その日は曇り空だった。
だからといって、辺りが暗くなるほどの雨雲が広がっているわけではなかったので、明るくもなく暗くもないといった状態だった。
その日は成瀬里乃の葬儀だった。
里乃の家族は誰も、祐のことを知らなかった。
殺し屋だった祐は、それだけ巧みに自分の存在を里乃以外に知られないようにしていた。
それが、功を奏して、あの日、里乃が死んだ時に一緒にいたことは遺族に知られていなかった。
里乃の死後、すぐに祐が眷属化したため、遺族への連絡が遅れ、祐の手によって遺族が殺されることはなかったのが幸いだった。
里乃の家族に連絡がいったのは、祐が人間に戻った後のことだった。
だとしても、それ以外の人間を殺した事実は変わらなかった。
眷属として人を殺した記憶は薄れず、祐の中に残っていた。
その記憶を胸に祐は一つの決断をしていた。
葬儀が終わり、誰もいなくなった葬儀場に祐が一人いた。
棺桶の中に眠る里乃の姿を見つめていた。
「里乃…。俺は人間にはなれなかったよ」
祐は目に涙を溜めて言った。
「俺のこの手は人の命を奪うためにあるんだろうな」
里乃の冷たくなった頬に触れると、祐の頬に涙が零れる。
「ごめん。約束守れなくて。俺には生きる資格がない。すぐに里乃の傍にいくけど、俺を嫌わないでくれ」
祐の涙が里乃の頬に落ちる。
「死ぬ気なのか?」
声のする方を見ると、そこには凛斗がいた。
「いつの間に…」
祐は頬の涙を拭った。
いつもなら、人の気配に気づかないことなんてなかった。
しかし、今の祐は心を打ちひしがれ、生きることに希望を持てなかった。
だからだろうか、生きるための感覚が働かなくなり、人の気配に気づけなくなっていた。
「おまえ、俺を人間に戻した女の仲間だったな」
「そうだ。せっかく、お祖父様に保護してもらったのに逃げたって聞いたけど。きっと、ここに来ると思っていたよ」
「俺を捕まえに来たのか?」
「違う」
「俺は人殺しだ。そんな人間に他の用なんてあるのか…?」
「おまえは人を殺した自分を責めているけど、それはおまえが本当は人の命の価値を知っているからじゃないのか?」
「…だとしても、人を殺したことに代わりない。今回のように化け物になる前から、俺は人を殺してきた。もしかしたら、人間の姿はしていても生まれた時から化け物だったのかもしれないけどな」
祐は哀しそうに笑った。
「だから、死ぬのか?」
「生きる価値なんかないだろう?」
今にも心が崩れそうな眼差しで祐は笑う。
「そう思うのは、おまえが人の痛みや苦しみのわかる人間だからだろう?」
祐は苦しそうに凛斗から目を背ける。
そう、ずっと、心が痛かったし、辛く苦しかった。
人の命を奪うことは…。
でも、親に捨てられ、他の生き方を選べなかった。
とある組織に拾われ、殺し屋として育てられた。
生きることは誰かの命を奪うこと…。
そうまでして生きるぐらなら、もう生きなくていい…。
「おまえなら、本当に苦しんでいる人間を理解できるはず。知ってるか?本当に苦しんでいる人間は、そんな人間を誰よりも必要としている」
俺もそうだった。
辛くて苦しかった。
無差別に人の命を奪う日々は…。
だけど、俺を理解しようとしてくれた里乃と出会って、生きようと思ったんだ。
「だから、生きる価値がないと思うなら、おまえを必要としてくれる人間のために生きればいい。今度は誰かの命を奪うんじゃなく、誰かの命を助けるために…」
「誰かの命を助けるために…」
「そうだ。痛みがわかる、おまえならできるはず…。きっと、誰かを助けられる」
「俺が…?」
価値のない人間だと思っていた自分に価値がある。
そう言ってくれる人間が目の前にいる。
「生きる理由ながないなら、誰かを助けるため生きればいい」
凛斗は穏やかな声で言った。
「俺が力になる。おまえが生きていけるように」
凛斗は包み込むような穏やかな笑顔で言った。
凛斗の、その温かな表情に、その言葉に涙が溢れて止まらなくなる。
もう、殺し屋の自分はいらない。
人間として生きていこう。
そんな自分に価値があると教えてくれた人間がいるから…。
その日は晴天で風の気持ちいい日だった。
凛斗と花音は二人で、いつもの林にいた。
二人は木の根にもたれて座っていた。
