今日もいつもと同じように、沙羅姉と二人での夕食を終えた。相変わらず沙羅姉の作る料理はんまい。特に、今日の酢豚は黒酢のコッテリした味わいが最高だった。俺と同じ学校に通っているはずなのに、どうやったらこの短時間でこれだけのクオリティの料理が出てくるのか、未だに謎だ。
それにしても、俺の真正面で食事をする沙羅姉ときたら、まるでマナー講師のような鮮やかな所作で、俺にはとても真似できそうもない。いやはや、贔屓目に見ても沙羅姉はそこいらのアイドルや女優よりも品があって綺麗だよ、うん。
俺は沙羅姉が淹れてくれた食後の緑茶をすすりながら、食器の片付けをしてくれている沙羅姉に、思い切って件の話を振る。
「あのさ、沙羅姉、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
普段とは違うであろう俺の様子に、沙羅姉は食器を洗いながら答える。その声はいつもの沙羅姉と同じ、ハッキリとしながらも聞いていて落ち着く声だ。
「何だ? 海人、妙に改まっているじゃないか。何か悩みごとの相談か?」
そんな沙羅姉に向けて、俺はなんとか頑張って言葉を継ごうとする。チクショウ、どうしても声が震えちまうぜ。
「もしも、もしもだよ? 俺にさ、彼女が出来たって言ったら、どうする?」
なんだ、この歯切れの悪い言い方は。我ながら本当に根性がないな。こんなだから俺は沙羅姉に世話を焼かれっぱなしなんだ。
俺の問いに、沙羅姉の食器を洗う手が止まる。そして沙羅姉がキッチン越しにキョトンとした顔で俺の方に向き直る。
「海人に?」
「うん」
「彼女が?」
「うん」
「出来たのか?」
「うん……ぬあっ!?」
しまった! つい話の流れで言ってしまった! そんな俺の言葉を聞き、沙羅姉が皿をほっぽりだしてキッチンから飛び出してきた! そして、洗剤の泡のついた手のまま俺の肩をバンバンと叩きながら言った。
「そうかあっ! ついに海人にも春が来たかあ! やったじゃないか、海人っ! これは赤飯でも炊かないといけないなあ!」
こ、これは予想外の反応だ、沙羅姉の顔には向日葵のような大輪の笑顔。邪な感情は微塵も感じられない。ここまで喜んでくれるとは、どう言ったものか悩んでいた俺がアホみたいじゃないか。
「えっと、その、沙羅姉、俺に彼女が出来て、何とも思わないの?」
「どうした海人、そんな顔をして。お前に彼女が出来てなにか問題でもあるのか?」
沙羅姉は俺の反応を見てキョトンとしている。いや、これが普通なのかもしれないけど、もう少し突っ込んでみるか。
「例えばさ、『私の海人は渡さん!』とか、さ。あ! 例えば! 例えばの話だから!」
普段の世話焼きっぷりを見ると、沙羅姉ならこれくらいは言いそうなもんけど。もしかして、俺の自信過剰だったかな? それなら意外とあっさりことは運ぶかもしれないな。
しかし、俺のこの考えは浅はかだったことをすぐに思い知る。沙羅の口から完全に予想外な言葉が飛び出したのだ。
「ああ、そうだな。それはあるかもしれんが、そんなことより海人に彼女が出来たという嬉しさの方が勝っている。それだけのことだ。好きだからな、海人のことが」
「ああ、そうなんだ……ん?」
あれ? 何か変な単語が混ざってたぞ? 沙羅姉が俺のことを好きだとか、そんな単語が。俺はその真意を確かめずにはいられなかった。
「沙羅姉、その、好きって、どういうことかな?」
俺からの問いに、これもまたキョトンとしながら沙羅姉は答えた。
「好きにどういうも何もあるか。私は海人が大好きだ、何かおかしいことがあるか?」
ちょっと待ってくれ、話がジェットコースター状態だ。いや、まだだ、俺が勘違いをしているだけかもしれないじゃないか。俺は沙羅姉に更に突っ込んだ質問をしてみる。
「その、好きっていうのは、いわゆる、恋愛的な意味……かな?」
沙羅姉は俺からの矢継ぎ早の質問に、少し不機嫌そうに答える。
「くどいぞ海人、そうに決まってるだろうが。そうじゃなきゃ今日まで数多の真剣な告白を無下にしたりするもんか」
沙羅姉からの答えに冷や汗が出た。何てこったい。沙羅姉が俺をそんな風に思っていたなんて。しかし、そうなると、話がまた変わってくるぞ?
