律子が自転車で緩やかな坂道を下る。
左に海が近い国道であった。
多くの車が走り、歩道には水着にちょっとした着物を羽織っただけのバカンス気分の観光客たちが多かった。
顔を見ただけで地元の人でないことが律子には分かる。
町の住人とは殆どが顔見知りだからだ。
そして律子は一軒の喫茶店の前で自転車を止めた。
ここは母が経営している店である。
喫茶店の名前は「葵」。母の名前と同じである。
学生服姿の律子が店の扉を開けて中に入る。
店内は南国風の観葉植物が多い落ち着いた感じの店である。
有線からはサザンやチューブの曲が流れていた。
客は疎らに居る。
地元の老人、家族サービスに疲れて浜から逃げてきた人、仕事をサボってやってきたタクシーの運転手。
そんな面々だった。
静かで落ち着くには良い店だろう。
律子が店内に入るとカウンターの中から母が「おかえり」と言いながら店の奥のテーブル席を指差す。
律子もあどけない表情で母が指差す先を追った。
そこにはテーブル席に腰掛ける町の顔役の大塚剛三の姿があった。
そして剛三と向かい合い腰掛ける二人の背中。
白いワイシャツの男性と、白いワンピースの少女。
電話で退魔師が話を聞きに来ていると聞いていた律子は、二人の背中を見て、若干の拍子抜けを感じていた。
律子が描いた退魔師のイメージとは、修行僧やエクソシストのように、いかにも胡散臭い輩が来ているのだと思っていたからだ。
二人の背後から律子が迫ると、正面を向いていた剛三が気づき立ち上がる。
老いた笑顔が軟らかい。
「やあ、律子ちゃん。おひさしぶりだね」
「こんにちは大塚さん」
剛三が立ち上がると律子も礼儀正しく頭を下げた。
二人の様子を見てワイシャツの男も立ち上がる。
七三で黒縁眼鏡の男。退魔師というよりもセールスマンのように見えた。
そして、男が挨拶をする。
「こんにちは。私は退治屋の三外軒太郎と申します。こちらが助手の憑き姫です。よろしく」
「いいえ、私が本体です」
「は、はあ……」
軒太郎は立ち上がって挨拶をしたが、少女は立ち上がりもせずに、座ったまま律子を見上げた。
思わず律子が戸惑う。
「まあ、律子ちゃん座って」
「は、はい」
戸惑いを見せた律子を剛三が誘導して自分の隣に座らせた。
剛三と軒太郎がアイスコーヒーを飲んでおり、律子の正面に座る憑き姫はチョコレートパフェを食べていた。
幼さが残る表情に大人びた目元、それにパフェ。何かがズレていた。
母が気を使い注文もしていないのに律子の分のアイスティーを運んでくる。
そして剛三の進行で話が始まった。
妖怪の件だ―――。
律子はバス事故の現場で見た話をありのまま話した。
律子の話を軒太郎は黒縁眼鏡の向こうで浅い笑みを浮かべながら聞いている。
憑き姫は結露したパフェの器から垂れた雫で、何やらテーブルに落書きを作っている。
冷たく美しい眼差しが下を向いていた。
律子が一通り話を終える。
すると両手を組む軒太郎が「なるほど」と一言だけで頷いた。
店内に夏の曲が小波のように打ち寄せる。
軒太郎が続いて口を開く。
「おそらくその妖怪は、『わいら』ですね」
「「わいら?」」
軒太郎の言った妖怪の名を律子と剛三の二人が同時に反芻する。
声が完全に重なっていた。
二人が聞いた事もない妖怪の名前。
それに付いて軒太郎がうんちくを語り始める。
「色々な説があったり、不明な点が多い妖怪なのですよ――」
「そうね、私も見たことがないわ。今回の仕事は幸運かもしれないわね」
水滴をテーブルに伸ばす憑き姫は俯いたまま言った。
言葉の通りに嬉しいのか口元が僅かに釣り上がる。
それを見て律子が「この子、怖い……」と心で念ずる。
それが憑き姫に届いたのか、一度だけ憑き姫が律子に視線を上げた。
心臓を叩かれたように律子が驚き背筋を伸ばす。
