幼い唯人は早朝の鍛錬を見学していた。
いつも優しい穂高が、凛とした表情で鉄杖を振り回している。
唯人は茫然として、鍛錬が終わるまで穂高だけを見つめていた。
鍛錬が終わると穂高は祓子達に囲まれながら、自分を見つめている唯人の視線に気づいた。
「悪いな。みんな。俺の可愛い息子が待ってるんだ。急ぐ話じゃないなら、後で聞きたいんだが」
そう言うと、祓子達が道を開ける。
穂高は満面の笑みで唯人に向かって歩いていく。
近づいてくる穂高を茫然と見つめている唯人を穂高は愛おしそうに見ていた。
そして、唯人の目の前まで来ると、しゃがみ込む。
「びっくりしたか…?」
笑顔で言うと、唯人は大きく頷いた。
「ちょっと、怖かったろ?俺の表情」
「ううん。カッコよかった!」
唯人は笑顔で、そう言った。
「そうか!そうか!」
穂高は嬉しそうに言うと、唯人を抱きかかえた。
「なんで、あんなに人が周りにいたの?」
「俺は祓子の頭なんだ。だから、みんなをまとめるために他の祓子の話を聞くのも仕事なんだ。だから、祓子達が周りに集まってきてたんだ」
「頭?それって偉いの?」
「偉いけど…。一族の人間の命を守る責任があるんだ。その中には唯人も入ってるぞ」
「本当…?でも、どうして守るの?」
「Kerと、その眷属にとって一族は邪魔なんだ。だから、命を狙われる。俺はずっと祓子だったが、たくさんの一族の人間が眷属に殺されるのを見てきた…。だから、もう誰かが死ぬのを見たくないんだ」
そう言って、穂高は寂しそうに笑った。
「だから、頭になったの?」
「そうだ。みんなを守るためにな」
穂高は嬉しそうに笑った。
「そっか…。じゃあ、僕も頭になる!父さんみたいになりたい!」
唯人は元気に、そう言った。
「唯人…」
穂高は涙ぐんでいた。
「おまえ…、初めて俺のこと父さんって呼んでくれたな。それに父さんみたいになりたい…なんて」
涙声で言った穂高の頬には涙が溢れていた。
「父さん?僕、嫌なこと言った?父さんを泣かせるようなこと…」
心配そうに穂高の涙を拭きながら、唯人は言った。
「そうじゃない。嬉しいんだ」
涙でグショグショになった顔で穂高は笑った。
穂高が唯人の親になって六年後、運命の日がきた。
十四歳になった唯人は祓子の頭である穂高について眷属の神祓いに向かった。
穂高が先頭に立ち、そのすぐ後ろに唯人はいた。
当時、当主だった慶が神祓いを発動させていた。
その間、穂高と唯人、祓子達で眷属の動きを止めていた。
しかし、初めての眷属との戦いに参加した若い祓子がいた。
唯人より一つ下の十三歳の少女だった。
次第に動きが鈍り、眷属の動きについていけなくなっていた。
最後には振りかざされる眷属の両手の爪に怯え、立ちすくんでいた。
穂高は、その少女の前に出ると鉄杖で眷属の両手の爪を受け止めた。
「唯人!その娘を連れていけ!」
「はい!」
唯人は少女を抱えると、眷属から引き離した。
その瞬間、穂高のうめき声が聞こえた。
唯人が振り向くと、穂高は眷属の左手の爪で体を引き裂かれていた。
眷属は右手の爪で鉄杖を押えて動けなくして、左手で穂高の体を引き裂いたのだ。
穂高はその場に倒れた。
「父さん!」
唯人は少女を下すと、穂高の元へ走った。
それと同時に神祓いの水が眷属を覆った。
唯人は倒れている穂高を抱き起した。
傷は深く内臓にまで達していた。
穂高を抱き起している唯人の体は、みるみるうちに穂高の血に染まっていった。
「父さん…」
「油断したな…。もう、父さんも歳だな」
穂高は笑顔で言った。
