「梓…」
名前を呼ぶ声に梓は現実に引き戻される。
目の前には今もにも心が壊れそうな程哀しい眼差しの楽空がいた。
楽空…?
楽空は鉄杖を持って、梓の長い爪を受け止めていた。
この爪…。
梓の頭の中に眷属の姿が浮かび上がる。
そんな…。
眷属になっているの…?私…。
梓は後ろに後ずさった。
しかし、次の瞬間、梓の意志とは関係なく、梓は楽空に爪を振り下ろす。
楽空は爪をかわして後ろに下がる。
屋敷内の廊下ということもあって前後の移動は自由にできるが、左右の移動範囲が狭いため眷属化した梓は未だ犠牲者を出していなかったが、それも時間の問題だった。
体が言うことを聞かない…。
勝手に動いている。
どうして、こんなことに…。
梓は自分の中の記憶をたどっていく。
屋敷の中を見回っていた梓は昔のことを思い出していた。
忘れることのできない慶のことを。
そうしていると、どこからか声がした。
「おまえの愛しい者を殺したのは誰だ…?」
「誰?」
梓は辺りを見回すと、Kerの姿を見つける。
「Ker!」
落ち着いて…。
Kerは生きている人間を傷つけない。
「可哀相に…。その心の奥には愛しい者を殺された哀しみが渦巻いている。その苦しみから救ってやろう」
「私はもう…」
「辛くないと言いたのかい?そんなに哀しみに憂いた目をしているのにかい?思い出の場所に行っても、愛しい者はいない。そんな現実を
おまえに与えたのは誰だ?」
「それは…」
「誰がおまえから愛しい者を奪った?」
梓の頭の中に慶の顔が浮かぶ。
優しかった慶の笑顔が…。
もう、その笑顔を見ることはできない。
梓の頬に涙が零れ落ちる。
「許せないだろう?ワタシが、その苦しみから解き放ってやろう」
Kerの赤い唇がニヤリと笑った。
そして、慶が死んだ日の記憶が頭の中に流れ込んできて、気がつくと目の前に楽空がいた。
「梓…。頼むから、元に戻ってくれよ」
目の前の楽空は哀しそうに言った。
梓の体は梓の意志とは関係なく、楽空を爪で引き裂こうとする。
やめて!
誰も殺したくない!
「が…く…」
眷属化した梓は無表情のまま、楽空を見て言った。
「梓…」
楽空の瞳が涙で滲む。
「俺がわかるのか…?」
楽空は梓の頬に触れようとする。
「逃げ…て」
そう言うと、言葉とは裏腹に梓は爪を振り下ろす。
嫌!楽空を殺さないで!
梓が、そう思った時、梓の体は大きな衝撃を受けて、廊下の壁に体を叩きつけられる。
梓が体を起こすと、楽空の前には祐が立っていた。
「何やってんだ!楽空!死にたいのか!」
楽空の後ろにいた凛斗が言った。
「凛斗…」
凛斗の隣には花音がいて、両手の中に水の塊を作り出そうとしていた。
「下がってろ」
祐は冷めた声で言った。
「頼むから、梓を傷つけないでくれ…」
楽空は元気なく言って後ろに下がる。
「わかってる」
容赦なく梓の爪が祐を襲う。
しかし、祐は素早くかわし、梓の爪を次々に折っていく。
その動きは軽やかだった。
「さすが…。元、殺し屋…」
「凛斗…」
花音がか細い声で凛斗を呼んだ。
「花音?どうした?」
「神祓いが…できない」
水の塊を作り出そうとしている花音の両手の中には、未だに水の塊どころか水といえるものは何もなかった。
「どうして…?記憶が戻った時はできたのに…」
花音は青ざめて自分の手の中を見ていた。
「そんな…。それじゃあ、梓は…」
楽空は梓を見た。
神祓いが使えなければ、人間に戻せない梓は殺すしか方法がない。
誰も死なせないために…。
「嫌だ…。梓を殺すしかいないなんて…」
楽空は持っていた鉄杖を強く握りしめた。
そして、梓に向かって走り出す。
「楽空!」
「梓!人間に戻ってくれ!梓には生きていてほしいんだ!だから、人間に戻ってくれ!」
梓を鉄杖で叩こうとした祐の前に出ると、楽空は祐の鉄杖を自分の鉄杖で受け止める。
「おまえ…。何やってんだよ!」
「嫌だ…。梓は殺させない…」
楽空の頬に涙が零れていた。
「バカか!殺すわけないだろ…」
祐は哀しそうな目で、そう言った。
その瞬間、梓は折れた爪で楽空の体を後ろから貫こうとした。
祐は咄嗟に楽空の腕を引っ張り、後ろに下がった。
しかし、完全には避けられず、楽空は左腕に刺し傷を負う。
楽空はバランスを崩し、祐を巻き込んで床に倒れ込む。
「しまった!」
