ぬるい空気を切り裂いた不意打ちに、狼王が警戒を強める。
水の鞭を振るった張本人――カミラが、その白い鎧を月に晒す。その背後には、亡霊が闇に紛れるように佇んでいた。
「大丈夫か!? 良く持ち堪え……何だ、オーガスタスか」
「何だとは何だよ。それに、その言葉を言うのは俺にだけじゃないだろ?」
オーガスタスの言葉に、カミラがピクっとなる。クラレンスの方へぎこちなく首を向け、すぐに戻した。
「あ……ああ。うん、そうだ、な」
姉弟なのだ、顔は一目見て分かったが……カミラの口からは碌な言葉が出てこなかった。
「……とりあえず、無事で何よりだぜ」
こりゃあダメだ。オーガスタスは会話を繋いでやる。
「戦ってるのはもう二人。集落の入り口付近、テレザとシェラがいる。向こうも良い状況じゃねえだろう」
「分かった。ど――」
「……」
どうする、サイラス? とカミラが聞く前に、サイラスは草地を滑るようにテレザ達の方へと向かって行く。相変わらず完全に無言ではあるが、付き合いの長い二人には彼の意図がはっきりと伝わった。
「くっく。『弟から逃げるな』だとよ、カミラ」
その目は優しく、カミラとクラレンスを交互に見ている。
「……分かっている。だが、ややこしい話は後だ」
カミラが渋面で武器を構え、ジェヴォーダンを改めて睨みながら、大声で無理矢理場を締めた。
「クラレンス! 貴様がどれだけ強くなったか、私に見せてみろ」
最後に会った一〇余年前と何も変わらない、凛とした厳しい声がクラレンスに届く。散々憎み、恨み、そして憧れていたこの声に、かつてならカッと言い返していただろうが――今は懐かしさすら覚える。
彼の口角は知らず、穏やかに上がってしまっていた。
「言われなくとも、見せてやるさ。俺なりに、死線は潜ってきたからな」
クラレンスの余裕ある返しを、オーガスタスは横目で誇らしげに見ていた。
「よし行くぞ。カミラはいつも通り最前線、クラレンスはその補佐。俺が決めの一撃を叩き込む。良いな!」
「任せろ」
「了解した」
カミラとクラレンスが並び立つ。それを挑戦と取ったかジェヴォーダンが一声吠え、飛びかかる。振り上げた右前肢、そこに備わる爪が鈍く月光を帯びて二人へと叩きつけられた。
が、その手応えは先ほどとは違う。かざされた二枚の盾が完璧に連動し、一枚の壁を思わせる堅固さでジェヴォーダンの爪を弾き返した。
「隙あり、だ!」
オーガスタスが顎へ向けて振るった戦鎚を嫌い、ジェヴォーダンは地を蹴って反転後退。ついでとばかりに鉄線を束ねたような尾を振るうが、そこへまたしても壁が割り込んだ。間合いが空いて仕切り直し、ジェヴォーダンが忌々し気に唸る。
「良いぞ二人とも! 息ピッタリじゃねえか」
「な、何がピッタリなものか!」
「俺が合わせてやったんだ」
「ピッタリじゃねえかよ……」
死闘の最中にも関わらず、オーガスタスが相好を崩した、その刹那。
三人からやや離れた集落の入り口辺りで、光と音が爆ぜた。
テレザにとっても、それは全くの不意打ちだった。
地面に押し倒され、もがいていた彼女の視界が重く激しい音と同時に白く染まる。直後に風圧が走り抜け、風に巻かれた土が頬を叩いた。
「いっ……!?」
眩さは一瞬。白と黒を一瞬で往復した視界はまともに機能していないが、体にのしかかる重さが一気に軽くなったことは分かる。今なら跳ねのけられる!
「っ邪魔よ――、?」
テレザが思いっきり腕を跳ね上げると、マーブルウルフの体は何の抵抗もなく傾き、地面へと倒れた。そして感じる、腹部への温かみ。まだ腹を噛まれたりはしていないはずだが……と不思議に思いつつ上体を起こし、自らの体を見下ろしてみる。
すると、
「なっ……これ、こいつの血?」
マーブルウルフの赤黒い血が、彼女の鎧をしとどに濡らしていた。地面に倒れたそいつを見れば脇腹に大穴が空き、千切れた内臓と骨が肉と混ざり合って覗いている。その体からは未だ止めどなく血が流れ、草地へとしみ出していた。
思わず風の吹いてきた方向を振り返る。その先には銃を地面に突き立て、それにすがるように肩で息をするシェラの姿があった。そして彼女に向かって身をたわめる、生き残りの二頭も。
「させるかっ、『炎熱噴射』!」
シェラのおかげで、まさしく九死に一生を得た。そして二頭は目の前にいる。テレザは残る力を振り絞り、跳ぶ。痛みのぶり返し始めた右拳を手刀へ切り替え、助走の勢いそのまま手前にいた一頭の背に振り下ろす。
「ギャンッ」
骨を砕く感触。やっと犬らしい悲鳴が聞けたが、状態を確認する暇はない。さらに踏み込み、もう一頭の尾も左手で引っ掴む。脇を絞って股を割り、マーブルウルフを力づくでその場に引き留めた。
「これで、終わりっ――」
奥歯を噛みしめる。さらにテレザは左腕に渾身の力を込め、手を振り払おうともがくマーブルウルフを豪快に地面から引っこ抜く。そのまま後方へとぶん回し、無防備になったその腹に残る炎の全てを打ち込む。
「『熱杭』!」
破裂音と共に拳が皮を裂き、骨を割り、内臓を潰す。へばり切った足腰は攻撃の勢いを吸収し切れず、数歩つんのめってようやく止まる。酸素を求めて大きく息を吸うと、全身に浴びた体液や未消化の肉の発する悪臭が気付け薬になってくれた。
一欠片の空元気を取り戻し、テレザはシェラの方向へ振り返る。
先ほど一頭が、再び立ち上がっていた。荒い呼吸をする度に、その体が激痛に震えている。もう間もなく死ぬだろうが、死ぬ前にに一人でも食い殺そうという執念でシェラへと寄っていく。
「っ、来ないで」
健気に反撃を試みるシェラだが、銃を取り落とし、一緒に地面に這いつくばるのが関の山。
「良い、加減に……しなさいよ」
私が守らなきゃ。呻くようにそう言って、テレザはふらふらとマーブルウルフを追う。走るつもりだったが、よろけて倒れたらもう起き上がれないことを察した。
先ほどの閃光の影響はもう残っていないはずなのに、視界がぼやける。幻素欠乏を起こし極限に達した疲労により、無意識に瞼を閉じかける。筋肉が、骨が、肺が、心臓が、脳がもう休ませろと全力で信号を送ってくる。
そもそも追いついたところで、マーブルウルフに通じる手札もない。喰われるのがシェラか、テレザか、あるいは両方か。それだけの違いかもしれない。
それでも、進む。体が動く限り、抗う。
「……『風杭』」
かすかに聞こえた詠唱に、テレザは足を止めた。マーブルウルフが不意に地面から浮き上がり、ビクッビクッと痙攣する。その背中から、収斂した風の杭が生えていた。呆然と振り返ったテレザの目に、ボロボロのローブを纏った男が朧げに映る。
オーガスタスの知り合いの、無口な男。テレザが再三殴って仕留めきれなかったマーブルウルフを易々と。恐ろしい術式の冴えだ。
「サイラス、だっけ……? シェラを、お願い」
それだけ言って、テレザは地面にへたり込んだ。
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