とある寂れた神社の境内にある鳥居の上にKerは座っていた。
黒い翼が闇夜に溶け込んで、血のように赤いローブが少し肌寒い風になびいていた。
白い仮面のような顔の真っ赤な唇から伸びた鋭い牙が不気味さを際立たせていた。
しかし、今夜はどこか、その表情は静かだった。
「焼ける…。喉が焼けるように痛む。人間の血を目にすると…。なぜだ…?」
答えを探すように物思いにふけっているようにも見える。
「神代の当主と皇の跡取り。あの二人が再会してから、何かがおかしい…。それに神代の当主は神祓いを行えなかった。当主の力が弱まっている…?なぜだ?」
じっと考え込むKer。
しばらくして、何かに気づいたように顔を上げた。
「…まさか。いや…確かめてみるか」
そう言うと、Kerは黒い翼を広げ、夜空に飛び立っていく。
そこは病室だった。
ベッドには昏睡状態の唯人が眠っていた。
ベッドの両側には凛斗と花音、そして、車椅子に乗った梓と梓に付き添ってきた楽空がいた。
「唯人様…。私のせいで…」
梓は哀しそうにため息をついた。
「梓は悪くない。あたしが神祓いの力を使えなかったから…」
思いつめたように花音は言った。
凛斗は花音の肩に手を置いた。
「それは違う。誰のせいでもない…」
「そうだよ。梓は意識がなかったから知らないけど。唯人は、このことで誰にも自分を責めるようなこうとはしてほしくないんだと思うけどな」
楽空は穏やかな口調で言った。
その言葉は梓への優しさで溢れていた。
「そう。あの時…。梓を人間に戻した時、唯人は笑ってた…」
凛斗は唯人が倒れた時の記憶をたどる。
神祓いを終え、倒れた唯人には意識があった。
凛斗と花音が駆け寄り、凛斗が唯人を抱き起す。
「大丈夫か…?」
唯人は朦朧とする意識の中で、人間の姿に戻った梓が楽空に抱きかかえられているのを見ていた。
「良かった…。梓…」
そう言って笑う。
「そうだ。梓は無事だ。だから、もう大丈夫だ」
「そうか…。約束したんだ。意志を受け継いで神代の一族を守るって…。そのために僕は祓子の頭に…」
「唯人…」
「守れたのなら、それでいい…」
言いながら、唯人は穏やかな顔で意識を失った。
「唯人様が…」
神祓いの後の唯人の言葉を聞いて、梓の目は涙で潤んでいた。
「唯人は誰かとの約束のために神代の一族を守ってきたみたいだ。誰と約束したのかわからないけど、とても幸せそうに笑ってたよ。きっと、とても大切な人との約束なんじゃないかな」
凛斗は言いながら、その時の情景を思い出し穏やかに笑った。
その凛斗の気持ちは、そこの場にいる人間に伝わり、みんなが穏やかな顔になる。
「唯人は、それで幸せなのかもしれない」
意識を失って眠る唯人を見ながら花音は言った。
「そうだよ。だから、唯人が目を覚ますまで待ってよう。そして、目を覚ましたら、みんなで迎えよう」
言いながら楽空は眠る唯人を見る。
「そうね。神代の一族を守るために、凛斗様はきっと目覚めるはずだから」
梓は穏やかに笑って言う。
その場の空気が穏やかで心地のいいものに変わっていた。
それから、しばらく四人は雑談をして、その後、病室から出て行った。
唯人の病室からの帰り道、凛斗と花音は病院の中庭を歩いていた。
花音が少し中庭を歩きたいと言ったのだった。
病院の中庭は神代の屋敷の庭園と違い、緑の木々だけではなく色とりどりの花の円形の花壇が幾つもあった。
花壇に沿って模様を作るようにレンガを並べて造った小道が続いていて、所々で木の陰になる場所に洋風のベンチが置いてあった。
そのベンチの一つに凛斗と花音は座った。
「ここの病院の庭って、すごいな。日本にいるのに、ヨーロッパにでもいるような気分になる」
凛斗は少し興奮気味に言った。
「そうね…」
凛斗とは対照的に花音は元気なく答えた。
「花音…。まだ、気にしてるのか?唯人のこと」
「違うの」
花音はうつむいた。
「あたし…凛斗にまだ話してないことがある…」
「その話をしたくて、ここに来たいって言ったのか…。わかった。話してみて」
「…凛斗」
花音は一度顔を上げて凛斗を見る。
凛斗は包み込むような穏やかな眼差しで花音を見ていた。
その眼差しは、どんなことでも受け止められるだけの優しさに満ち溢れていた。
「…実はね。あたしが二年前に自殺未遂をした理由…なんだけど」
そこまで言うと、花音は凛斗と目を合わせていられなくなり、目を逸らす。
「花音…。言いたくないなら、無理に言わなくてもいいから」
花音の気持ちを察したように凛斗言った。
「ううん。大事なことなの…」
花音は膝の上に置いた両手を握りしめた。
「二年前にお母さんを神祓いした後、気づいたの。神祓いの力が弱くなっていることに…。もしかしたら、もう神祓いはできないかも…って思うぐらいに。それが自殺未遂した理由で…」
「でも、記憶が戻ってから一度は神祓いできただろ?」
「あの時は、あたしも神祓い力が戻ったと思ったの。でも、梓に神祓いをしようとした時、気づいたの。二年前と同じように神祓いの力が弱くなってるって」
「そうか…」
凛斗はうつむいて少し考え込む。
そして、しばらくして顔を上げる。
「花音。二年前と今回の梓のことと、共通点があるのかもしれない。俺が気を失う前のことは覚えている。でも、その後に起こったことを話してくれないか?」
「う…ん」
花音は元気なく答える。
