土壁を縁取る木枠に、無理やり画鋲が押し付けられている。ぶら下がったカレンダーの週末には、真っ赤なマジックペンで印が付けられていた。
その日付は親戚が集まる日だ。とは言っても、やって来るのは従姉妹の家族だけだけど。いや、大阪で下宿している姉も帰って来るはず。正月以来見ていない姉の顔を思い浮かべながら、私はため息をこぼして鈴棒りんぼうを手に取った。
お供えしたばかりの仏飯器から白い湯気が立ち込めている。ふっくらしたお米の匂いと先月新しくしたばかりの畳の香りが混じり合う。鼻孔をかすめたい草の香りは、新しくなっても祖母の匂いがした。この匂いが好きなのは、懐かしい気持ちを思い出せるからかもしれない。
私にとって祖母は母のような存在だった。
祖母が亡くなる六年前、私がまだ四歳だった頃、母は病気で亡くなった。母の記憶はアルバムの中だけ。ビデオカメラもいつも撮る側だった母の映像は多く残っていない。父や祖母に抱きかかえられた幼い私や姉に向かい話しかけてくれる、カメラ越しの声しか私は知らない。
だから、この匂いは母の匂いでもあるのだ。
「ただいま」
玄関から父の声が聞こえて、私は「おかえりなさーい」と返し、立ち上がった。リビングの襖を開けると、正面には小さな中庭と縁側がある。庭に生えている柳の木は、随分昔からあるものらしい。伸びた枝葉は、二階の屋根をすっかり飲み込んでしまっている。沈む夕陽の光が、細く垂れる梢の先からチリチリと漏れ出していた。
かかとに体重をかけて、軽くくるりと踵を返す。フローリングが軋むのは、この家がすっかりいい歳であることを体現していた。玄関で靴を脱いでいる父のそばに駆け寄って、私は式台に置かれた父の荷物を抱える。
「いつも、ありがとう。茉美」
「褒めたって、出すお酒の量は変わらへんで」
父は残念そうに肩をすくませると、「よいしょ」と喉を鳴らした。「亡くなったお義母さんにそっくりだ」と口端を上げる。
「お父さんの身体の心配してるんやで」
「分かってるよ。いつもありがとう」
頬とネクタイを緩めながら、着替えの為に二階の自室へ上がっていった。私は荷物の中からお弁当箱と水筒を取り出して、台所の方へと向かう。夕食の準備の続きをしなくちゃいけない。
一昨年、姉が美大へ進学をして、父との二人暮らしになっていた。祖母が亡くなってからは、家事のほとんどを私がやっているけれど、家事自体は嫌いじゃない。料理に洗濯、掃除だって。誰かの為に労を惜しまない性格は、桐畑家の血筋が影響しているに違いない。
父は元々東京出身で、滋賀県の長浜にある母の家に婿入りをした。だから、私の名字である「桐畑」は母の家のものだ。受け継いだ性格や名字は、自分の中にいる知らないはずの母を感じることができる。だから、ちょっぴり嬉しい。包まれた布を解き、シンクの中へお弁当箱を落とす。蛇口を持ち上げれば、水が勢いよく流れ出した。真新しいキッチンはリフォームされたものだ。この家は、新しいものと古いものが混在している。
「敏彦さんたちは明日の夕方ごろ来るつもりらしい」
そう言いながら、父がダイニングへとやって来た。冷蔵庫から缶ビールを取り出して、プルタブを開ける。プシュッと破裂音がして、小麦色の液体は父の乾いた喉へと流し込まれていった。
「それじゃ泊まるんや」
「布団の用意とかは父さんがしておくから」
いつも娘に家事をやらせていることを申し訳なく思っているのだろうか。私はそんな風には思っていないのに。眉根を下げた私を気に留めることなく、漬物の入った小鉢を手に父はダイニングテーブルに着いた。私はお弁当を洗いながら、父に問いかける。
「お姉ちゃんはいつ帰って来るん?」
「今夜って言ってた」
「えっ。ほんなら晩ごはん食べるんかな?」
「食べないんじゃないか? どうせ、帰ってくるのは遅い時間だよ」
あまり心配そうじゃないのは、姉を大人だと思っているからなのか、注意しても聞かないであろうと諦めているのか。少なくとも、私と姉の性格は全く違う。彼女は自由人だ。勝手気ままに生きている。それを羨ましくは思わないけど。好きなように羽を広げられるのは、気持ちの良いものかもしれないとは思う。
「夏休みも帰って来んかったよね」
「亜美も忙しいんだろう。作品だってあるだろうし、バイトだってあるだろうし。秋に法事があるのは分かっていたから、このタイミングで帰ってきてくれるならそれが一番だ」
嫌味ったらしく唇を尖らせた私に、父は姉をかばうようにそう言った。
それもそのはずで、勝手気ままに見える姉はしっかり自立をしている。学費こそ父が出しているけれど、家賃や生活費は自身で稼いでいるし、何より父への感謝を怠っているわけじゃない。自由に生きられるのは親があってこそ。その上で、決して甘えることはしない。それが好きに生きることの代償であることを彼女は理解しているのだ。
私は作り置きしていたほうれん草のお浸しを冷蔵庫から出し、小鉢に取り分けた。そこに梅肉と冷や奴を入れて混ぜてやれば、あっという間に一品完成だ。ダイニングテーブルへと運べば、お礼を言いながら父がこちらを見つめた。
「茉美はどうするんだ?」
「どうするって?」
「来年は受験生だろ」
「うーん。まだ分かんないよ」
羽を広げてみたい気持ちはあるけど、空を飛べるかは不安だ。きっと、巣立ち前の雛たちはこういう気持ちなのだろう。大空を思い浮かべて見上げた天井には、古めかしいシーリングライトとそれに連なる赤いシェードのペンダントライトがぶら下がっていた。
「明日の夜は、岬のところのうどんでええよね?」
「大依さんのことの『のっぺいうどん』か、久々だな」
「岬のお母さんにしっかり作り方聞いてくるから」
長浜の名物料理であるのっぺいうどんは、傘の大きな椎茸が入っているのが特徴で、祖母の得意料理でもあった。休日の昼に、吉本新喜劇を見ながら、生姜のきいたとろみのある出汁をすすっていたのが懐かしい。友人である岬の家は、うどん屋さんをしていて、麺と具材を分けてもらえることになっていた。
「今度、お礼しとかなくちゃな」
「家族みんなチーズケーキが好きらしい」
「よし、とびっきり美味しいチーズケーキを買っておこう」
ビールを一気に煽って、父は椅子から立ち上がる。
「ビールは二本目までやで」
そう私が釘を刺すと、父は悲しそうに眉尻を下げた。けど文句は言わない。父だって分かっているはずだ。私がどう思っているのかくらい。父にはできるだけ長く生きて欲しい。父がいなくなれば、私は一人ぼっちになってしまう。
「もう十二年か……」
ほんのりと頬が赤くなった父が、じわじわと暗くなっていく窓の外を見つめた。隣の古いアパートまでは少々距離がある。広がる田畑を侵食しはじめた闇の中から、チンチロリンとマツムシが鳴いていた。
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