これは、シェラの所属する幻導士ギルドが管轄する地域にある村の話。
天候はあいにくの雨、夕方に差し掛かったのもあって、出歩く村人はいない。唯一開いている家の玄関先で、一人の男がこの家に住む夫人と会話していた。
「回収へのご協力、ありがとうございます」
「いつもありがとうねえ、ダレンズさん」
夫人のにこやかな声を背に、ダレンズと呼ばれた男はその家を後にする。
このやり取りも、もう四年目。当然彼女の旦那ともすっかり顔見知りで、仕事外でばったり出会って談笑したこともある。
引いてきた荷車の元へ小走りに戻ると、幌の中に上半身を突っ込んでいた若者がダレンズに気づいた。丸眼鏡をかけた物静かな彼は、ごく最近幻導士ギルドの紹介で入ってきた後輩。聞いた話では、依頼中のトラブルが心の傷となって引退したとのことだ。
「待たせちまったな。『ツチ』の確認は良いか?」
「八……十……よし。大丈夫です」
「サンキュー。それじゃ、集積所へ戻るぞ」
『ツチ』とは、ダレンズが仕事で回収している排せつ物や生ごみの隠語。直接口に出すのは憚られるため、業界の取り決めとしてこう呼ぶことになっている。
週に二日、木製の荷車にこれまた木製の回収用容器を載せ、それを引いて担当地域の村を回って排泄物を回収し、各地の集積所で浄化する。
所属は幻導士ギルドから、町の衛生管理部へと変わる。公式の呼び名は「清浄人」――それが、第二の人生を歩むダレンズの仕事だ。
「ダレンズさん、仲の良い人多いんですね」
「この辺は俺の出身地に近いんだ。幻導士としての俺を知ってる人間も多い」
「あっ……そうだったんですね。通りで皆さん優しいと」
「曲がりなりにも幻導士として錬鉄Ⅲ級まで――っと、昔話をしてる場合じゃねえ」
肌寒い季節ではないが、雨に濡れるのは決して気持ちの良いことではない。軽く顔を手でぬぐい、容器がきちんと荷車の底に固定されているか、蓋はきちんと閉まっているか確認する。今日は足回りが悪い。まかり間違って中身がこぼれたら大惨事だ。
ダレンズ・スロウン、今年で四七歳。彼もまた、ギルドに所属する幻導士として働いていた。
衰えを感じて引退を決意した際「戦闘は無理でも、水属性幻素を扱えるなら」とギルドから斡旋されたのがこの仕事だ。歩き回るとは言っても人里ばかり。大して険しい道でもなければ、猛獣と出会う危険も少ない。そのうえ希望者が少ないため、収入は錬鉄Ⅰ級と同程度貰える。
「こんなこと言ったら、怒られるかもしれないですけど。僕、もっと酷い扱いされると思ってました」
ふと若者がこぼした言葉に、ダレンズは少し反応が遅れた。
汚物を扱うという関係上、「そんな仕事しかできない奴ら」だと心無い言葉を投げる者がいるのは確かだ。
「お前はまだ若いからな……。でも安心してくれ。俺といれば、この辺りでそんな扱いはさせない」
ダレンズのように、幻導士として多少でも実績ある者ならば、その地域での名声が盾になる。しかし目の前の彼のように、若くして引退に追い込まれた者には守ってくれるものがない。ダレンズの脳裏に、何もできず幻導士にしかなれなかった奴、と軽んじられた新人時代がよみがえる。
「自信を持て、としか言えない。俺たちの仕事は間違いなく、この地域に貢献している。そのことを忘れるなよ」
ダレンズが届けられるのは言葉だけ。
「……ありがとうございます。でも大丈夫。幻導士だった時に見た魔物に比べれば、人間の言葉なんて軽いもんです」
「そうか。なら良い」
会話をそこで打ち切り、二人は荷車を引き始める。
早朝に集積所を出発してから村々を回り、二人が再び集積所へと帰って来たのは夕暮れも終わろうかという時間帯。
雨でぬかるんだ道は、普段よりはるかに体力を消耗する。ダレンズは大きく息を吐き出した。
「ふぅー、ふぅ……。やっとか」
「大丈夫ですか?」
「あ、あぁ。悪いな、心配かけて」
幻導士を引退して数年、ますます体力の衰えを実感するようになった。流石にその辺の村人よりは動けるだろうが、今ダレンズを心配そうに見ている若者との差は歴然。
「収集の日に限って雨なんてな。カハッ……ツイてねえ」
強がって笑おうとしたが、酸素を求めて広がった気道は柔軟な動きを断固拒否。かえって心配をかける結果になってしまった。
「浄化は僕がやりますから、ダレンズさんは休んでた方が」
「いやいや一人じゃ時間がかかりすぎる。俺もやるさ」
やっと呼吸が整ってきた。気遣いは嬉しいが、それでは先輩としての面目が立たない。協力して荷車を集積所の中へと入れ、『ツチ』の入った容器を降ろす。
集積所とは言っても半分は物置小屋のようなもの、特段の設備があるわけではない。集めた『ツチ』を浄化するスペース、荷車と容器用の収納、それらが盗まれないよう監視する人員が寝泊まりする狭く固いベッド。これが集積所の全てだ。
直接嗅ぐわけではないとはいえ、数日溜まった『ツチ』の放つ臭いは相当に酷い。二人して顔をしかめながら、容器三つずつに対して水属性幻素の術式をかけていく。
『澄みきった清流よ。その穢れなきを地の底にまで運びたまえ――『水洗』』
二人が詠唱するごとに『ツチ』と悪臭は消え、容器の中には清らかな水と僅かな食べ物クズに変わっていく。やがて全ての容器を浄化して道具を片付けた二人は、最早小屋に染みついたと言うべき悪臭の残滓から逃げるように外へ出た。