「もう、それ以上喋らないで。血が…」
唯人は目に涙を溜めた。
「唯人。大きくなったな」
穂高は唯人の頭を撫でた。
「おまえを置いて死にたくないな…。俺が死んだら、誰が神代の一族を守るんだ…?」
穂高は涙を流しながら悔しそうに言った。
「父さん…」
「それに唯人は俺がいなくなったら一人になる。そんなことになったら唯人が可哀相だろ…」
穂高は泣きながら唯人の頭を撫でた。
「唯人…。ごめんな…。俺が、もっと強かったら…」
唯人の頭を撫でる穂高の手から力が次第に抜けていく。
「唯人…」
その言葉を最後に、穂高の頬に最後の涙が零れた。
同時に唯人の頭を撫でていた穂高の手がダラリと床に落ちた。
穂高は哀しそうに唯人を見つめたままの表情で動かなくなった。
「父さん!」
唯人は穂高を抱きしめた。
そして、しばらく、そのまま動くことができなかった。
その様子を見て、誰も声をかけることができなかった。
「唯人…」
ようやく、慶が唯人に声をかけた。
唯人は顔を上げ、慶を見上げた。
その顔は涙で濡れていた。
「慶様。僕を祓子の頭にしてください」
「頭に…?それは構わないが、いいのか?」
「父さんと約束したんです。頭になるって。父さんの代わりに神代の一族を守りたいんです」
唯人は真っすぐな眼差しにで慶を見て言った。
「そうか…」
慶は穏やかな顔で言うと、唯人の頭に手を置いた。
「おまえはいい頭になるだろうな。これから頼むぞ」
そう言って慶は笑った。
「唯人様!」
梓は視界の先にいる唯人の名前を呼んだ。
唯人の背中には黒い翼が生え、口からは鋭い牙が生え、指先の爪は長く伸びている。
そこは病院の廊下で、眷属化した唯人の後ろには患者や看護士の死体が転がっていた。
眷属化した唯人から一番離れた場所に梓はいた。
その梓の前に守るように楽空が立っている。
凛斗と花音、祐は鉄杖で眷属化した唯人を抑え込んでいた。
「梓!早く神祓いを!」
唯人を鉄杖で抑え込みながら、花音は叫んだ。
神祓いの繰り返しで体力は衰えているとはいえ、元祓子の頭。
眷属化すれば、その力は体力が衰える以前、それ以上となる。
三人がかりで押さえつけても鉄杖を持つ手が震える程、眷属化した唯人の力は強かった。
「はい!」
梓は瞼を閉じて、精神を集中する。
そして、心の中で暁月を呼ぶ。
すると、梓の髪が白銀に変わっていく。
髪がすべて白銀に変わると、梓はゆっくり目を開けた。
その瞳は琥珀色ではなく碧眼に変わっていた。
真っすぐに眷属化した唯人を視界にとらえると、両手の中に水の塊を作り出す。
そして、水の塊を唯人に向かって放った。
「まだよ。ギリギリまで、唯人を押さえつけて!じゃなきゃ、逃げられる。一度神祓いを発動したら、梓は倒れて神祓いができなくなる。チャンスは一度しかないから!」
花音は押さえつけながら、苦しそうに言った。
というのも、神祓いの水に気づいた唯人が神祓いの水を避けようともがいていたため、押さえつける力も限界にきていたからだった。
「わかってる…。もう、少しだ。祐も頑張ってくれ」
凛斗は祐を見ながら言った。
「わかった」
祐の力も限界に近いようで、苦しそうに顔を歪めていた。
神祓いの水が凛斗達の目の前まで来ると。
「みんな、離れて!」
花音の声で凛斗と祐も咄嗟に唯人から離れる。
唯人は避ける間もなく、水に体を覆われる。
唯人の体を覆った水の中に黒い光が滲み出て、黒い翼と長い爪と鋭い牙が消えていく。
完全に唯人が人間の姿に戻ると、黒い光を含んだ水の塊は蒸発していく。
そして、梓の姿が元に戻ると、梓は人間の姿に戻った唯人を見て安心したように笑った。
