線香の先から昇る灰色の煙が、中庭の方へ溶けていく。温かい陽射しが柳の梢の先をすり抜けて、畳の上に奇妙な形の影を落としていた。父も叔母も姉も沙織も、座布団にしゃんと正座をして、そっと目を閉じている。私はというと、お坊さんのお経も上の空で、祖母が残した言葉の真意を考えていた。
魔女とは岬の言うような魔性なのだろうか、沙織の言う嘘つきなのだろうか。それともまったく私が考えもしないようなことなのか。
いくら考えても、正解や不正解の判断は出来ない。証拠などなにもなく、病室でのあの言葉から考えなくてはいけないからだ。結論はすべて推測の域を出ることはない。
それでも祖母の真意が知りたいと心が叫んでいる。
そもそも、あの言葉が私の心を捉えて話さないのはどうしてだろう。帰って来た姉の言葉が遠い記憶を思い起こさせたからだろうか? いや、そうじゃない。私は祖母の言葉を忘れたことはないし、あの言葉を受け取ったあの瞬間からずっと、私の中で線香の火のように燻り続けていたのだ。
姉の言葉が燻っていた火を弾けさせ、煙だけを立たせていた線香はまるで線香花火みたいにパチパチと燃えはじめた。鮮やかさと切なさの花を咲かせながら、あの日の病室から行く末の見えない私の未来を照らしつけている。だから、祖母の言葉に私は惹きつけられているのだ。
そうだとすれば、花火の如く鮮烈に燃え盛る玉は、すぐに落ちてしまうのだろうか。今、この瞬間だけ、私に取り憑いている儚いものなのだろうか。けど、そんなことはない。意図的に水の入ったバケツの中へ突っ込まない限り、火花を散らし続けるはずだ。それは私の勘でしかないけど。今この問題と向き合わなくてはいけない、と訴えかけてくる。たとえいつか燃え尽きたとしても、後悔という名の焼き焦げた残りかすの臭いが、一生身体にまとわりついて残ってしまう気がした。
*
「茉美の制服かわいいやんなー」
「沙織は制服で高校を選んだんじゃなかった?」
紺色のブレザーの上から、沙織は灰色のエプロンをつけている。短冊切りにした大根をグツグツと鍋で煮詰めながら、彼女は私のセーラー服を見つめた。
「今思えば、セーラーのが良かったかもって」
「沙織のブレザーもかわいいと思うけど?」
「ないものねだりかな?」
「そうやろ」
そっかー、と息を吐き、沙織は火を弱めた鍋に味噌を溶き始める。「沸かしちゃだめなんよな?」そう問われて、「香りが飛んじゃうから」と私は返した。
ないものをねだっているのは私かもしれない。祖母のあの言葉に本当に真意があったのかさえ疑いたくなってきた。考えれば考えるほど深い闇の中へ沈んでいく思考は、まるで底なし沼でもがいているみたい。気が付かないうちに息が出来なくなってしまいそうで、ちょっとだけ恐ろしかった。
豆腐をさいの目に切って、わかめと一緒に加えてから火を止める。「あとはお寿司が届くのを待つだけや」と沙織は背中に手を回しエプロンを外した。
「手伝ってくれてありがとう」
「むしろ手伝わんとお母さんにガミガミ言われそうで」
「叔母ちゃんは優しいんやろ?」
「ちゃんと怖いから」
記憶にある限り、私は父や祖母に叱られたことはない。もちろん母からも。叱られる経験の有無は、沙織と私の性格や境遇に起因しているのだろうけど。ちょっとだけ寂しい気持ちが私の胸の中を支配した。その寂しさがもさもさと胸をくすぐり、思わず言葉になって飛び出して来た。
「私はあんまり叱られることはないから」
「茉美はいい子だもんねー」
「悪い子ではないとは思うけどさ」
嫌味のつもりではないだろうけど、その言い回しに少しだけムッとした。「叱られないっていうのは寂しいことなんやで」と大人ぶったことをつい口走ってしまう。
「叱られないのは茉美がちゃんとしてるからやろ」
「そうかも知れんけどさ」
沙織は不思議そうな顔をして、エプロンをたたみ始める。
「だったら寂しがる必要なんてないやん」
きっと、寂しがっているのは私の中の幼い部分だ。そして、これもないものねだりでしかない。
でもさ、と沙織が吐息まじりに喉を鳴らした。畳んだエプロンをカウンターの上に置き、ブレザーを正しながら、私の目をじっと見つめる。
「茉美にとって、叱ってくれる相手は亜美姉ちゃんじゃないん?」
「ん? お姉ちゃん?」
「だってそうやろ?」
「からかわれてる印象しかないんやけど?」
「私は茉美を叱ってるイメージがあるよ?」
ここまで印象に相違があるのはどうしてだろう。確かに口うるさく言われることもあるけれど、私を見つめる姉の双眸を思い出すと、いつも悪戯な色に染まっている。あれは人を叱る人の目なのだろうか。
「昨日だってそうやろ?」
「絵をくれた時?」
「そうそう」
「あれは叱りなのかなー」
昨日のことだけを言うなら、叱りというよりも諭すという方が正しい気もする。どちらも教育だと言われると納得は出来るけど。姉にどこまで真剣味があったかは一考の余地がある。
「それで、お姉ちゃんに聞く覚悟は出来た?」
肩をすくませる沙織から私は視線をそらす。逃げた先にあったのは、姉が大学に入ってから描いた風景画だった。黒壁スクエアから岬のうどん屋さんがあるアーケードを抜けた先、お寺へと続く表参道の中程に流れる小川に架かる針屋橋からの景色。夏草が生い茂る川辺には、白い壁の日本家屋が並んでいる。秋めいた雲の隙間から微かに覗いた太陽が水面を光らせて、夏と秋が混じり合いながら、世界はじわじわと暮れ始めていた。
「どうやろ」
「その覚悟が中々つかないっていうのが証拠だと思うけどなー」
「お姉ちゃんが私を叱ってることの?」
「うん。お母さんってそういう距離感なんやて」
「どうしてお姉ちゃんがお母さん?」
母と娘の距離感というのは私には理解できない。ましてや、どうして姉が母の立場になるのか。沙織の眦が優しく皺を寄せる。
「きっと叔母ちゃんが亡くなって、亜美姉ちゃんはお母さんの代わりになろうと思ったんちゃうかな」
「その割には好きに生きてるように見えるけど」
姉が私に献身的に尽くしてくれた覚えはない。もちろん私の想像する母親像と齟齬があるのは、姉が母に似ていないせいかもしれないが。
「そりゃ亜美姉ちゃんの人生やからね。でも、そういう気持ちがあったんじゃないかなってあたしは思うんよ。だから、茉美のことを叱る。間違った道に行かないようにね」
そんなことはないと否定するのは簡単だ。だけど、沙織が感じたことを否定してしまうと、これから私が祖母の言葉の真意を結論付けようと尽力していることまで否定することになってしまう。だから、納得するしかない。なんとなくずるい気がする。ただ、姉がどう思っているかは確かめようがあることだ。
「結局は早くお姉ちゃんに聞けって言いたいんやろ?」
「そういうこと」
沙織は口端を釣り上げる。姉にそっくりの悪戯な表情に私は弱いのだ。きっと沙織はそれを分かってやっている。言い逃れ出来そうにない。腹を括らなければ。そう思った瞬間、インターホンが鳴り響いた。
「きっと、お寿司屋さんやわ。お味噌汁、温め直しといて」
決めるべき覚悟から逃げるように、慌てて財布を手にして私は玄関へ向かった。
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