親戚家族がやって来たのは夕方になってからだった。岬にうどんの作り方を教わって、和室のリビングでゆっくりしていたら、車のエンジン音が木造の家を揺らした。寝転んだまま頭を仏壇の方へ向ける。
中二階の真下が駐車場になっていて、仏壇横の小さな覗き窓から外の様子を見ることが出来る。普段は小さな障子を閉めているのだけど、来たら分かるようにと開けっぱなしになっていた。目で見なくとも音で分かるはずだけど。小窓から見える駐車場は、父の車の隅からテールランプの赤が漏れ出ていた。
「後ろ見てあげないと」
よいしょ、と父が立ち上がり、玄関の方へ向かっていく。私も軽く弾みをつけて、身体を起こした。父が開けて行った襖から心地よい風が入ってきた。中庭の柳の木が夕陽に染まっている。息を吸い込めば、秋の香りが鼻腔をくすぐった。
ガラガラガラ、とシャッターが下がる音が響いて、それからすぐにエンジン音が鳴り止んだ。私は立ちあがり、玄関へと向かう。「おばちゃんたち来たでー」と姉がいる中ニ階に声をかけて、私は藤居家の一同を出迎えた。
「茉美ちゃん久しぶりー」
「お久しぶりです」
「お正月以来かな? ちょっと大人っぽくなったんじゃない?」
「そうですかね」
へへ、と照れた私に、叔母は微笑ましそうに口元を緩めた。それから「沙織とはちょこちょこ会ってるんだっけ?」と長い髪を揺らす。
「いうて、夏休み京都に遊びに行った以来やんな?」
厚底のサンダルを脱ぎながら、沙織がこちらに視線を向けた。「うん。買い物に付き合ってくれた」と私が返せば、彼女は嬉しそうに八重歯を覗かせた。
「服選んであげてん」
従姉妹である沙織とは昔から仲が良くて一緒に出かけることも多い。遊ぶ場所が京都なのは、藤居家が大津にあるからだ。長浜と大津の位置関係は琵琶湖の北と南で、長浜から大津へ行くのも京都へ行くのもさほど距離は変わらない。どうせなら店も多い京都まで行ってしまおうというわけだ。大阪まで出るのは流石にちょっぴり遠いけど……。
「選んでもらったんは、このカットソー」
私はその場で一周回って服を見せびらかす。玄関の脇のステンドグラスを通り抜けた夕陽が、不可思議な模様をアイボリーな生地の上に落とした。
「あらかわいいわね!」
「そりゃあたしが選んだんやから!」
そう言って、小鼻をピクリと揺らした沙織の歳は私の一つ上。今年が大学受験のはずだが、そういう緊張感は特にない。
「ほら、玄関で立ち話してないで上がって上がって」
行儀悪く足でドアを支えていた父が、後ろから叔父と叔母を促す。両手に抱えている大きな紙袋は頂いたお土産かもしれない。
「おじゃましまーす」と呑気な声を出した沙織の隣で、「ただいま」と叔母が呟いた。
私にとって叔母のその言葉は少しだけ不思議だった。彼女が暮らしていた痕跡はほとんど残っていないのに、この家は叔母にとって実家なのだ。叔母の私物や家族、きっと匂いだってもう別のものに変わってしまっているはず。
「そう言えば、亜美ちゃんは?」
叔母は懐かしさの混じっていなかっただろう息を吐いた。
「帰って来てますよ。でも、たぶん中二階のアトリエです」
「それじゃ邪魔しちゃ悪いわね」
絵に集中しているのか姉は降りて来ない。叔父叔母夫妻はそれを気に留める様子もなく、リビングの方へと向かった。
*
「お姉ちゃん、お母さん、ただいま」
仏壇に手を合わせて、叔母は母と祖母に挨拶をしていた。姉であるはずの母の姿は、叔母よりもずっと若い。私は急須に入れたお茶を湯呑に注ぐ。芳ばしい香りは滋賀のほうじ茶だ。
「良かったら」
「ありがとう茉美ちゃん」
