梓が退院した、その日、凛斗は暁月のいる東屋にいた。
唯人を除く、花音、梓と梓の付き添いの楽空がその場にいた。
「そうか…」
凛斗から花音の神祓いの力が使えなくなった経緯を聞いた暁月はため息をついた。
「これまで、こんなことはなかった…。なんと言っていいか…」
「信じられないかもしれないけけど…。本当のことなんだ」
「信じるよ。凛斗の魂に集中すれば君の中に花音の持つ神祓いの力が感じとれるからね」
「わかるのか…?」
「ああ。わかるよ。凛斗の魂に神祓いの力が絡みついているようだ。不思議だ。こんなことが起こるなんて…」
「暁月。神祓いの力を戻すことはできるの?」
それまで黙っていた花音がすがるように言った。
「そうだね…。何かが原因かわかれば…。もしかしたら…。しかし、今はまだ無理だ」
「それじゃあ、次に眷属が現れた時はどうしらいいの…」
花音は困ったようにうつむいた。
「眷属が現れた時の神祓いか…。そうだね。眷属になった人間を殺すわけにはいかないからね」
「そうなんだ…。唯人は目を覚まさないし…」
「それなら、梓。おまえが私の憑依での神祓いをするといい。神代の血を継ぎ祓子の頭である、おまえが適任だろう…。かつて祓子の頭だった唯人が憑依の神祓いを行ったように…」
暁月は言いながら、梓を見た。
「でも、梓はまだ、体が…!」
言いかけた楽空の肩に梓が手を置く。
「梓…」
「楽空。いいの。私は祓子の頭。当主を助けるのが役目。当主が神祓いの力を使えないなら代わりに使うのが頭の役割よ。唯人様のように…」
梓は祓子の頭らしく、落ち着いた口調で言った。
「でも…憑依の神祓いは体への負担が…。唯人のように体が弱っていくかもしれないのに…」
楽空は哀しそうに言った。
「それでも、誰かが死ぬのを止められるなら…」
梓はうつむいて言った。
その脳裏には今までに死んでいった祓子達の顔が浮かんでいた。
「だから、いいのよ」
そう言って梓は笑った。
「ごめんなさい。梓。あなたにこんなことさせて…」
花音は辛そうな顔で言った。
「花音様。そんな顔しないで下さい。死ぬわけじゃないんですから」
梓は花音に笑って言った。
「そうだけど…。あなたの体まで唯人のようになってしまったら…と思うと」
「大丈夫。それまでに何か方法が見つかりますよ。神祓いの力を花音様に戻す方法が…」
「…そうだといいけど」
「花音。梓がこう言ってるんだ。もう、それ以上は…」
凛斗は花音の肩に手を置いた。
「…うん。そうね」
「すまない。みんな。半分人間の私では、これがやっとで…。私の父が地上にいたなら何とかできたのかもしれない」
「いいえ。十分です。暁月がいなければ人間は全てKerの餌食になって、もう地上に人間はいなかったかもしれないんだから」
「花音…」
暁月は花音の目の前まで来ると、花音を見つめた。
その青い瞳の奥に哀しみが満ちているように見えた。
その瞳で、どれだけの子孫が死ぬのを見てきたのだろう。
その哀しみは計り知れない。
「できることなら、このKerとの戦いから解放されて普通の人間と同じように幸せになってほしい。この願いが叶うかどうかは、わからない。それでも、もう私の子孫達が死んでいくのをこれ以上見たくない。花音も梓も唯人や祓子、神代の一族全てが、私にとっては可愛い我が子のようなものだ。子供の幸せを願わない親などいないからね」
暁月は哀しそうな瞳で言うと、包み込むような優しい眼差しで笑った。
それは親が子に向ける温かな眼差しに似ていた。
「暁月…」
花音は心からホッとすうるような、その眼差しに安心感を感じて微笑む。
梓も同じようで、穏やかな笑顔を見せていた。
そんな二人を見ながら、凛斗の胸に懐かしくも温かい想いが湧きあがってくるのを感じていた。
いつも凛斗を理解してくれた父親、辛い時に優しさで包んでくれた母親。
二人とも、同じように温かい眼差しを凛斗に向けてくれていた。
しかし、その温かい眼差しを見ることは、もう二度とできない。
あの日、Kerに奪われてしまったから。
そんな哀しみを隠すように凛斗は笑った。
夜も更けた頃、病室のベッドで眠る唯人の上に赤い影が現れる。
それは背中に黒い翼を持ったKerだ。
眠る唯人の上に宙に浮かぶようにして、唯人を見下ろしていた。
「いつもワタシの邪魔をする神代の犬。それが今は動くことさえできないか…」
Kerは横たわる唯人を蔑むように見下ろす。
「いい気味だ」
そう言うと、唯人に向かって手を伸ばす。
「おまえに人の命を奪う屈辱を与えてやろう…。ワタシの邪魔をし続けた罰だ」
言いながら、唯人に向けられたKerの手から漆黒の闇が溢れ出してくる。
その闇は唯人の体を覆う。
唯人はしばらくして苦しそうにもがき始めた。
「ワタシの力に逆らうのか…?しかし、どこまで持つか。やがて、おまえの心の闇がワタシの力を受け入れるだろう」
そう言って笑うと、Kerは姿を消した。
唯人は苦しそうにもがきながら、心の闇に繋がる記憶の中にいた。
両親を亡くしたばかりの八歳の唯人は部屋に引きこもってばかりいた。
食事の時間になると、祓子の頭であり養父となった穂高が迎えに来る。
