一人の少女が自転車を走らせていた。
夏の風に黒髪が靡く。
白いワイシャツの襟首には赤いリボンが可憐に閃いていた。
チェックのスカートから伸び出た綺麗で健康的な脚がペダルを漕いでいる。
夏用の学生服が精彩だった。
活発なイメージが強い少女だったが、どこか影が見える。
明るさを濁らせているのは心の影だろう。
彼女は先程まで同じ高校の友達と一緒に下校していた。
ほんの10分ぐらい前に道を別れたばかりであった。
今日の彼女は、いつもの帰り道から僅かに逸れて、家路と異なる通りを自転車で走りぬける。
ホテルや旅館が軒を連ねる通りから大きく外れた住宅街。
人影も少なく観光客の姿も見えない。
住宅の向こうには青く茂る山々が近くに聳えていた。
そして彼女は、とある一軒家の前で自転車を止める。
何処にでもある普通の一軒家だ。
ある程度手入れされた小さな庭があり、玄関までは数メートルほどの距離がある。
彼女の自宅ではない。
路地から住宅を見上げる少女。
窓という窓は閉め切られ、中からカーテンが閉じられている。
それが何処となく寂しさを窺わせていた。
少女の表情も険しい。
自転車を壁際に寄せて止めた少女は、肩まである髪を撫でると一度大きく深呼吸をした。
心を静めて落ち着こうとしている。
「よしっ!」
両頬を掌で叩く。
気合いが入った様子だった。
顔を凛とさせ、玄関を目指して突き進む。
だが彼女の表情には、何故か緊張に畏怖するようにも見えた。
彼女に取ってこの家への訪問は、それだけ勇気を要することなのだろう。
玄関まで歩んだ彼女は、細身の指で呼び鈴を押す。
室内からありふれたキンコーンといった音が聴こえてきた。
しばらく待つ。
中から応答はない。
しかし僅かに人の気配がある。家主は居そうだ。
そう悟り彼女は再び呼び鈴を鳴らした。
やはり応答はないが、確かに室内からは人が居る気配が伝わって来る。
気のせいではない。
「こんにちは、|素詛《すそ》です。五代くんいらっしゃいませんか?」
呼び鈴を諦めた少女は、声を張り上げた。
それに応じて、やっと中からはっきりと分かる物音が聴こえて来る。
そして歩む気配が玄関に近づいて来た。
やがて玄関の鍵が音を立てて解除されると、扉が開かれる。
扉の隙間から顔を出すは、同い年ぐらいの少年。
少女の記憶に残る表情よりも少しやつれており、暗い影が見て取れた。
「こんにちは、五代くん……」
「やあ、久しぶり素詛さん……」
挨拶を交わすと少女は俯いた。
少年の顔を見て少し安堵している様子だったが、完全に不安が消えた表情ではない。
一ヶ月ぶりぐらいに再会したクラスメイトは、やはり未だ不幸の真っ最中であるのが分かった。
長く暗いトンネルの中を、今もまだ迷っている様子だ。
玄関から顔を覗かせた少年の名前は、|五代昂輝《ごだい いぶき》。
彼の両親が自殺を行い、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。
「五代くん、少し話をしていいかな。時間いい?」
「うん、いいよ。なんの話?」
「何気ない話だよ……」
素詛律子は、そう言い顔を上げると、精一杯微笑んで見せた。
少年にとっては他人の笑顔を見るのも久しぶりのことだ。
暗かった昂輝の表情が、彼女の笑顔を見て驚く。
こんなにも笑顔が温かいものだと思い出す。
「分かった、外に出る準備するから待ってて……」
そう言って昂輝は家の奥へと一度消えた。
別に律子は、昂輝の家で話をしても良かったのだが、流石に年頃の男女二人が一つ屋根の下は不味いと昂輝の方が気を使ったのだろう。
しかも曰くつきの一家が住んでいた家だ。