父と叔父はダイニングの方へ消えていった。もしかしたらお酒を呑みに行ったのかもしれない。冷蔵庫を漁る音を聞きながら、今日くらいは煩く言わないでおこうと、私はため息をこぼす。それを察したのか、叔母も「今日くらいはお酒許してあげてね」とニッコリ笑みを浮べた。
「いつもはビール二本までなんです」
「お姉ちゃんと言ってること同じ」ふふ、と嬉しそうに白い歯を見せた。
「母も言ってたんですか?」
「弘樹さんはお酒が好きやからね。いつも心配してたよ」
祖母に似ていると父には言われたけれど、どうやら母にも似ているらしい。なんとなく嬉しい。
「母はどういう人だったんですか?」
流れの中でふいに出た質問だった。岬が後押ししてくれたおかげもあるかもしれない。叔母が驚いたのは、私がこんなことを聞くのが初めてだったからだろう。仏壇の前の座布団の上でこちら向きに居直した。わずかに見開かれた双眸が次第に優しい弧を描き始める。
「お姉ちゃんは優しい子やったよ。……沙織は小さい頃に会ったの覚えてる?」
「うーん。ぼんやりとだけ。神社に連れて行ってもらった記憶がある気もしなくもないような……?」
沙織が曖昧な記憶を思い出そうと首を捻る。微笑ましそうに叔母は、それならと手を打った。
「七五三の時かな? 私が急な仕事が入って午前中だけ見てもらってたから」
「あー、その時かな?」
「沙織、よく覚えてるな」
「記憶力はええ方やから!」
残念ながら私は記憶力が悪い方だ。幼い頃の記憶は全くと言っていいほどない。母の声も肌温もりもほとんど覚えていない。きっと祖母の言葉に固執してしまっているのは、珍しく鮮明に残っている記憶だからだ。
「でも、どうして急にそんなこと聞きたくなったん?」
叔母の目が今度は悪戯な弧に変化していく。目元に出来た皺だけが彼女の年齢を感じさせた。叔母はとても綺麗な人だ。
「それは……」
頭の中には祖母の言葉がリフレインしていた。あの時そばには叔母もいたから、きっと聞いていたはずだ。「――あなたは魔女にならないで」私がそう言うと、叔母の表情がスッと柔らかいものに変わって言った。
「気にしてたんや」
「……はい」
やはり叔母もあの日の出来事を記憶しているらしい。
「最期の言葉やったもんね」
「お祖母ちゃん、そんなこと言ってたん?」
「沙織は聞こえてへんかったん?」
「うん」
あの時の祖母の声はとてもか細いものだった。間近にいた私は、祖母の呼吸の音やわずかに動く筋肉まで鮮明に覚えているけれど。
「さっきも言ったけど、茉美ちゃんはお姉ちゃんにそっくりやで」
「お父さんはお祖母ちゃんに似てるって言います」
「お母さんとお姉ちゃんが似てるからな。私はお父さんに似ちゃったかな? ほら、二人は真面目でしっかりしてるやろ? 私は自由人やから」
この家にも自由人は一人いる。どうやら姉は祖父に似たらしい。
「お母さんとお姉ちゃんに似て、茉美ちゃんはしっかり者やから」
「学校行って、洗濯して、料理して、かなわんわー」
沙織が可愛らしい八重歯をのぞかせて、机の上に突っ伏す。私はその頭を優しく撫でてあげた。うぅ、と子犬のように彼女は喉を鳴らす。
「沙織も少しはやってくれたら助かるのに」
「お昼ごはんは作ってるもん!」
「今日の夜、一緒にのっぺいうどん作る?」
「作ってみたい!」
勢いよく身体を起こして沙織は破顔した。彼女の底抜けに明るくて元気の良さは誰から受け継いだものだろうか。
「私もお姉ちゃんに、一緒に料理してみるってよく誘われたなあ」
「母は料理上手だったんですか?」
「上手やったよ。それもお母さん譲りでね。私がいくらやっても、二人の作るようにはいかんねんなー。その味を受け継いでるのは茉美ちゃんだけ」
