その日は朝食を終えた後に凛斗と花音が出かける用意をしていた。
しかし、それは楽空には、まだ知らされていなかった。
二人の様子がおかしいと気づいた楽空は、凛斗の部屋のドアをノックする。
「楽空か?」
凛斗は楽空が来るのを知っていたようだった。
「そうだ」
楽空はドア越しに答える。
「何の用?今、忙しいんだ。緊急事態じゃないなら、また今度にして」
「凛斗。どこかに出かけるのか?」
「お祖父様のところへ、花音と行って来る。記憶も戻って、色々と話したいこともあるし…」
「宗寿様のところへ?俺、聞いてないぞ!」
楽空は思わず、勢いよくドアを開ける。
部屋の中では凛斗が着替えをしていた。
「悪い。言ってなかったな」
「なんでだよ?俺は、おまえのボディーガードだろ?おまえが行くところなら、どこだって一緒に行く。そして、おまえを守るのが俺の仕事だろ?」
「…そうだけど。今回は神代家に残ってくれ」
「なんでだよ?」
「今回は、新しいボディーガードの適正テストも兼ねて、お祖父様に会いに行くんだ」
「…新しいボディーガードって」
楽空は微かに動揺する。
「例の眷属になった祐って男だよ。楽空も見ただろ?眷属になった時の祐の素早い動きを。元、殺し屋だったらしくて、力だけじゃなく動きも素早い。祐なら、優秀なボディーガードになるはず」
「それって…俺はボディーガード、クビってことか?」
凛斗を真っすぐに見つめて、楽空は言った。
髪をセットしていた凛斗は、その手を止めた。
楽空の顔を見ると、今にも泣きだしそうな気持ちを無理に抑え込んでいるような顔をしていた。
「…楽空。そういうことじゃないんだ」
「じゃあ、どういうことだよ?」
「花音のボディーガードとして雇おうと思ってて。まだ、花音は精神的に不安定で眷属が現れた時のことを考えたら、祐のような優秀なボディーガードがいてくれた方が心強いと思って。すべては花音を守りたくて…」
凛斗はため息をつく。
「ちゃんと、説明しなくて悪かった」
「何で言ってくれなかったんだよ?いつだって、俺に一番に言ってくれたのに…」
そう言って、楽空は恥ずかしくなって目を伏せる。
そう、これは嫉妬。
凛斗にとって一番に頼れる存在だった自分が知らないことがあるのが、嫌だった。
一番に頼れる存在。
それは楽空の居場所だったからだ。
それが、奪われてしまったようで…。
何を言ってるんだ?俺は…。
これじゃ、まるで子供じゃないか。
楽空は自分が情けなくて唇を噛んだ。
「悪かったよ。でも、俺が一番頼りにしてるのは楽空なんだ。今回も楽空なら、後から話してもわかってくれると思って。でも、そうだよな。俺、少し楽空に甘えてたのかもしれない。何の説明もないなんて、楽空が怒るのも当然だよな」
凛斗の言葉は凛斗自身を責めているように聞こえた。
そんな凛斗を見て、楽空はため息をつく。
俺は何やってるんだろう…。
凛斗は他に適任のボディーガードがいたとしても、俺を切るようなヤツじゃないのに…。
なんだろう?この気持ちは。
モヤモヤする…。
「謝るなよ。凛斗。俺、少し疲れているのかも…。ちょっと、外の空気吸ってくる」
そう言うと、ドアまで歩いていく。
「楽空…。大丈夫か?なんか、あったのか?もしかして、梓のことで…」
楽空は立ち止まる。
「凛斗。おまえは花音ちゃんのことだけ考えてろって」
「でも、楽空…」
「俺はいいから、気をつけて行ってこいよ」
そう言うと、楽空はドアを開け、凛斗の部屋を出ていった。
「楽空…」
凛斗は楽空が出て行ったドアを見つめていた。
それから、凛斗は花音を連れ、祐の運転する車で宗寿のいる屋敷に向かった。
楽空のことは心配だったが、それ以上に楽空を信じていた。
楽空なら、何があっても乗り越えてくれる…と。
楽空は凛斗が出かけると、時間を持て余して屋敷内の庭園を歩いていた。
わけのわからない、モヤモヤした気持ちで何もする気になれなかった。
京都の寺社の庭園を思わせる神代の屋敷の庭園を歩いていると、少しだけ気持ちが晴れたような気がした。
庭園には暁月のいる石の東屋の他に、東屋が幾つかあるが、その中でもししおどしの近くにある茶室のような造形の東屋があった。
周りには木々が植えてあり、夏になっても周りの木々が東屋に影を落とし、暑さの和らぐ空間になっていた。