そこに彼女を招くのは忍びない。
しかし昂輝と一緒に居るところすら人に見られれば、何を噂されるか分かったもんじゃない。
この町は狭い。
注意しないと噂は直ぐに広がる。
特に悪い噂は足が早い。
そのことを、身を持って経験した昂輝は、彼女の為にならないと心配する。
しばらくして着替えを済ませた昂輝が、二階から下りてくる足音が聴こえて来た。
玄関先に舞い戻った昂輝は、黒いTシャツにGパン姿。そして赤いスニーカーを履く。
この少年の周りで起きた災いを知らなければ、何処にでも居る普通の高校生に見えた。
ほんの一ヶ月前までは、そうだったのだ。
だが、この町に暮らす多くの人々が、彼を呪いそのものにしか見ていない。
ただの厄介者なのだ。
「近くの公園で話そうか。今の時間帯なら人も少ないと思うから」
「うん」
律子が頷くと二人は歩き出す。律子は自転車を押して行く。
「高校、辞めたんだってね……」
「ああ」
寂しそうに歩く二人。
昂輝は真っ直ぐ前を向きながら律子の言葉に小さく応えた。
何処からともなく蝉の鳴き声が、二人の話に割り込んできていた。
その音に日差し以上の夏を感じる。
「これからどうするの?」
「町を出ようと思う」
「行っちゃうんだ……」
「ああ……」
ぶっきらぼうに答える昂輝の言葉に律子が切なさを隠さない。
おそらくこの町で、昂輝を気遣いこのような態度を見せるのは、律子ぐらいだけだろう。
昂輝が町を出ようと決心するのも仕方がないと律子は理解していた。
しばらくして二人は近所の公園に着いた。たいして歩いていない。
公園には幾つかの遊具が設置されていたが、それで遊ぶ子供の姿は見えない。
二人以外に人は居ない。無人だ。
二人は古いコンクリート造りのベンチに腰掛けた。
蝉に加えて草むらや植木の中から他の虫の音も聴こえてくる。
思い出せば一ヶ月前まで二人は、このような沈んだ空気で会話をしたことがなかった。いつも笑顔だった。
クラスも一緒で部活も一緒。昂輝がサッカー部の補欠で、律子がマネージャーだった。
恋人同士ではなかったが、とても仲が良かった。
二人とも同姓の友達に「お前ら、付き合ってるの?」と、よく訊かれたことがあった。
何か切っ掛けがあったら、おそらく付き合っていたかもしれない。
「私ね、五代君が死んじゃうんじゃないかと心配だったの。ご両親のように……」
顔を合わせないように俯きながら言う律子の瞳は、閑寂な涙に潤んでいた。
心配そうな声が泣きそうに震えている。
「うん、考えたよ……」
心を深い底に沈めてしまった昂輝は、律子の顔を見ずに答えた。
確かに昂輝は、律子の言う通り自殺しようと考えた。
考えただけではない……。
「でも、ダメだった……」
「ダメだった?」
「ああ、死ねなかったよ……」
「そのほうがいいよ……」
学校を辞めても、町を出ても、離れ離れになっても、彼には生きていてもらいたい。律子はそう思っていた。
きっと自分は昂輝のことが好きなのかもしれないと最近になって気付いた。
楽しかった何気ない日常が不幸にも崩れ去り、取り戻すことも困難になってから気付いた。
気付いたからこそ彼の家を訪ねたのだ。
だが、自分の思いを告げるには、遅すぎだとも認識していた。
「僕なんか、死んだほうが……」
「そんなことないよ!」
弱気な昂輝の言葉に、急に大きな声を出す律子。
速い素振りで恋心を抱く相手のほうをキリッと振り向いた。
双眸が真剣に力付く。
ボソリと呟く昂輝。
「手首を切ったんだ……」
「え!?」
驚く律子。すぐさま視線が昂輝の両手首を確認した。
しかしリストカットの傷は見えない。未遂なのかと安堵した。
「家の中で、首もくくってみたんだよ」