「ぷはーっ。やっぱり何度やっても、あの臭いは駄目だわ」
「そうですね。世の中には必要な仕事なんでしょうけど……」
未だ止まない雨の中、雨粒ごと新鮮な空気を取り込むように深呼吸するダレンズ。あとは、夜通し集積所を警戒する交代要員を待つばかり。緊張が解け、若者も本音をポロリ。
「なあ……この仕事、やってけそうか?」
ダレンズは改めて、若者にそう聞いた。
命の危険こそ少ないが、決して楽な仕事ではない。無論辞めて欲しいわけではないが、この若者ならばもっと良い職に就けるだろうに。そう考えてしまう。
「ギルドの斡旋も、受けなきゃいけないわけじゃない。俺みたいに、体が言うこと聞かないなら仕方ないが。まだ動けるんだろ?」
「違うんです」
「違う?」
「はい。自分で……僕は、自分でこの仕事に就きたいと志願したんです」
「何でだ? お前なら、もっといい話があったろう?」
もったいないことを、と言いたげなダレンズに「ギルドの方からもそう言われました」と若者は乾いた声音で返した。
「でも、僕はもう幻導士としては死んでいるんです」
口調は静かでも、心の奥底では自分への怒りが、悔恨が煮えたぎっている。若者の拳は関節が白くなるほど握り込まれ、眉間に年齢不相応なシワが寄った。
「あの日僕は、任せられた役目も果たせず、仲間を救えなかった。それでも周りは、僕を幻導士として見ているんです。求められる仕事内容も、幻素をフルに活用するものばかり。それに、耐えられそうもなくて……」
「だから、肉体労働がメインのこの仕事にしたのか。確かにこれが良いと言えば、ギルドだって強くは反対しない……何たって人手不足だからな」
力尽きて項垂れるように、若者が頷く。
ダレンズは目を閉じ、雨粒に当たりながらどう言葉をかけるか考える。
たった一度の失敗で……と言うのはあまりに無責任だろう。彼にとってその仲間は自らの才能を、幻導士としての将来を閉ざしてしまうほど、大事な存在だったのだ。
「ごめんなさい。こんな、どうしようもない理由で」
本当にこの若者は、根が真面目過ぎる。
「謝らなくていい。お前は立派だよ。自分なりにできることを見つけて、ここに来たんだ」
「そんなこと当た」
「当たり前、じゃないんだなこれが」
若者の反応に被せる。
「大抵の人間は、見栄を張りたがる。できるように見せたがるもんだ。若い頃は特にな」
他でもないダレンズがそうだった。
だがこの若者はそうしなかった。自分に素直に、できないことをできないと判断してこの仕事を選んだ。
「ギルドから言われたろ? この仕事、楽じゃないぞって。変な奴にグチグチ言われるぞって」
「……はい」
「それでも、この仕事を自分で選んだ。もうその時点で立派なんだよ。俺なんか『流石にもう少し別の仕事はないか』って探しちまったからな」
二十年以上も幻導士を続けて、キャリア晩年にお情けで錬鉄Ⅲ級が関の山。本当に『生き残った』だけのロートルに、理想のセカンドキャリアなどあるはずがない。それはダレンズ自身、心の中では分かっていた。
それでもちっぽけな自尊心は、現実を一度で受け入れられなかった。それに比べて、この若者の何と謙虚で聡明なことか。
「お前がもし事故に遭わなければ、良い幻導士になったんだろうな」
「そうでしょうか。……あの日がなかったら、僕はきっと思いあがったままだと思います」
「いーや、お前ならどこかですぐ気づいたね。間違いない」
どうにか押し切る。若者の拳が緩んだことに安堵して、ダレンズは三度目の疑問を投げかける。
「もう一回聞く。やってけそうか?」
問うのは能力的な可否ではない。この若者ならばこなせるに決まっている。
だからこそ、ダレンズと同じ場所に身を置かせるのは憚られる。この職に就けば、幻導士としては鈍る一方だ。
幻導士としての華々しい可能性に、本当に未練はないのか。
やり直したい、という想いが胸の内に僅かでも残っていないか。
ほんの少しでもそういった希望を持っているのなら、こんな職に縛り付けておいてはいけない。今すぐギルドに送り返す。
「……はい」
たっぷり五秒ほど溜めて、若者は答えを口にした。
「僕はもう、幻導士ではありませんから。これからは清浄人として、ここで働きたいんです」
「……分かった」
折良く、交代の人員が二人やってきた。手を上げた彼らに手を振り返し、ダレンズと若者は家路へと着く。
「お疲れさん。これから、よろしく頼むぜ」
「お疲れさまでした」
夢に向かい走る者の陰、必ず夢破れる者がいる。
敗れることは恥ではない。敗れたことを受け入れぬことこそ真の恥。
次なる一歩を踏み出す者の未来は、今再び幻で満ち溢れる。
エレメンターズ豆知識
『幻導士でいられる時間より、幻導士でいられない時間の方が長い』
一般に幻導士(人間)の全盛期は二十代半ば~三十代の前半。多くは三十代後半から一気にガタが来て、四十代の半ばまでに戦えなくなり、引退を余儀なくされる。
引退後、多くの幻導士はこの話のようにギルドから就職の斡旋を受ける。適性によっては大規模な土木建設工事に携わって稼いだり、医療術式を修めた者ならば診療所を開くことも可能。
階級の高い(赤銅級以上)者は幻導士ギルドの役職として、後進の指導に当たる者もいる。
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