オレンジ色に染まった階段を見上げれば、貝殻で出来たシャンデリアがキラキラと煌めいていた。欄干にかかった毛布に小窓から差し込む暖かい日差しが吸い込まれていく。
叔母たちが帰ってから、姉は一度もリビングの方へ降りては来なかった。まるで、聞きたいことがあるなら部屋に来なさいと言われているようだ。私は意を決して、姉のいる中二階の部屋をノックする。
「はーい」
呑気な声が返ってきて、私はノブの壊れたドアを押し開いた。電気の消えた部屋で、姉はアイボリー色のソファーに寝転んでスマートフォンを眺めていた。青白い光が薄暗い部屋に浮かんでいる。
「そのソファー、寝転ぶには汚いで」
「埃くらい気にしない、気にしない。てか、あんたも昨日座ってたやん?」
「そうやっけ?」
「適当やなー」
適当なわけじゃない。昨日はずっと考え事をしていたから、無意識のうちに座っていたんだ。そんな言い訳を飲み込んで、私は寝転がっている姉の前に立つ。
スマートフォンをわずかにずらして、姉はこちらを見上げた。端麗な双眸は長いまつげに縁取られて、瞬きのたびに夕陽を反射している真っ黒な瞳を覆い隠す。「で、なに?」と寝転んだまま、姉は小首を傾げた。
「明日、大学やろ? いつ帰るん?」
「明日は夕方からやから昼前には帰るよ」
「え、今日、晩ごはん食べるん?」
「そのつもりやけど? 私の分無いなら別になくても自分でなんとかするけど」
「無いことはないけどさ」
それなら早めに言って欲しかった。用意のしようはあったのに。余り物で誤魔化すしかない。
「そんなこと確認しに来たわけちゃうやろ?」
見透かしたように目を細めて、姉はぐっと背中を浮かせた。「よっ」とおじさんみたいな弾みをつけて起き上がる。
「うん」
「なら本題を」
どうぞ、と差し出した姉の手のひらの上を夕陽が織りなす影が滑っていく。じわじわと夜の闇が部屋の隅の方から迫って来ていた。ゆっくりと飲み込まれていく姉の姿を見つめながら、私は息を飲む。
「お祖母ちゃんの話やねんけど、」
私がそう話を切り出すと、姉はスマートフォンを机の上に置いて、膝の上で頬杖を付き表情を緩めた。一瞬、言葉を詰まらせた私に、「さぁ続けて」と促す。
「――あなたは魔女にならないで。お祖母ちゃんが死んだ時、私に向けて最期に言った言葉。お姉ちゃんは聞こえてたん?」
「聞こえてたよ」
やっぱり、姉も祖母の言葉を聞いていたらしい。だったら。
「お祖母ちゃんの日記を見て、お姉ちゃんは魔女が何か分かったん?」
「あんたと同じかな」
曖昧な答えだが、私と同じということは……。やはり姉は答えを持っているらしい。それもずっと前からだ。だから聞けと言っただろう、と沙織に怒られてしまうだろうか。
秋めいた風に揺れるカーテンが、姉の顔に落ちた影の形を変えていく。乱雑に机の上に置かれた筆を指で転がして、姉は言葉を続けた。
「ていうか、あんたは魔女って言葉に引っかかってたんやな?」
「知ってたんでしょ?」
「まぁねぇー」
そう軽く喉を鳴らして、姉はソファーの背にもたれ掛かった。パーカーのポケットに手を入れて、足をブラブラと揺らす。
「で、あんたの答えは?」
夕陽が落とした暗く濃い影に姉の表情は隠されていた。「私の答え?」と首を傾げた私に「そう。あんたの中で明確なものが見つかったんでしょ?」と闇の中から声が返ってくる。
「明確かどうかは」
目を凝らした私の顔が可笑しかったのか、クスクスと姉の肩が揺れた。
「笑わないでよ」
「あんたがあまりに必死で」
姉が笑っているのは、私が闇の中を必死に見ようと目を凝らしたからだろうか。それとも、手元しか照らせないライトしか持たない私が、遥か過去の祖母の真意を探ろうとしたからだろうか。きっと、どっちもだ。
「明確じゃなくてもいいよ。あんたの思った答えで」
「……お祖母ちゃんは私に泣いて欲しかったんだと思う」
「どうしてそう思うん?」
「お祖母ちゃんやお母さんは我慢をしていたから。辛く苦しい時も、誰かに心配をかけたくない、そんな思いが先行して、本当の自分の気持ちを出すことが出来なかった。例え、家族の前でも。お祖母ちゃんはお母さんが死んだ時も、私やお姉ちゃんやお父さん、それに叔母さんに……心配をかけたくなくて泣かなかった。溢れないように感情を押し込んで、ずっと胸の中で溜めていたんだと思う」
「それはあんたも?」