「それじゃあ、何でそんなに俺に彼女が出来たことをそんな目一杯の笑顔で喜んでくれるんだよっ!」
ダメだ、俺にはもうわからん。俺はテーブルに手を打ち付けながらヤケクソ気味に叫んだ。
「まぁ落ち着け、海人。解った、説明してやるよ。ちょっと待ってろ、ひとまず洗い物を片付けるから」
そう言って、沙羅姉はキッチンへと戻っていった。俺は沙羅姉が洗い物を終えるのを妙な気持ちで待ち続けることしか出来なかった。
…………
沙羅姉は洗い物を終え、新しく緑茶の入った湯飲みを二つ持ってキッチンから出てきた。そして湯飲みを俺の前にひとつ置き、沙羅姉は俺の対面に座った。
「さて、それじゃあ、説明しようか。と言っても、私からしたら当たり前の事なんだがな」
俺は沙羅姉が話すのを黙って聞くしかなかった。俺の情報処理能力ではもうどうしようもない。沙羅姉は緑茶に口をつけて、話し始めた。
「私は海人が好きだ。昔から、ず~っとな。海人には言わなくても伝わっていると思ってたんだがなあ、まぁ、それは良しとしておこう。問題は、『海人が誰を好きになるのか』という点だな。こればかりは私にもどうしようもない」
これはまた固っ苦しい物言いだ、沙羅姉らしいや。沙羅姉は飄々とした態度で俺への想いをその口から語る。
「私はな、海人が私以外の女性を好きになったなら、それを全力で応援しようと決めていたんだ。これは私なりの、『人を好きになる』ということへのケジメといったところかな。勿論、海人が私のことを好きになってくれるに越したことはなかったんだがな。私の言い分、解ってくれるか? 海人」
ああ、沙羅姉はそこまで俺のことを想ってくれていたのか。一緒にいる時間が長すぎて気づけなかっただけなのかな。そんな沙羅姉の気持ちに気付かず、来栖さんからの告白を受けてしまったのか。
いや、ちょっと待て、俺はまだ告白の返事はしていないじゃないか。それじゃあ来栖さんからの告白を断って、沙羅姉と付き合えばいいじゃないか!
「うん、でも、沙羅姉、実はさ……」
俺は出かかった言葉をグッと飲み込む。いや、それじゃあダメだ。俺は沙羅姉に世話を焼いてもらうことから卒業するために来栖さんからの告白を受けようとしていたんじゃないか。もし沙羅姉と付き合えば、俺の生活は今までと変わらない!
「どうした? 海人。何か言いたいことでもあるのか?」
「いやっ! 何でもないよ、沙羅姉」
「そうか、それなら良いんだが。さ~て! それじゃあ、私とひとつ約束してくれないか、海人」
「何だい? 沙羅姉」
沙羅姉の態度がこれまでのものからピリッとした真剣なものに変わった。この空気、久々に味わったけど、矢のような視線に俺は思わずビクッとしてしまう。
「私のことを袖にするんだ、恋人のこと、絶対に離すんじゃないぞ。私も、全力で応援するからな」
対面から伝わる沙羅姉の圧。こうなった沙羅姉には、俺はどうやったって逆らうことはできないな。俺は沙羅姉からの約束に意を決して答えた。
「解ったよ、沙羅姉。約束する」
「うん! それでこそ私の海人だっ! それじゃあ、これからはどんどん私に頼ってくれよ、海人!」
こうして、俺は沙羅姉から卒業するために、来栖さんと付き合うことに決めた。来栖さんには少し悪い気もするけど、良いきっかけだと思うことにしよう!
でも、このときの俺は、沙羅姉の、『全力で応援する』の意味を全然解っていなかった。いや、沙羅姉は、俺の凡庸な脳みそでは測れない、とんでもないことを今までもやってきたんだ。
それは、誇張抜きで人の生死を左右するような、ある種、狂気じみた沙羅姉という人間の本質。このときの俺は、あまりに非現実的な心地だったから、それを忘れていたんだ。
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