自分だけと言われてちょっと嬉しい。けど、聞きたいことはそういうことじゃない。叔母に訊ねなくては、岬が話していた可能性は悔しいけど否定出来ないのだ。
聞きづらさを感じつつ、私は叔母に訊ねた。
「それと、私が聞きたいのは母の恋愛事情もなんですけど……」
「あ、そういうのが気になるんやね」
「あれぇいつの間にませちゃったん?」
親子の似た顔が同時に私を煽る。「別にませたわけちゃうよ!」と私が頬を膨れさせると、微笑ましそうに沙織は科を作った。珍しい大人な表情が、いつもは感じない彼女との歳の差をふいに顕にする。
叔母は立ち上がり、私の斜向いに腰掛けた。
「茉美ちゃんもそういうのが気になる年齢になったんやな」
「それは否定できませんけど……」
岬に言われて「もしかして」と思っている自分がいるのは事実だ。私や母の中に魔性な人間性が潜んでいるのだと思うと、少しだけ恐ろしい。
「弘樹さんには聞こえないように、こっそりとね」
目配せをして、叔母はダイニングの方を見つめた。気を利かせた沙織が襖を閉める。
「こういう話はお母さんから聞くものやもんね」
「お父さんには聞きづらいわなあ」
ケラケラと笑い、沙織は湯呑に息を吹きかけて、お茶をごくりと飲み込んだ。
「沙織が私に恋愛のことを聞いてきたのは中学生の時だっけ?」
「そうやった?」
「クラスに好きな男の子が出来たタイミングやったやろ」
「そんな理由ちゃうし」
バツ悪そうに、沙織は視線をそらした。そんな彼女を笑おうとしたところで、「茉美ちゃんもそうなん?」と話題がこちらに向いた。
「私は違いますよ」
慌てた様子が嘘っぽかったのか、「はいはい」と叔母は取り合ってくれない。魔性だったかを知りたいなんて聞けないので、勘違いされていても問題ないのだけど。
「お姉ちゃんはモテたみたいやで」
「モテたんですか?」
「それも男女問わずね。綺麗やったから。でも、高嶺の花と思われて、彼氏は中々出来んかったみたいやけど」
「ガードが硬いタイプだ」
お盆の上に置かれたお饅頭に沙織が手を伸ばす。「もうすぐ晩御飯やろ。太るで」と言った叔母に「今日くらいええやんか」と沙織は口を尖らせた。父や叔父のお酒を許すなら、沙織のお饅頭だって許されて良いはずだ。
「ガードが硬いか……そういうのとはちょっと違うかな。誰にだって分け隔てなく優しかったから」
茉美ちゃんみたいに、と叔母は付け加えた。母の性格は、やはり私に似ているらしい。確かに私も男女別け隔てなく誰とでも仲良く出来るタイプだ。とはいえ、恋愛に発展することは記憶の限りあまりない。
「茉美みたいな人やったと言われるとなんとなく想像できるなあ。一途なタイプや」
「私って一途なん?」
「勝手な印象やけど」
沙織と恋愛の話をしたことは数えるほどしかないはず。本当に勝手な印象だ。別に自分が一途じゃないと否定するわけじゃないけど。それは私や母の中に『魔性』と思しきものはない証拠ではないだろうか。
「一途っていう方がしっくりくるな。お姉ちゃんは私と違って、遊びが多かった子じゃないから」
「お母さんは遊んでたんや」
沙織の目が獲物を見つけた獣のように細くなる。
「お父さんには内緒やで」
「あーなんだかケーキが食べたいなぁ」
「明日、帰りに買ってあげるから」
「やった!」
魔性という言葉は目の前の二人の為にあるんじゃないだろうか。私はふいにそう思う。もし、祖母の言った魔女という言葉が魔性という意味なら、その言葉は私ではなく沙織にかけてあげるべきだったんじゃないだろうか。……けど、祖母が言葉を託したのは私だ。つまり、魔女とは魔性という意味ではないらしい。
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