「でも、花音が言いたくない事は言わなくていい。もし、話したくないなら、それでも…」
「ううん。大丈夫。原因がわからないと、どうしようもないもの。それに…あたしは神代の当主だもの。このままにしておけない」
そう言って、花音は無理に笑った。
「…わかった。花音がそうしたいなら」
凛斗は穏やかな笑顔で言った。
花音が無理に笑った意味はわからない。
しかし、今の花音の気持ちを優先したかった。
それは二年前の神祓いの直後だった。
気を失った凛斗の元に駆け寄ると、花音は凛斗を抱き起こした。
その瞬間、凛斗の体からピリピリと微弱電流のようなものを感じとった。
「え…!?これって…」
この力の感覚を花音は知っていた。
それは自分の中にある力と同じものだということを。
それは紛れもなく、神祓いの力でしかなかった。
「どうして…、こんなことに…?」
「花音様!お母さまが!」
壁に打ちつけられ気を失っていた唯人の様子を見ていた梓が言った。
「え…!?」
花音は振り返り、花音の母親が倒れている方を見た。
すぐ目の前で起き上がった母親は、落ちていた花瓶の破片で首の右側にある頸動脈を切った。
その瞬間、首の頸動脈から血が噴き出す。
その血しぶきは花音の顔を体を血に染めた。
走り寄ってきた梓が母親の首を押えるが遅く、母親の顔からは血の気が引いていくのが見えた。
母親の血に染まったまま、花音は動くことさえできなかった。
それから、凛斗は屋敷の一室で楽空に付き添われ眠り、花音は血を洗い流すためにシャワーを浴びていた。
母親の血を浴びてから、何も覚えていなかった。
気がつくと、唯人に連れられ自室のシャワールームで血を流すように言われ、シャワーを浴びていた。
シャワーで母親の血を洗い流しながら、花音は自分の両手を見た。
母親の血を洗い流した時の感触が両手に残っていた。
血が落ちやすいようにシャワーを浴びながら手で洗い落とした時の、あのドロッとした感触が消えない。
見つめる両手が次第に恐怖に震えていく。
「うっ…。くっ…」
花音は声を殺して泣いた。
シャワールームから出ると、脱衣所で服を着ると花音は脱衣所から出た。
そこには花音を心配した唯人が立っていた。
「花音様。大丈夫ですか?」
心配そうに眉を歪めていた。
「唯人…。Kerのせいで人が死ぬのは、神代の一族のせいなの?あたしたちが責任を負わなきゃいけないことなの…?」
「花音様…。僕たちの責任ではありません。でも、誰かが死ぬのを黙って見てるなんてできるわけがない。だから、花音様も当主としての力を継がれたのでしょう?」
「そうだけど…」
花音はうつむいた。
「大丈夫。何があっても、僕が花音様を守ります。だから、何の心配もせず、神祓いをしてください」
そう言うと唯人は花音を安心させるように笑った。
「う…うん」
花音はうつむいたまま答えた。
花音は気づいていた。
自分の持つ神祓いの力の一部が凛斗の体に宿っていることに…。
きっと、次に眷属が現れれば神祓いはできないだろう。
欠けた力では発動しないことを無意識に感じていた。
もし、力を全て取り戻すとしたら…。
それは、きっと、凛斗の死によってのみ可能となるだろう。
「凛斗を死なせるなんて…できない」
その夜、花音は自殺を図った。
神祓いを発動できず、誰の命も救えない。
救う方法は、たった一つ。
凛斗の命と引き換えによってのみ…。
そんな方法を選べるわけがなかった。
花音は自分の死によって、凛斗に神祓いの力を移す方法を選んだのだった。
花音が死んだとして、神祓いの力を移せる保障はなかったが、それでも花音は凛斗を殺すことができなかったし、Kerによって人が殺されるのを黙って見ていられなかった。
Kerによって家族を殺された凛斗なら、きっと眷属から誰かの命を救ってくれるはずだと信じて…。
神祓いの力を凛斗に託し、自らの死を選んだ。
花音の話を黙って聞いていた凛斗は、ため息をついてうつむく。
そして、両手で髪をクシャクシャにかき回す。
「凛斗…?」
「花音の自殺の原因が俺だったなんて…」
「あ…!でも、凛斗は悪くないから…!あたしが勝手に決めたことだから!」
「花音…。俺のことをもっと信じてほしい」
凛斗は花音を真っすぐに見た。
「今度からは俺に相談してほしい。一人で抱え込んで、死なれたら俺は…」
辛そうに凛斗はうつむいた。
「俺はどうしたらいいんだ…」
凛斗は、か細い声で絞り出すように言った。
「ごめん。凛斗…」
花音は困ったように、うつむいた。
そんな花音の手を凛斗は、そっと握った。
「花音。俺が家族を亡くした時、花音が傍にいてくれれば生きていけると思えたんだ。だから、花音には生きて俺の傍にいてほしいんだ。もし、花音がいなくなれば俺は…」
花音の手を握る凛斗の手が、微かに震えていた。
「凛斗…」
花音は凛斗を抱きしめる。
「ごめんね。凛斗。もう、こんなことはしないから。凛斗を一人にしないから」
凛斗は子供のように震えながら、花音の温もりを感じていた。
この温もりを失いたくないたくなかった。
死んでいった家族のように、花音の体が冷たくなっていくことを考えるだけで胸が押しつぶされそうだった。
どんなことをしても守りたいと思った。
それが、例え凛斗自身の命を差し出すことになったとしても…。
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