花音は、そこから見える山々をぼんやりと見ていた。
ただ、二人に会話はなく、一緒にいるだけだった。
林に来ると、そんな時間が続いた。
花音がKerの力を跳ね返した日から、ずっと、花音とこうして林に来ていた。
凛斗は空を見上げながら、数日前の暁月達とのやり取りを思い出していた。
その日、凛斗は記憶がなかった経緯を知りたいと唯人に伝えた。
すると、唯人は暁月のいる東屋に凛斗を連れて行った。
その日は、暁月が姿を現して待っていた。
「よく、来たね」
暁月は穏やかに微笑んだ。
「来た理由はわかってるんだろう?」
凛斗は、何となくそう感じて、そのまま言葉にしていた。
「わかってるよ。私の使った術をKerが解いたからね。すぐにわかったよ」
「暁月が使った術?なんのことだ?」
「記憶を消す術だよ。二年前に花音と凛斗の記憶を消したのは私だからね」
「暁月が…。でも、なんで消したんだ?それも花音の記憶だけ。記憶を取り戻したけど、消さなきゃならないような記憶はなかったはず」
「君のはね」
暁月は寂しそうに言った。
傍にいる唯人も哀しそうな顔をしている。
「まさか…。花音の記憶に何かあるのか?」
「そうだよ」
暁月は穏やかに答える。
「君が神祓いの水に触れ、気を失った後に問題が起きたんだ」
「問題?」
「そのせいで、花音は自殺未遂をした。だから、花音が生きていけるように全ての記憶を消したんだ。神代家の当主であることも全て忘れ何の重圧もないただの花音として生きていけるようにね」
「だとしても、どうして俺の記憶まで…」
「花音の記憶を消しても、君は花音の傍にいるだろう。そうすれば、花音の記憶が戻る可能性もあったからだよ」
「それでか…」
「結果として、二人は出会い。記憶が戻り始め。Kerに術を解かれてしまった。所詮、二人を引き離すことなどできなかったのかもしれない」
「それで、花音が自殺未遂した理由って何なんだ?」
「凛斗。花音から理由を聞かされてないのか?」
唯人は驚いたように言った。
「それが…何も」
暁月と唯人は顔を見合わせる。
「私たちも本当の理由は知らない。その前に記憶を消してしまったからね。でも、心当たりならある。しかし、花音がその話に触れないなら、私と唯人から話さないほうがいいかもしれないね」
「それって、花音が俺に知られたくないことだってことだよな?」
「そうだね」
「でも、凛斗になら話してくれるだろうね。いつか…」
唯人は穏やかな声で言った。
「そうだといいいけど」
「凛斗は花音にとって、特別だから。記憶を失っても、信じることができるほどにね。二人の絆は強いね」
唯人は寂しそうに言った。
どんなに花音のことを大切に想っても、信じてもらえていなかった…。
そんな寂しい想いを抱いているのが伝わってくる。
「唯人…」
唯人にかける言葉が見つからなかった。
「そんな顔するなよ。凛斗」
唯人は笑って言った。
「これでいいんだ。花音の記憶が戻って神祓いができるようになっても…僕の体はもう。長く生きられない僕より、凛斗と生きてほしい。花音が生きてくれれば、それでいいんだよ」
心からの笑顔で唯人は言った。
「俺も同じだ。花音には生きてほしい」
「わかってるよ。だから、君に花音を託せるんだ。だから、僕が可哀相なんて思わないでくれよ」
「う…ん。悪かったよ」
凛斗は精一杯の笑顔で言った。
唯人を安心させるために。
花音は守ってみせるから、大丈夫だから…と。
そんな凛斗を見た唯人は安心したように微笑んだ。
「それにしても…おかしくないか?」
凛とは急に真顔になる。
「…Kerの行動のことか?」
唯人も気になっていたように言った。
「Kerの行動で気になることでもあるのかい?」
怪訝そうに暁月が言った。
「花音と出会ってから、Kerに何度か遭遇したけど。一度として殺された人間の血を吸っているのを見たことがない。Kerは殺された人間の血を吸うんだよな?そのために人間を眷属にしているんだよな?」
「そうなんだ。病院でもあれだけの死体があったにもかかわらず、Kerが血を吸った痕跡はなかった」
「Kerが死体の血を吸わないとは…。今までなかったことだね」
「そして、花音を眷属にしようとした」
「神祓いの力を使えない花音は脅威ではないが、記憶を取り戻し神祓いの力を使えるようになった花音は脅威だということなのかもしれない」
