「はぁっ、はっ……生きてる」
蔓にかかっていた負荷が消えた瞬間。力いっぱいに組んでいた両手の指を解き、カインは大の字になって天を仰ぐ。
勝利への充実感など欠片もない。ただただ、死んでいないことへの安堵感があった。汗だくのピジムが、その顔を心配そうに覗き込む。
「センパイ?」
「……大丈夫」
それっきり、言葉が出てこない。「生きた心地」というものをカインは体で、魂で噛みしめていた。
戦いを終えて痛みがより鮮明になってきたが、それすらも今は生を実感できるありがたい感覚に思える。……が、いつまでも寝そべってはいられない。カインは上体を起こし、努めて明るく振る舞う。
「よしっ。暗くなる前に、帰ろうか」
「どうやって?」
「うーん……そうだね、ははっ」
少し考えて、ようやくカインは気づく。どう足掻いても、いや足掻けない足だからこそ、陽が落ちる前に森を出るのは不可能だ。
とぼけたような笑い声をあげたカインを、グラシェスが再び地面へ寝かせた。
「あ、頭回ってないじゃないですか! きょ、今日は野宿するし、か──」
その言葉が途切れる。背後で、何者かが動く音がした。
「う……ウソだ」
グラシェスの表情が絶望に沈む。アジトの中から多数のゴブリンと、痩せた狼がぞろぞろと這い出てきていた。どうやら冠持ちの牙を逃れ、立て籠もっていた奴らがいたらしい。手には投石紐や鎌、棍棒を持っており、冠持ちの死骸越しに弱り切った三人の幻導士を見据えていた。
カインはリーダーとして、最後の指示を出す。
「……ピジム。グラシェスを連れて逃げてくれ」
「センパイ!? 何言って」
「僕はここで時間を稼ぐ。動ける二人だけでも逃げるんだ」
特に、ピジムは人間の雌だ。ゴブリンの手に渡れば、再び群れの規模は増大する。敗れるとしても、それだけは避けなければならない。
「君も、グラシェスも。ゴブリンには渡せない」
強いストレスと恐怖に晒されたゴブリンは、腹いせに手ごろな獲物に喰らいつくだろう。ロクに歩けもしない身でできるのは、奴らのエサになってでも後輩を逃がすこと。
「ダメだよ! アタシ、まだ動けるから!」
そう覚悟を決めたカインに、ピジムがなおも食い下がった時。
「オォォーーン……!」
「アォォーーーン!!」
彼女の弁を援護するように、狼達が吠え始めた。どこか切実な、訴えかけるような空気の震えが森全体へと広がっていく。
「デャビャエ!」
ゴブリンの一匹が狼の頭を叩き、黙らせようとする。が、雑な棍棒はあっけなく躱された。逆に狼は鬱憤を晴らすかのように唸り声をあげ、二の腕に喰らいつく。
鋭い牙が紫の皮膚を破り、悲鳴が上がった。
「ギャァッ、ビジャイ!」
「ゴギョジェ!」
再び辺りを喧騒が包み込む。狼とて、ゴブリンに飼われることを良しとはしなかったらしい。冠持ちの死をきっかけに奪われた自由を、森の狩人としての矜持を取り戻すため、戦いを挑んだ。
狼の予期せぬ叛逆に、しかしピジムは即座に判断する。逃げるなら、今しかない。
「センパイ!」
「か、肩を貸します!」
混乱に乗じ、三人はその場から脱出する。
「ビャジェ! ビャジェ!」
が、馬鹿なくせにこういう所だけ目ざといのがゴブリンという種族。狼を数匹に任せ、三人の方へと走り出す。
「グラシェス、センパイをお願い!」
「ダメだピジム! 幻素がもう……」
ピジムの拳が、駆け寄ってきた一匹を後ろへ吹き飛ばす。だがそれだけだ。
疲労困憊の現状、ピジムの攻撃は素手と変わりない。ただの少女が素手で殺せるほど、ゴブリンの生命力は安くない。もう一匹、また一匹とピジムの相手取るゴブリンは増えていく。