憑き姫の視線は怯えた律子を数秒眺めるとまたテーブルへと落ちた。
軒太郎が、そのような二人の素振りに気付いていながらも無視して話を続けて行く。
「わいらって妖怪は、牛のような体に前足に一本ずつの鉤爪を持った姿で良く絵巻などに描かれることがある妖怪なんですよ」
「緑色じゃあないのですか?」
律子も疑問に思ったが、先に訊いたのは剛三のほうだった。
彼もまたわいらを見ている人物だ。
己が見たものと若干の異なりが存在した為、話に疑問を抱いたのであろう。
「それが、色々な妖怪の話を纏めたものだと、お二人が見たように、緑色で蛙のようだったとか鰐のようだったといった書物も多くてね」
「妖怪の多くが曖昧な存在。所詮は恐怖や畏怖する人の心が想像した形なの」
誰とも目を合わせない憑き姫が言う。
「そうですね。しかもわいらの語源は、|畏らい《わいらい》とも言われており、畏らいとは、かしこまる、その場に畏る、って感じの意味なんだよ。わいらを見たとき、奴は這いつくばるように頭を低くしてなかったかい?」
「はい……」
律子が思い出し答えた。
確かにどっしりとした体を低くして、這いつくばるように頭が低い位置にあった。
てっきり律子は、草むらに隠れて飛び掛ろうとしているのかと思っていた。
「他に『おどろおどろ』と言う妖怪がいてね。どちらの姿も這いつくばったような姿をしているんだよ。同一の妖怪だといった説もある妖怪なんだ」
「そうなんですか……」
「畏とは恐れや怖れ。怖いが、わいら。恐ろしいが、おとろしい。二体で一匹の妖怪にあるとか、一体の妖怪が二体に分かれたって説もあるのよ」
今度は憑き姫が自慢げに解説を演じる。
軒太郎一人に良い格好をさせたくない様子だ。
彼女も博学なところを見せびらかす。
「でも、そこまで行くと、マンガよね。ふっ――」
そう言うと憑き姫は視線を横に流してから鼻で笑い飛ばす。
とても小生意気に見えた。
「お話、有り難うございました」
軒太郎が律子に話の礼を述べると席を立つ。
「では、次にバスの事故現場を調べてみましょうか。大塚氏、案内を願います」
「はい」
剛三と憑き姫も席を立ちあがると、先に進む軒太郎の背中を追った。
「すみません」
店を出ようとした三人に律子が声を掛ける。
何事かと三人が振り返った。
律子は真剣な表情をしており、なんらかの決意が双眸に映る。
「皆さん、私も一緒に行ってもいいですか……」
小首を傾げながら僅かに考える軒太郎。
その様子を剛三が見守る。
判断を軒太郎に一任している様子だ。
憑き姫は何も言わない。
「危険があるかも知れませんよ」
軒太郎の言うとおりだ。
山には今まで話していた妖怪が巣くっているのだから。
四人の話をカウンター内から聞いていた律子の母は、心配そうに顔を曇らせていた。
しかし、娘の行動を止めようとしていなかった。
横目に剛三が、それを確認する。
「責任、取らないわよ」
「ええ、いいわ」
憑き姫の言葉に律子がはっきりとした意思を込めて答えた。
「葵さんもいいですか?」
剛三がカウンター内に居る母へ、念の為なのか質問を飛ばす。
その声に店主が笑顔で頷いた。娘の意思を尊重している。
「お母さん、ありがとう」
律子も母に笑顔で答えた。
夏空の如く清々しい親子だと剛三は思う。
話がまとまり皆が店を出ようとした。
その時である。
「ですが皆さん……」
四人が店を出ようとした時、葵が再び声をかけた。
「ですが皆さん、最後にお願いがあります……」
葵は何やら言いにくそうな表情をしていた。
「なんでしょう?」
「お会計を済ましてから行ってください……」
確かに誰も会計を済まさずに店を出ようとしていた。
それだけは流石に葵も許せない。
笑顔に青筋が浮かんでいた。
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