「よかった」
一言、そう言うと梓は意識を失って倒れた。
「梓…!」
楽空は梓を抱きとめる。
「凛斗。俺は梓を外に待たせてある車に乗せて来る」
「わかった。俺達は唯人を連れて行く」
倒れている唯人の傍にいた凛斗は言った。
祐が唯人の脈をみている。
「生きてはいるけど、脈が弱い…」
「唯人…」
唯人の傍には心配そうに唯人の顔を見る花音もいた。
「とりあえず、お祖父様の手配した病院に連れて行こう」
凛斗が、そう言うと祐が唯人を抱きかかえた。
「じゃあ、車に連れて行きます」
祐が歩き出すと、その後ろを凛斗と花音が歩き出す。
「Kerは、どうして唯人を眷属にしたんだろう…?神祓いができなくて、あたし達が殺せないと思ったから?そして、唯人にあたし達を殺させようとしたの?」
花音はため息混じりに言った。
「それは違う気がする…。当主以外でも神祓いができるのは唯人でわかっているはずだ。唯人以外の人間でも神代の血を引いていればできる。そうなると、唯人はすぐに人間に戻される。それがわかっていて…なぜ…?」
凛斗は考え込むようにうつむく。
「他に狙いがあった…とか?」
「他に…か。でも、いったいどんな…?考えれば考える程、わからない…」
「とにかく、今日は一度帰ってゆっくりしよう。もう、神祓いもしたことだし。ね?」
花音は凛斗の目の前に回り込み、笑顔でそう言った。
凛斗は立ち止まり、その笑顔にホッとしたように笑った。
「そうだな」
凛斗が、そう言った瞬間、花音の顔から笑顔が消え青ざめていく。
「花音…?」
目の前の花音の視線は凛斗の頭上に向いていた。
「凛斗…。逃げて」
花音のただごとではない表情に、凛斗は頭上を見上げた。
凛斗の頭上にはKerがいた。
そして、爪先を凛斗に向けていた。
「Ker…!」
凛斗がKerの名前を呼んだ瞬間、Kerの手から漆黒の闇が溢れ出してくる。
「花音!逃げろ!」
凛斗は花音を闇から遠ざけようと、突き飛ばした。
「凛斗…!その闇は眷属化の…!」
凛斗の体は闇に覆われていく。
「イヤ!凛斗を眷属にしないで!もう、神祓いできる人間がいないのに!」
花音は闇に覆われていく凛斗に触れようと手を伸ばす。
「やめろ!花音!おまえまで、また眷属化される」
「でも…!」
「頼む。花音。おまえが犠牲になるのを見たくない」
涙ぐみながら、花音はしぶしぶ伸ばした手を引いた。
「花音。頼みがある」
「何?」
「この病院を閉鎖してくれ。梓が神祓いをできるようになるまで…。頼めるか?」
「うん。わかった…。そうすれば、凛斗を殺さなくてすむものね」
「じゃあ、頼んだからな」
凛斗が笑顔で言うと、その顔は闇に覆われていった。
「凛斗…」
花音はすぐには動けなかったが、意を決したように走りだした。
そうすることが凛斗を救える唯一の方法だと思い。
走って行く花音の後ろ姿をKerは見ていた。
「健気な…。しかし、そのくだらない想いが自滅へと繋がっていくだろう」
そう言って笑うと、Kerは凛斗を覆った闇に更に赤黒い光を放った。
「うわあああ!」
闇の塊の中から、凛斗の叫び声が聞こえた。
「ワタシが憎いか…?お前の家族を殺したワタシが…。憎め、もっと憎め。その憎しみの記憶の中で、ワタシを殺したいほど憎むといい。そうすれば、お前にワタシを殺す機会をやろう」
Kerはニヤリと笑って、目の前の凛斗が眷属に変わっていくのを見守っていた。
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