律子には、昂輝の云っている話の意味が判らなくなっていた。
手首を切った痕跡も、首を括った痕跡も見当たらない。
鬱なのか、ノイローゼなのか、それが原因で妄想に当てられているのかと思う。
心を病んでしまったのかと心配を増す。
律子の眉毛が、ハの字にラインを作って昂輝を見詰めていた。
「死ねなかったじゃなくて、死なないんだよ……」
昂輝が言葉の意味を正す。
「どう云うこと?」
「父を真似ても、母を真似ても死ねないんだよ」
「五代くん……?」
少年に対して律子が、色々な心配を混沌させる。
かなり精神的に追い詰められているのではと考える。
「飛び降り自殺も試したけどダメだった……。化け物になった僕は、もう死ねないんだ」
「化け物……?」
昂輝の顔が怯えたように変わる。体も震えていた。
律子も同じだった。
昂輝の口からこぼれ出た化け物と云う言葉。
そのキーワードを耳にして彼女の表情も固まる。
「ねえ、五代くんは、化け物の存在を信じる……?」
「……え?」
問う律子は真剣な表情をしていた。
昂輝がキョトンとして彼女を見詰める。
二人の視線が長く合う。
「私……見たの……、化け物を」
瞳を逸らした昂輝の全身に振るえが走る。
「見られた!?」と心中で叫ぶ。
「バス事故の時、私は転がるバス内から放り出されたの。運良く草や木の枝がクッションになって、たいして怪我をしなかったんだけど……」
その話は事件後に昂輝も聞いていた。
彼女が無事だったことは嬉しく感じた覚えがある。
「でもね、皆が横転したバス内に居る頃、私は見たの……。化け物を……」
昂輝が少し安心した表情に戻る。
律子が見た化け物は自分じゃないと――。
しかし、別の化け物が居ると疑問にも気付く。
律子が化け物の話を続ける。
「緑色で大きく、鰐みたいな大きな口で……。草むらの中から私を見ていたわ」
明らかに自分を指していない。ならば何なのだ?
「私が、助けてって悲鳴を上げると、その緑色の怪物は、山の中に逃げていったわ……」
昂輝がバス内に閉じ込められている時、確かに彼女が車外で助けを求める声が聞こえていた。
あれは、事故が原因で助けを求めたものではなく、迫る化け物を相手に向けられたものだったのかと昂輝は悟った。
「最初はね、町の人たちは、私の話なんて誰も信じてくれなかったの。でも、色々な事件が続いて、ついにケガ人とか被害者まで出ると、やっと私の話を皆が信じ始めたわ……」
「そうなんだ……」
「私以外に化け物を見たって人も出てきてね」
律子が語るに連れて二人は何故か落ち着きを取り戻していた。
「でも町の人の多くが、五代家の呪いだって噂を始めたの……」
濡れ衣だ。
律子の話かたは、昂輝に気を使った感じであった。
しかし再び昂輝の顔が深く濁る。
当然だ。何でもかんでも家族のせいにされたら堪らない。責任転嫁だ。
それでも昂輝は災いのすべてが自分の責任なのかと沈み込む。
「私の話、五代君は信じてくれる?」
「僕が信じる信じないは別に、他にも目撃者が居るんだろ」
「うん……」
彼女が昂輝に、わざわざ話に来た理由。
それはただの口実なのかもしれない。
ただ昂輝に会いたかっただけなのかもしれない。
二人が口を噤む。
その時である。律子の鞄の中からスマホの着信音が鳴り響く。
彼女はベンチから腰を上げると自転車の籠の中にある鞄からスマホを取り出し電話に出た。
母からだった。
昂輝に背を向けスマホで話す律子。
「うん、わかった……、うん……、直ぐ帰るね」
昂輝は電話で会話する彼女の後ろ姿を穏やかに見守る。
とても愛おしい。
故に寂しさが込み上げる。