いつ来ても、この庭園の中で一番綺麗にしてある東屋だった。
凛斗から聞いた話では、そこは花音の兄である慶のお気に入りの場所だったという。
だからこそ、神代の人間はその東屋の手入れを怠ることがなかった。
それだけ、神代の人間が慶を慕っているというこだろう。
楽空はいつの間にか、その東屋の近くまで来ていた。
そして、そこにあるベンチに梓が座っているのを見つけると、立ち止まる。
梓を見ていると、今朝の鍛錬での梓と唯人のやり取りが頭に浮かんだ。
そんな楽空の中に再びモヤモヤした気持ちが湧きあがる
それは新しいボディーガードのことで、凛斗に嫉妬した時と同じ感情に似ていた。
「あら、楽空じゃない」
楽空に気づいた梓は明るい声で言った。
その声に楽空の心は落ち着きを取り戻す。
「梓。こんなところで何してるんだ?」
言いながら、楽空は梓の隣に座る。
「う…ん」
梓は目を伏せた。
「…ここは、私にとって大事な場所なのよ」
その梓の言葉で、梓にとって大切な人が慶だと気づく。
「慶が好きだったのか…」
楽空は溜息まじりに言った。
ずっと、梓は唯人が好きだと思っていた。
二人のやり取りを見て、モヤモヤしたり、イライラしたり。
しかし、梓の好きな相手は、もうこの世にはいない。
そう思うと、自分が嫉妬していたことが少し恥ずかしく思えた。
「そうよ。許婚だったの」
そう言った梓の横顔は哀しみに憂いていた。
「そっか…」
楽空は、それ以上何も言えなかった。
どう言葉をかけていいか、わからなかった。
本当、俺って子供だな。
嫉妬してイライラして、関係のない凛斗に当たったり。
梓が辛そうな顔をしていても、慰める言葉さえ出てこない。
「もう、この世にはいないのにね。それでも一緒にいた頃のことを忘れられなくて、時間があるとこの場所に来てしまうの。バカみたいよね」
そう言って笑った梓の目は涙で潤んでいた。
「忘れられないなら、それでいいんじゃないか…と、俺は思うけど」
不器用ながらも、やっと言葉を絞りだす。
梓は予想外の言葉を貰ったかのように楽空を見た。
「だって、それだけ大切だったてことだろ?割り切って忘れられないぐらいに。それなら、その気持ちを大事にすればいいんじゃないか?」
楽空は笑って言った。
「う…ん。そうね」
梓はホッとしたように笑った。
きっと、慶を忘れられない自分を責めてきたのだろう。
辛く哀しい慶との思い出に縛られ、辛くてもそこから解放されることのない日々に疲れながら、立ち直れない自分を責め続けてきたのだろう。
弱い人間だと…。
でも、それも楽空の言葉を聞いて、少し楽になったように見えた。
「その…俺で良かったか何でも頼ってくれよ。実際、役に立つかどうかは別だけどな」
楽空は笑いながら言った。
「うん。ありがとう」
梓は嬉しそうに笑った。
それから、二人はどうでもいいような話をとめどなく話した。
梓は楽空と話す内に、次第に明るい笑顔を見せるようになっていった。
この笑顔を守りたいな…。
梓には笑っててほしい。
そう思いながら、昔見た梓のことを思い出す。
それは慶が死んだ直後のことだった。
それまで、楽空は払子だった梓の存在に気づいていなかった。
その時、梓は頭である唯人の傍にいた。
というより、梓を心配した唯人が自分の傍にいるように言っていたのだろう。
それもそのはずだった。
その時の梓に笑顔はなく、哀しみに打ちひしがれた心を必死に抑え込んでいるように見えた。
今思えば、哀しみに彩られた現実から目を背けるように祓子の仕事に打ち込んでいたのだろう。
その表情は冷たくさえ見えたが、何かの弾みで壊れてしまいそうなほど張りつめているように見えた。
その梓の顔から目を離すことはできなかった。
今も、あの時の梓の顔が楽空の頭から離れない。
手を差し伸べて、その理由のわからない哀しみから彼女を助け出したい…。
そんな想いが胸の中にくすぶっていた。
でも、今は梓が何よりも大切に想え始めていた。
大切な人を失っても前を向こうとしている梓がかけがえのないものに思えた。
そんな梓の支えになりたい。
目の前で笑う梓を見て、楽空はそんなことを思っていた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!