「そうだね。それに本来ならKerは神祓いの力を持つ者に自ら近づくことさえできないはずなのに、近づくことができた」
「俺達が気づいていない何かにKerは気づいているか…?それと、死体の血を吸わないことが関係あるのか…?」
「何ともいえないけど。僕たちにわからない何かが起こっているのは間違いない」
「この先、油断しないほうがいいようだね」
静かに言った暁月は何かがひかかっているようだった。
しかし、それ以上何かを言うことはなかった。
話が終わると、凛斗は石の東屋を囲んでいる垣根から出た。
まだ、唯人は暁月と話があると、東屋に残っていた。
張り巡らされた垣根から出ると、少し離れた場所にある縁台に楽空が座って待っていた。
縁台は竹で作られた細長い腰かけ台で、よく時代劇などで団子屋の店先に置いていあり、そこに座って団子とお茶などをいただくシーンがあるが、現代の服装の楽空には不似合いだった。
「話、終わったか?」
「終わった…」
そう言うと、凛斗は楽空をじっと見た。
「…言いたいことは、わかってるよ。花音ちゃんやKerのこと、神代家のことを知らないフリしてたことだろ?俺は記憶を消されてないからな。でも…花音ちゃんを死なせたくなかったんだ。いつか凛斗が記憶を取り戻したら、哀しむのがわかってたからさ」
楽空は穏やかな眼差しで言った。
「俺は凛斗に辛い想いをしてほしくなくて…。おまえの家族が死んだ時のように…」
楽空は俯き目を細めて言った。
「楽空…」
「俺、おまえには生きてほしいんだ。だから、おまえを騙してたことが悪いなんて思ってない。それでも、おまえが謝ってほしいなら謝るよ」
顔を上げ、真っすぐに凛斗を見た楽空は曇りのない瞳で言った。
この気持ちに嘘はない…。
楽空の瞳は、そう言っているようだった。
人は大切な誰かが死ぬと、生きていけない程打ちのめされる。
だから、死ぬのだ…と。
それでも踏みとどまれるのは、自分も大切に想われている誰かだと気づくことができたから…。
もしも、自分が死んだら、自分を大切に想っている人間が哀しむことを知っているから…。
「そうか…」
凛斗は胸が熱くなって目を伏せた。
「ありがとな。楽空」
凛斗の中で、また一つ生きる理由ができた気がして目頭が熱かった。
「じゃあ、行くか」
微かに潤んだ目を楽空に見られないように歩き出す。
「おう」
楽空は嬉しそうに凛斗の後について歩いていく。
「ところでさ…。祓子の頭の梓ってつき合ってるヤツいるのか?」
「…おまえ、梓のこと何も知らないのか?」
「神代家の人間は部外者を嫌うから、ほとんど関りがなかったんだ。今回、花音ちゃんのお陰で初めて関わることになったから知らないんだよな」
「…そうか。じゃあ、俺から言えることは一つだけ」
「うん」
「梓はやめとけ」
「え…?なんで?」
「忘れられない人がいるんだよ。おまえが入る隙なんてないくらいの…」
「それ…。好きなヤツがいるってこと…?」
「…この話はこれ以上聞くな」
そう言うと、凛斗は速足で歩きだした。
「あ!凛斗!」
楽空は慌てて、凛斗の後を追って歩き出す。
「何も聞かないの?」
林から見える山々をぼんやりと見ていたはずの花音が、いつの間にか凛斗を見ていた。
「あたしが自殺した理由…」
今にも泣きだしそうな顔で花音は言った。
凛斗は花音を抱きしめた。
「無理に言わなくていいよ」
凛斗は花音の頭を撫でる。
「花音さえ生きていれば、俺はそれでいいから」
頭を撫でる凛斗の手が温かった。
花音の瞼がじんわりと熱くなる。
「どんな理由かなんて関係ない。それがどんなことでも、俺は一緒に受け止める。花音の全てを受けとめたいと思ってるんだ。だから、辛くなったら俺に言っていいから。遠慮なんかするなよ」
凛斗は穏やかな笑顔で言った。
その温かな凛斗の声に、花音の中にある頑な気持ちが溶けていくようだった。
「う…ん」
花音は凛斗の胸に顔を押し付ける。
「言えるようになったら、言うね」
「うん」
愛しくてたまらない…。
そんな言葉が似合う眼差しで、花音を抱きしめていた。
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