「……たぶん」
すっと闇の中から姉が顔を出した。朗らかな表情がオレンジ色に染まっている。徐に立ち上がると、ゆっくりと姉の手が私に向かい伸びてきた。髪が乱れないように優しく頭を撫でられて、私は思わず息を止める。ひくっと私の肩が揺れた弾みに、姉の手が私の背中に回った。
「あんたは泣きたかったん?」
「分かんないよ」
姉の胸の中で呼吸をするたびに、この部屋と同じ臭いが鼻を燻った。
「それじゃ苦しかった?」
「分かんない」
きっと辛い気持ちはみんな同じはずだ。私だけが特別なわけじゃない。胸の中にひしめく悲しみが涙に変わらなくても、痛みは同じはずなのだ。
「お祖母ちゃんは泣けないまま死んじゃったのかな」
――あなたは。その言葉は、祖母自身が成し遂げられなかったことを示している。もしかすると、母もそこに含まれているのかもしれない。
私を抱きしめる姉の手に力が込められた。柔らかい姉の胸の中に私の頬は沈んでいく。
「お祖母ちゃんは私に泣いて欲しかった。けど、私はまだ泣けない。このままじゃ私は魔女になっちゃうのかな」
「あんたは、魔女にはなりたくない?」
「だって……」
祖母が残してくれたメッセージを読み解くことが出来たのだから、私はそれに従いたかった。私のことを思い伝えてくれた思いをないがしろにはしたくない。なのに、どうして姉はそんなことを聞くのだろう。
すっと姉の胸から私の顔が離れる。暖かい姉の手が乾いた私の頬を撫でた。私の視線はゆっくりとその腕を伝っていく。
「お姉ちゃんの答えは私と同じじゃないん?」
「どうだろうね」
姉は曖昧な表情を浮かべる。眦に寄った皺がごまかしていると告げていた。
「私の答えは間違ってたん?」
「まさか、間違ってへんよ。あんたが出した答えなら、それが正解やの」
「私が出した答えなら?」
「だって、お祖母ちゃんはあんたにあの言葉を託したんやから」
「でも、お祖母ちゃんが何を伝えたかったかが大切なんじゃない? お姉ちゃんが持ってる答えが正解かもしれへんやん」
姉は緩やかにかぶりを振った。
「本当のことなんかよりも、相手が何を伝えたかったかを考えることの方が大切な時もある。遠くにいる人のことなら尚更ね。極論、人の気持ちなんてその人にしか分からんねんから。それでも、あんたが相手のことを考えて出した答えがあるなら、それがあんたの正解」
まだ言葉の意味を理解できていない私に姉は優しく続けた。
「メッセージってそういうものやの。本も映画も歌も絵も。思いは形を変えることで、遠い場所、遠い時代にまで残っていく。そして、まるでパズルを解くみたいに、誰かが発信者の気持ちを解き明す」
「けど、間違った解釈をされてたらどうするん?」
「それを知るすべは少ないからね。それに、伝える側はそれを分かってるものやで。正しく伝わるなんて方が奇跡でしょ。それを分からず一方的に言いたいことを伝えようとしている人は横暴な人かな」
「お祖母ちゃんも分かってたんかな?」
「きっとね」
姉の双眸が弧を描く。祖母は横暴な人なんかじゃない。そして、それはきっと姉も。
「それじゃ、昨日くれたお姉ちゃんの絵は」
姉にはあの絵に込めた思いがあったはずだ。だけど、私は想像するしか無い。そして、そのメッセージは今の私に必要なものなのだ。出口のない迷路の中で彷徨っているのは、当時の姉ではなく今の私自身だから。
「あの絵に私が何を込めたかは、あんたが考えればいいこと。もちろん私には伝えたいことがあったし、そのメッセージが今のあんたには必要だと思った」
「お姉ちゃんが絵を描くのは、伝えたいことがあるからやんな?」
「そうやで」
「もし発信者がそばにいるなら、その人に聞いちゃだめなん? もちろん、答えは自分で導く。けど、お姉ちゃんがどうして絵を描くのか。その思いの根源を知りたい」
私は自分ひとりでは答えが出せないタイプだと思う。だから、今回も岬や沙織に訊ねた。けど、二人に答えを委ねていたわけじゃない。二人の意見を昇華して、自分の答えを導くためなのだ。思えば、そうした方が良いとアドバイスをくれたのは岬だ。
「そっか、答えの探し方は人それぞれやもんな」
独りよがりになったり、甘え過ぎたらだめだろうけど、目の前にいる人にだけ訊ねられることがあるはずだ。私が要求しているのは答えじゃなく、なるだけ正しい道を選ぶためのヒントだ。「あんたに学ばされることもあるんやなー」と呟いて姉は続けた。
