凛斗は何もない空間にいた。
「誰もいないのか?」
誰の気配も感じられない。
そう思った瞬間、凛斗は食卓についていた。
そこは凛斗が生まれ育った屋敷のダイニングだった。
テーブルには両親が向かい合って座り、凛斗は父親の隣に座っていた。
向かい合う母親の隣には美琴が座っていた。
「美琴。ピアノが上手くなったな」
父親が楽しそうに笑う。
「それだけ、頑張ったのよねー。美琴」
母親は美琴を見て、満面の笑みで言った。
「うん。あたし、もっと頑張るね!」
美琴は嬉しそうに笑っていた。
その様子を呆然と凛斗は見ていた。
死んだはずの家族と食事をとっているのだ。
なんだ…これは?
「どうしたの?凛斗。顔色が悪いわよ」
「本当だ。気分でも悪いのか?」
「大丈夫?お兄ちゃん」
三人が凛斗の顔を覗き込むように見る。
それは間違いなく凛斗の両親と美琴だった。
「あ…ううん。何でもない。みんな元気でよかった」
「何言ってるの?お兄ちゃん?変なの」
美琴が不思議そうに言った。
「凛斗は疲れてるのよ。頑張り屋さんだから」
優しい眼差しで母親は言った。
「皇家の跡取りだからな。勉強することがたくさんあるからな。でも、たまには息抜きしていいんだぞ」
「じゃあ、今度、みんなでドライブ行って、お兄ちゃんを休ませちゃおう!」
「それ、いいわね!」
両親と美琴は楽しそうに笑っていた。
凛斗は胸が温かくなるのを感じた。
ああ、そうだ。
俺の家族ってこんなだったな。
「ありがとう。父さん、母さん、美琴」
凛斗は嬉しそうに笑った。
その瞬間、凛斗のいる場所は、あの夜の光景に変わった。
Kerに母親を殺され、自らの手で父親を殺した、あの夜に…。
父親に殺された母親がベッドの上でKerに血を吸われ、化け物と化した父親が美琴と自分を殺そうと襲いかかってきた。
あの時と同じように凛斗は父親を日本刀で切った。
そして、その瞬間、父親に背中を引き裂かれた。
凛斗は倒れて、辺りを見回した。
Kerに血を吸われる母親の死体、自分の手で殺した父親の死体、唯一守った妹は恐怖で失いそうになっていた。
なんで…。
なんで…こんなことに。
凛斗は母親の血を吸うKerを睨みつけた。
あいつが…。
あいつが…。
俺の家族を奪った…!
凛斗は自分の中でKerへの怒りが膨れ上がっていくのを感じた。
「お兄ちゃん…」
美琴の声がして、凛斗のいる場所は屋敷の二階にある美琴の部屋のテラスに変わる。
美琴はテラスの手すりの上に立っていた。
「美琴…!危ない!降りろ!」
凛斗は駆け寄ろうとする。
「来ないで!あたしの手は汚れているの!」
「美琴…」
立ち止まった凛斗は哀しそうな眼差しで美琴を見た。
「あたし…慶を殺してしまった」
美琴の頬に涙が零れた。
「家族のような慶を…」
「違う!おまえは悪くない!」
「あたしは…、家族を殺した…」
そう言うと同時に美琴は手すりを軽く蹴って宙に飛び上がったかと思うと、そのまま落ちていく。
「美琴ー!」
凛斗は駆け寄り、手を伸ばしたが届かなかった。
そして、すぐに地面から鈍い音がした。
どうして、俺の家族が…。
Kerにすべて奪われた。
家族も、家族との幸せだった日々も…。
許さない…!
あいつを殺してやりたい!
そう思った瞬間、凛斗がいる場所は唯人を助けた病院に変わっていた。
病院…?
気がつくと、目の前にKerがいた。
これは…夢か?
「おまえはワタシに操られ、これから多くの人間を殺すのだ。おまえを止められるものはいない。神祓いがされる時まで、人を殺して殺して殺しまくれ!」
Kerは楽しそうに言った。
凛斗は自分の長く伸びた爪を見て、自分が眷属化しているのを知る。
そうか…俺は眷属に…。
だけど、おまえの思い通りにはさせない!
