上の人がいきなり訪ねてきたんだもん。アポ電の一本でも入れてくればよかったかな」
「そうですね……。あ」
ガチャリとドアが開き、中肉中背の三十代半ばの男性がグレーのスウェット姿で出てきた。
「――お待たせしました。野川です。……あれ? 桐島君も一緒だったか」
「ご無沙汰してます、野川先輩。僕、今は秘書室にいて、こちらにいらっしゃる篠沢絢乃会長の秘書をしてるんです」
「そっか……。じゃあ君も総務から異動したんだな」
貢と野川さんは、かつて同じ部署の先輩・後輩だったのだ。一人は退職して、もう一人は転属しての再会。――彼らはどんな気持ちだったのだろう?
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