「私が大好きな町に溶けている空気や臭い、何気ない景色の美しさや汚れ。そこに人が暮らしていてドラマがある。そういうものを一枚の絵に収めたい。自分が見慣れた景色は、誰かにとって見たことのない景色だから。この町を知らない人にもこの町の魅力を知ってもらいたいの。ま、そう思うようになったのはつい最近なんやけど」
姉は茶目っ気たっぷりに舌を出した。珍しく恥ずかしそうにして、こちらから視線をそらす。立てかかったキャンバスに手を伸ばして、つい表に出てしまった感情を誤魔化すように懐かしい顔で絵を見つめた。並んでいる絵の多くが、この町の風景画だ。私も良く知っている場所ばかり。私にとって何の変哲もない景色、それを姉は誰かに伝えたいらしい。
「もう一つ、聞いて良い?」
「何?」
「岬や沙織、それに叔母さんに、私は『魔女』って何だと思うかを訊ねた。みんなの考えを知りたかったから。そして、今は自分の答えを出せた。けど、お姉ちゃんの考えも知りたい。それを知って答えが変わるかどうかは分からないけど。……けど、知りたいねん」
「それって好奇心?」
「たぶん」
姉の手から離れたキャンバスが、がたんと音を立てた。パーカーのポケットに手を入れて、姉はベランダの方へ歩み寄っていく。カーテンの隙間からこぼれていた夕焼けは気づかない間に鳴りを潜めていた。激しい煌めきが失われたおかげで、窓の外がよく見える。空の果てでは、昼と夜の狭間がせめぎ合っていた。
「お祖母ちゃんにとって伝える手段やったんちゃうかな」
「伝える手段?」
「そう。私にとって伝える手段は絵。そして、お祖母ちゃんにとってはそれが魔法だった」
「お祖母ちゃんは魔法なんて使えんやろ?」
姉は祖母が本当に魔女だったとでも言うのだろうか。これじゃ、幾年か前の私と同じじゃないか。「さぁ、どうかな」と姉はとぼけてみせる。
「真面目に言ってる?」
「真面目やよ。まさか杖を使ったり、箒で空を飛んだりだなんて思ってへんけどね」
薄暗くとも姉の口端が釣り上がったのが分かった。私が本気でそう思っていたことを知っている顔だ。
「つまり、あの言葉自体が魔法やったの」
「『魔女にならないで』って言うのが?」
「そう言うことで、あんたに伝える手段を与えたんだよ」
「どういうこと?」
「あんたはそのおかげで色々悩んだでしょ? 魔女とはなにかって。それはつまり、どう生きるべきか、将来を考えることに繋がっている。お祖母ちゃんがかけた魔法は、必要な時になったら効力を発揮する強力なものやった。あんたの心に取り憑いて、永遠に解けることはない。いつかあんたがその魔法を解き明かそうとして、躍起になって答えを出すまでね。そして、出した答えは人生の指針になる。結果としてあんたは、『泣けない自分』と向き合うことになった。そして、あんたに魔法をかけたその呪文の言葉が『あなたは魔女にならないで』やったんちゃうかな」
考えさせる事自体が祖母の目的だったと姉は言いたいらしい。人生の分岐点で迷った時に、私は祖母の言葉を思い出すのだと。確かにその通りになった気はする。だけど、姉が言う祖母が私に与えた伝える手段とは何だったのか。それを姉に訊ねると、彼女は「だから魔法だって」と笑った。
「私も魔法が使えるようになったってこと?」
「そういうこと」
「でも、お祖母ちゃんは、私に魔女になって欲しくなかったんやろ?」
だって、『魔女にならないで』と私は言われたのだから。姉は帰ってきてから一番の笑いをこぼした。
「けど、お祖母ちゃんの願い虚しく、将来あんたは魔女になる」
「なんで?」
「お祖母ちゃんがそうだったように、あんたもその魔法を自分の子どもにかけてあげなきゃだめだってこと」
あくまで私の答えやで、と姉は付け足した。姉と私が出した答えは全く違う。けど、どちらもハズレではない。むしろどっちも正しいのだ。祖母も自身の母からあの言葉を受け継いだ。そして、いずれ私も。
でも、だとすれば可笑しなことになる。
「それってお祖母ちゃんの願いは叶ってるの? 叶ってないの?」
その答えは、まるでエッシャーの絵みたいにぐるぐると同じところを巡りはじめた。
『エッシャーの魔女』 了
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