「下がれピジム! 下がれぇええ──!!」
カインの悲痛な叫びを聞き届けた、わけではないのだろうが。アジトとは別の方角、道なき道の向こうからのっそりと何者かが現れる。
そいつは、歴戦の空気を纏う狼であった。元は濃い灰色だったはずの体毛には銀色が混じり、左耳はえぐり取られたように欠けている。体長約一・五メートル、狼としては誇張でなく過去最大級だろう。
その狼はピジムを囲むゴブリンの輪に飛び込むと鼻を削ぎ、目を抉り、喉笛を噛みちぎり、頭蓋を噛み砕き、瞬く間に殲滅してしまう。無駄も妥協も一切ない急所への一撃に、狩人としての年季が窺えた。
「え、っと……」
「な、何が何だか」
「アリガト、なのかな?」
想定外の連続に思考が追い付かない。暫時呆けていた三人だが、
「フルルル……」
とっとと失せろ、と言わんばかりの唸り声で我に返った。ゴブリンにさらわれ、服従を強いられていたのはこの大狼の部下だったようだ。その恩を返した以上、もう三人は森の外から来た余所者ということ。
ここから先は、森に住む者の仕事。未だ部下と争っている不埒者を鎮めるべく、銀毛の猛者は三人に背を向けた。数秒後、気高い雄叫びと共にゴブリン達の悲鳴と一方的に何かを噛む音が聞こえてくる。
「……彼の気が変わらないうちに、退散しようか」
カインが呟く。あの大狼がその気なら、三人は今頃仲良く胃の中だっただろう。いたずらにこの場に留まってはいけない。
「森は抜けられないけど……舟を作ってた所まで、戻ろっか」
「そ、それが良いと思う。ど、どうやっても川は、わ、渡れないし」
あそこならば横になれるスペースもあった。狼も部下を取り戻した今、ゴブリンの悪臭が染みついた場所にわざわざ来ない。カインに肩を貸す二人はそう結論付け、造船所で夜を明かすことにする。
夜。三人は脂漬けを頬張っていた。
口にへばりつくようなねっとりとした油脂と、強烈に利かされた塩コショウ。傷み、疲れきった体には何よりの薬だった。
「生きて、物を食べられる。ありがたいね……」
カインは、当たり前を感慨深く口にする。ここまで深く感謝しながら食事をすることは、今までなかった。二度に渡って『食べられる側』となったからこそ、その言葉はより重みを伴う。
「ホント、皆生きてて良かった。センパイも、グラシェスも動けなくなっちゃうんだもん」
ピジムが最後に残った鶏肉のブロックを咀嚼し、一欠片も余さず味わって食道へと送り込む。
「ピ、ピジムだって。あ、あの狼がた、助けてくれて良かった」
やや食の細いグラシェスは、ゴロゴロと切られた根菜と格闘中。
三人束になり、重傷を負い、死力を絞り尽くし、最後の最後は女神の気まぐれも同然。しかしカインをはじめ、全員が理解していた。
「これが、生きるってことなんだね」
冠持ちとの生存競争は過酷だった。いつ窮地に陥るか、好機が転がり込むか一切不明。片時も気は抜けず、何なら抜かなかったとて良い結果に繋がらない道があったかもしれない。
しかし三人は生き残るため、勝つために全力を尽くした。一つ一つは小さな足掻きかもしれないが、出来ることを目一杯やって掴み取ったのがこの時間なのだ。
大袈裟と笑われても良い。三人は今、最高に「生」を実感していた。
「大変だったけどこの感じ、嫌いじゃないよ」
「し、しばらくはか、勘弁ですけど……」
体へのダメージは大きい。寝なければいけないのに、高揚感で寝付けない。幻導士としてまだまだ未熟な三人の夜は、賑やかに過ぎていく。
【4・5】三人に迫る王 -完-
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