「メシの時間だぞ」
唯人の部屋のドアを開けると、穂高はいつも笑顔でそう言った。
そして、唯人はカーテンの閉まった薄暗い部屋で、ベッドの上に一人、膝を抱えて寝転んでいた。
「ほらほら、寝てばかりいたら体に悪いぞ」
そう言いながら、穂高はカーテンを開ける。
朝食に向かえに来た時に穂高がカーテンを開けても、昼食の時にはカーテンは閉められてる。
昼食の時にカーテンを開けても、夕食の時に来ればカーテンは閉められている。
しかし、穂高は何事もなかったかのようにカーテンを開け、明るい口調で唯人に声をかけていた。
穂高はカーテンを開けると、寝転んでいる唯人を座らせ朝の着替えをする。
「ご飯いらない」
「だめだ。今は俺がおまえの親だ。親として子供に食事をとらせないなんてできない」
「…」
「さっ…行くぞ」
唯人の着替えが終わると、穂高は唯人を抱きかかえた。
穂高に抱きかかえられ、穂高の体の温もりを感じると、亡くなった父親を思い出す。
泣きそうになるのを必死に堪え、ギュッと穂高にしがみつく。
「大丈夫だ。俺は死なない。ずっと、おまえを守ってやる」
そう言って、穂高は唯人の背中をポンポンと叩く。
しかし、それでも食事が終わり、一人になると両親を失った日の恐怖が襲ってくる。
それでも部屋の外に出る気にはなれず、部屋にいるしかなかった。
今日も朝食が終わると、穂高に抱きかかえられて自分の部屋に戻る…はずだった。
「唯人。今日は屋敷の敷地内を見て回ろう」
「…」
「おまえ、この屋敷に来て一カ月経つだろ?でも、部屋から出たことないから、敷地内に何があるかも知らないよな。だから、一度は見て言おいたほうがいいと思ってな」
「…」
穂高にしがみつく手が少し震えた。
「大丈夫。屋敷の敷地内には、あの化け物たちは入って来れない。入ってきても、すぐにやっつけられるから入って来ないんだ」
そう言うと、唯人の手の震えがおさまった。
「じゃあ、このまま行くぞ」
穂高は唯人に靴を履かせ、唯人を抱えたまま玄関から出た。
そして、和の庭園を歩いていく。
しかし、庭園に入ってすぐに、ししおどしの音を聞いた唯人は驚いて顔を穂高の胸に伏せていた。
「恐いか?」
唯人は答えず、しがみついていた。
「あれは、ししおどしっていうんだ。見れば恐いことなんてないってわかる」
そう言って、穂高がししおどしのある方に向かって行く。
次第にししおどしの音が大きくなるのを感じて、唯人はビクビクしていた。
しかし、ししおどしの音に混ざって、子供がはしゃぐ声がした。
唯人は思わず、顔を上げた。
ししおどしの目の前に一人の男の子が立っていた。
唯人より少し年上のようだった。
穏やかな顔をした母親と一緒にいた。
「あら、穂高。その子は唯人?」
母親は笑顔で唯人を見て言った。
「はい。俺の息子です」
穂高は笑顔で言うと、唯人を地面に下して立たせた。
「慶。その子は唯人よ。仲良くしてあげて」
母親がそう言うと、慶はニッコリ笑って唯人の目の前まで行く。
「唯人。一緒にししおどし見よう。竹筒から水が出てきて、おもしろいよ!」
慶は唯人の返事を聞くより早く、唯人の手を引っ張ってししおどしの目の前に連れて行く。
そして、ワクワクしながら竹筒に水が溜まるのを見ている。
竹筒に水が溜まりきると、先端がお辞儀をするように下に傾き、先端が石に当たり音がして、竹筒から水が流れ出す。
「ほら、見て!」
慶は目をキラキラさせながら、流れる水を指さした。
その光景をボンヤリと唯人は見つめていた。
竹筒から流れる水は陽の光を浴びて、キラキラと光っていた。
一カ月の間、部屋に引きこもっていた唯人にとって、それは眩しい光景だった。
それから、唯人はゆっくりと辺りを見回した。
近くにある東屋や木々、上に広がる大空が鮮やかに唯人の目に飛び込んできた。
世界はこんなにも鮮やかで眩しかったのか…と思わされるほどだった。
辺りを見回す唯人の目はキラキラと輝いてた。
思わず、唯人は笑顔で辺りを見回していた。
「唯人」
穂高は唯人の隣に屈みこんだ。
そして、唯人の頭を撫でた。
その手はゴツゴツとしていたが、温かくて頼りがいのある手だった。
「おまえ、やっと笑ったな」
穂高は本当に嬉しそうに笑った。
そして、唯人を抱きしめた。
唯人を抱きしめた穂高の肩が微かに震えているのに気づいた。
「本当に良かった…」
穂高は涙声で、そう言った。
唯人は戸惑いながらも、穂高の頭を撫でた。
「泣かないで…。どこか痛いの…?」
「んなわけあるか。嬉しいんだ。おまえが笑ってくれたから」
「笑ったから?」
唯人は不思議そうに言った。
「だって、俺はお前の親だぞ。子供が笑わないなら、心配に決まってるだろ」
穂高は鼻をグスグスいわせながら言った。
抱きしめてくれた穂高の体は温かかった。
唯人を守るように抱きしめている、この腕も、胸も、唯人への愛に溢れていた。
まだ、穂高をお父さんとは呼べない。
でも、今目の前にいる、この人は血がつながらなくても父親なのだ…と。
唯人は心の中で、そう感じていた。
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