凛斗は長く伸びた爪でKerを切り裂こうとする。
何度も何度も、しかし、Kerは素早く裂けていく。
くっそっ!!
凛斗…。
頭の中に声が聞こえてくる。
誰だ…?こんな時に…。
でも、どこかで聞いたことがある声…。
凛斗は気が遠くなり、気がつくと何もない空間にいた。
「やっぱり、現実じゃなかったか…」
「病院での出来事は現実だよ。真実は見えていないようだけど…」
声のする方を見ると、そこにはもう一人の凛斗がいた。
「え…⁉俺…?」
「君の姿をしているけど、私はThanatos。暁月の父親であり、花音の祖先さ」
「これは夢なのか…?過去の記憶なわけがない…」
「夢じゃない。ここは君の心の中だ。君の心に直接話しかけているんだ」
「どうして、俺に…?」
「君にKerを葬ってほしいからさ」
「俺に…?そんなことできるわけ…」
「現に、Kerが血を吸えなくしてるだろう?このことはKerも気づいてるよ」
「俺が…?」
「そうさ。殺された家族への君の愛と哀しみが、君の中の神祓いの力と結びついてKerに血を吸わせない呪縛を作り出している。その呪縛は君の血と肉となって、その血がKerを葬るだろう。君の家族への想いが神祓いの力の性質を変えたんだ」
「俺の血でKerを葬れるって、どういう意味なんだ?」
「…おや。このままでは子孫の命が危ない」
Thanatosは何かを感じ取ったように頭上を見上げた。
「子孫?花音が…?」
「凛斗。目を覚ませ…。真実を見ろ」
Thanatosが凛斗を真っすぐに見て、そう言った瞬間、凛斗は病院に戻っていた。
そして、目の前にはKerがいた。
Ker…!
凛斗はKerに向かって左手の爪を振り下ろした。
その瞬間、Thanatosの最後の言葉が頭の中をよぎった。
“真実を見ろ”
次の瞬間、目の前にいたKerは花音の姿に変わっていた。
凛斗は思わず、花音に振り下ろした左手の爪を右手の爪で払った。
咄嗟のことで、凛斗は左腕を爪で傷つけてしまう。
「凛斗!」
花音が真っすぐに凛斗を見ている。
少し哀しそうに、でも、少しだけ希望を含んだ眼差しで。
花音…。
本当に花音なのか…?
そう思った時、凛斗の体を神祓いの水が覆った。
これは…神祓いの!
良かった…。
凛斗がホッとしていると、体から黒い翼と鋭い牙と長い爪が消えていった。
そして、水の塊は黒い光を含んだまま蒸発していった。
凛斗はその場に膝をついた。
「凛斗…!花音が駆け寄る」
「花音…。梓の体力が回復したんだな…。だとしたら、随分、時間が経ってるんだろうな…」
「ううん…。神祓いをしたのは梓じゃない」
そう言って、花音が視線を向けた先には祐に体を支えられた唯人がいた。
髪と瞳の色は元に戻っていたが、辛そうに肩で息をしている。
「よかった…。花音を守れた…」
笑顔で、そう言うと唯人は意識を失った。
「唯人!」
凛斗は唯人に駆け寄ろうとして、花音に腕を掴まれる。
「だめよ!さっき、自分でつけた傷から血が出てるのよ。止血しないと…」
「血…!」
また、Thanatosの言葉が頭をよぎる。
“その血がKerを葬るだろう”
「そのままの意味なら…」
凛斗は辺りを見回した。
Kerが、まだその場にいるのを見つけると、凛斗はKerに向かって走り出した。
「凛斗!」
そして、凛斗は腕から流れている血をKerに振りかける。
血がKerの顔に飛び散っていく。
すると、血のついた部分が蒸発していく。
「痛い…。痛い…!焼けるようだ…!」
Kerは顔を両手で覆った。
「やっぱり!」
「どういうこと…?」
花音は茫然と苦しむKerを見ていた。
「…なんだ?」
祐も目の前で起きていることが、信じられないというように、ただただ見ていた。
凛斗は更に腕を振りかざし、自分の血をKerに浴びせる。
「うぅぅぅ!!」
血を浴びた部分から体の蒸発が始まっていく。
「やはり、ワタシが思ったとおりだった。おまえの中の神祓いの力はお前の血と肉となったか…」
「それで、俺に花音を殺させ、最後に俺を殺すつもりだったのか…?」