町を出る、故郷を捨てると誓った昂輝には、彼女へ思いを遂げる言葉はもう存在しない。
電話を終えた律子が踵を返した。
「ゴメンね、急いで帰らないと行けなくなったの」
「ああ、分ったよ」
名残惜しくも思えた。
久しぶりに誰かと話したのだ。
しかも密かに想いを寄せていた少女が相手だ。
しかし近いうちに町を出るつもりだった昂輝には、それも定めだと直ぐに諦めがつく。
苦しくも優しく微笑んだ。
スマホを鞄にしまう律子。
「家の方に退魔師の方が、私の話を聞きたいって言って来ているらしいの」
「退魔師?」
「うん、化け物を退治してくれる人よ」
その退魔師たちが、人外であることを知るよしもなかった。
「じゃあ、行くね……」
「ああ」
別れの言葉と共に微笑む律子。固さが違和感を残す。
昂輝も同じく、無理やりの笑みを作った。
互いを気遣う不器用な笑みからは、それでも優しさが伝わって来る。
「町を出て行く時には言ってね。見送りに行くから」
「うん、分ったよ」
昂輝が返した言葉は嘘である。
彼女に旅立つ日を告げるつもりはなかった。
静かに、誰にも知られずに、町から消えるつもりなのだ。
「落ち着いたら連絡先も教えてね」
「うん、手紙を出すよ」
それも偽りの言葉。おそらく出さない。
「じゃあ、行くね……」
「ああ、さよなら」
「またね……」
律子が自転車に跨がり公園を出て行く。
ベンチに座ったまま昂輝は、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。
昂輝は「さよなら」と言った。
自転車を漕ぎながら律子の瞳に涙が滲む。
彼女は諦めきれずに「またね」と言った。
二人の言葉には、未来を担う差があった。
律子の姿が見えなくなると、昂輝がベンチから立ち上がる。
その動きに空気が怪しく揺れた。
何かに怯えた虫の音色が、一斉に止む。
サイレンス。
俯く昂輝の表情が、双眸が、殺気にも似た鋭さを宿す。
「父さん、母さん、この町から逃げ出す前に、呪いとの決着を付けに行くよ……」
少年の周りで空気が歪んで、緊張に鼓動が早くなる。
素詛律子が言った化け物の正体は分からない。
しかしその化け物が、我が家に降りかかった災いの正体でないのかと昂輝が疑う。
疑いも当然。
緑色の怪物は、バス事故の現場に居たのだ。
事故の元凶の可能性が高い。
その怪物を見て、父がハンドル操作を誤った可能性も推測できた。
ならば……。
「ぐぅぅぅぅ……」
喉の奥が呻きを鳴らす。
少年の体が張り詰め、僅かに大きさを変化させた。
手足の筋肉が膨らんでいく。
黒いTシャツから見える皮膚の色が灰色へ染まっていった。
否、体毛。
灰色の体毛が、芝生のように生えて色を変えたのだ。
「うぉぉぉぉ……」
口の中に痛みが発する。
牙だ。鋭い獣の牙が伸びていた。
頭蓋骨が形を変える。
人から化け物に変わって行く。
獣の頭部。
それは、狼の面。
「ぜぇ、ぜぇ……」
息を切らして変化した昂輝の姿。
それは狼男。
変身前の面影は無に等しい。
身に付けている衣類を記憶してなければ誰かも分からない。
狼男と化した五代昂輝は、視線を聳える山へと向ける。
そして音もなく跳ねた。
僅かひとっ飛びで公園の柵外へと跳躍して見せる。
凄い脚力だ。
アニメに出てくる忍者の如く、家々の屋根を飛び交う狼男。
目指すは緑色の化け物が出現する山中。
その移動速度は速いだけならず静かで不思議と目立たなかった。
そして変身した五代昂輝は、ケジメを付ける為に、険しい山中に消えていった。
化け物を探し出すために。
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