祐は体制を立て直そうとしたが、間に合わず梓の爪が楽空ごと祐を貫こうとしていた。
その瞬間、梓の体を水の塊が覆った。
「神祓い…!?」
楽空は言いながら、花音を見ようとして、その後ろにいる唯人に気づいた。
長い銀髪と碧い瞳で神祓いの水を操っていた。
「唯人…」
楽空はホッとしたように笑うと、梓を見た。
梓の牙と長い爪がなくなり、背中の黒い翼も消えていく。
「梓…。よかった」
梓を見る楽空の瞳からは涙が零れた。
人間に戻り、意識を失った梓を楽空は抱きとめた。
後ろの方で神祓いを終えた唯人が倒れ、凛斗と花音が唯人に駆け寄る。
「おまえ…。その女が大事なんだな」
祐が覚めた声で言った。
「ああ。大事だよ。梓が他の誰を忘れなかったとしても…。それでも…」
楽空は梓を抱きしめながら言った。
「そうか。なら…何があっても守れよ。」
祐は穏やかな声で言った。
「俺は守れなかったけど…」
祐は寂しそうに言うと、凛斗達のいる場所に向かって歩いて行った。
「祐…」
楽空はその後ろ姿を見ていた。
そして、人間に戻った梓の顔を見ると、ホッとしたように笑った。
病室で梓が目を覚ますと、ベッド横の窓際で椅子に座って腕を組んで眠っている楽空がいた。
来客用に簡易的に置いてある椅子で、座り心地は良くなかっただろう。
それでも長時間座って、今は眠っている。
楽空の服の皺から、それが良く分かった。
そして、楽空の左腕には包帯が巻かれてた。
あの傷のことを梓は覚えている。
梓を守ろとした楽空を自分の意志ではないにしろ、傷つけてしまった。
それでも、こうして梓を心配して楽空は梓の目の前にいる。
どうして…?
そんな疑問が頭の中を巡る。
梓はゆっくりと体を起こそうとする。
「う…!」
激痛という程ではないが、体に痛みを感じて梓はベッドに腕をつく。
その瞬間、楽空が目を覚ました。
「梓。起きたのか?」
楽空は立ち上がると、梓の体を支える。
「祐のヤツ。いくら梓が眷属化していたからって、少しは手加減してくれてもいいのにな」
そう言うと、楽空はいつものようにニッと笑った。
その笑顔に少しだけホッとした梓は楽空の左腕の包帯を見る。
「その傷…。私がつけた傷ね…」
梓は目を細めた。
「こんな傷、気にするな。すぐに治るから」
楽空は笑顔で言った。
「どうして…?」
梓は思いつめたように言った。
「ん?何がだよ…?」
「私は楽空の腕を傷つけたのよ?それなのに、どうして、こんなに優しくできるの?」
楽空を真っすぐに見て、梓は言った。
楽空は困ったように目を逸らす。
「どうして…って」
楽空は立ち上がると、窓の外を見た。
「俺は梓のことを知ってから、ずっと梓のことが心配だった」
「ずっと…?」
「その。…俺が梓の存在を知ったのは、皇家の事件の後だったんだけど。祓子の中に哀しそうな梓がいて、何かあったら死んでしまいそうな目をしてた。それから、何が梓をこんな顔にさせているんだろうって、ずっと気になってた」
そう言うと、ため息をついた。
「でも、そうだよな。許婚が死んだんじゃな…。死にたくもなるよな。でも、梓が死ぬなんて想像しただけで、耐えられなくて。梓には生きてほしかった」
笑顔で言った楽空の顔が、梓に生きてほしいと言った慶と重なる。
「それに…俺。あの皇家の事件の日の夜。仕事が終わって、油断して酔いつぶれてて…。ボディーガードなのに情けないよな」
苦笑いしながら楽空は梓の傍まで歩いてくる。
「あの夜、俺が酔いつぶれてなかったら。美琴を止められたかもしれない。慶は死なずにすんだかもしれない」
「楽空…」
「ごめんな。俺がしっかりしてないから。梓に辛い想いさせて」
そう言うと、楽空は梓の頭を撫でた。
その楽空の手は温かくて優しくてホッとする。
梓の頬に涙が溢れ出す。
「梓…」
目の前にいるのは慶じゃない。
それはわかってる。
それでも、その優しさからは慶を思い出す。
楽空は、そんな梓の気持ちを察したのか、梓を抱きしめた。
「好きなだけ、泣けばいいよ」
その温かい言葉に梓は声を上げて泣いた。
ずっと、押し込めていた想いを開放するかのように…。
楽空の胸で好きなだけ泣いたら、明日からはもっと楽に笑えそうな気がした。
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