凛斗はKerを睨みつけた。
「そうさ。花音はおまえを殺せない。だから、おまえに花音を殺させて、おまえが生きる気力を失ったところを殺すのが簡単だろう?それで神祓いの力は地上から失われるはずだった…」
「当てが外れたな…」
「唯人にまだ、あんな力が残っているとは…。眷属化が解ければ死ぬと思っていたのに…」
「死ぬと思っていた?…おまえ、人の命を何だと思っているんだ!」
「ワタシは死神だ。人間の生死を支配してなにが悪い!」
「そうか…。死神のおまえにとって人の命なんて、その程度ってことか。それなら、俺も迷わずにおまえを葬れる!」
「ワタシを葬るだと…!人間の分際で!」
凛斗は再び、自分の血をKerに浴びせた。
「やめろ!」
血を浴びせるたびにKerの体は蒸発していく。
その度にKerは苦しそうに悲鳴をあげた。
そして、体のほとんどが蒸発して消え、顔と顔を覆った両手だけが残され宙に浮いていた。
「これで最後だ!」
凛斗は再び血を浴びせた。
「人間ごときが…ワタシを!」
その言葉を最後にKerは跡形もなく消えていった。
「Ker。人の命は、そんなに軽くないんだ。おまえは、その命の重みに葬られたんだ」
Kerのいた場所を見ながらそう言うと、凛斗はその場に座り込んだ。
「凛斗!」
花音は駆け寄り、凛斗の腕の傷を止血した。
「もう!無茶して!出血多量で倒れるわよ!」
「ごめん。でも、良かった。花音を殺さなくて…」
凛斗は花音を抱きしめた。
「凛斗…」
花音は自分を抱きしめる凛斗の腕が震えているのに気づく。
「Kerのヤツ、花音がKerに見えるようにして。眷属になった俺に花音を殺させようとしてたんだ。ごめんな。恐い思いさせて…」
「大丈夫。あたしは凛斗を信じてるから…」
そう言うと、花音は凛斗の背中に手を回して抱きしめた。
「そうか…。もし、あのまま自分の手で花音を殺していたら…。俺は…」
凛斗は辛そうに目を細める。
「あたしは生きてる。こうやって、傍にいるでしょ?」
「そうだな…。本当に良かった」
そう言って凛斗は笑った。
Kerは事実上葬られ、神祓いの力は、その必要性を失った。
そして、暁月が地上にいる意味もなくなった。
「もう、Kerはいない。残された君たちは自分のために生きて幸せになるんだよ」
東屋で、暁月はそう言い残すと笑顔で消えて行った。
凛斗と花音は東屋から離れると庭園を歩く。
「もう、誰かが殺されるのを見なくてすむな」
「うん。みんなKerから解放されて幸せそうだし」
梓は神祓いを使ったことで、また入院し、楽空に付き添われている。
梓は楽空に必要とされることに安心感を感じ、楽空は大切な梓の傍にいることで幸せだった。
祐は凛斗のボディーガードとして必要とされ、そこに生き甲斐を見出しているようだった。
「でも…」
花音は哀しそうにうつむいた。
「唯人か…?」
唯人は倒れてから昏睡状態で、医者からもって一カ月の命だと言われていた。
それほど、体へのダメージが大きかった。
「唯人がいなければ、あたしは何もできなかった…」
「俺も唯人が花音を守ってくれなければ…。もう二度と花音に会えなかったかもしれない」
「唯人に死んでほしくない」
「俺も、唯人には生きてほしい」
凛斗は晴天の空を眩しそうに見上げた。
「生きて、幸せになってほしかったな」
「うん」
花音は凛斗の手を握った。
凛斗が花音を見ると、温かい眼差しで凛斗を見ていた。
「花音」
凛斗は穏やかに笑った。
俺はKerにより、大切な家族を失った。
それは生きる意味さえ見いだせない程の絶望だった。
それでも、諦めなければ生きる意味を見つけることができると知った。
諦めなければ、守りたいほどの大切な人間を見つけられる。
大切な誰かを守るために生きるなら、どんな絶望も超えていける。
大切なものは自分の手の中にあるのだから…。
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