その夜は星の綺麗な夜だった。
夏の熱を失った少しひんやりする秋の風が吹く、気持ちのいい夜だった。
梓は唯人の部屋の前のベランダの手すりに両腕を組んでのせ、その上に顔を置いて遠くの星空を見ていた。
それは遠い昔を見ているかのような眼差しだった。
幸せでもあり哀しくもある、そんな複雑な眼差しで見ていた。
その憂いを含んだ横顔は見とれる程、美しく見えた。
誰かを想う切なさが、より美しさを引き出していたのだろう。
「涼しくなったよな」
声がして梓が顔を上げると、隣に楽空が立っていた。
「楽空…」
「唯人の体調はどう?」
「弱っていってる。このままじゃ…」
梓はため息をついた。
「唯人のことが大事なんだな…」
そう言うと、楽空は寂しそうに笑った。
「そうね。唯人様ほど、神代家のことを考えてる人間はいないから、もし、いなくなったら、どうしたらいいか…」
「もし、唯人がいなくなったら俺が力になるから…って、俺じゃ足手まといか…」
楽空は舌を出して笑った。
「…ううん。そんなことないわよ」
梓も笑った。
「唯人様がいなくなったら、祓子の頭である私が神代家を支えないといけない。それが私の役目だって、わかってる。でも、本当言うと、私にできるかどうか…。本当は不安で」
ため息をつきながら、梓は笑った。
「俺なんかじゃ、何の力にもなれないかもしれない。でも愚痴ぐらいなら聞けるから、その時は言ってくれよな」
楽空はニッと笑った。
「う…ん。ありがとう」
「まあ、こう見えても俺、口固いから安心してくれよ。頭は弱いから解決はできないかもしれないけど。でも、ため込むよりいいだろ?」
「そうね…。ため込むよりはいいわね」
微笑みながら梓は俯いた。
辛い気持ちを必死に堪えているようにも見えた。
その姿は、いつも祓子の頭として凛としている梓とは違って、弱く可憐な少女のように見えた。
守ってやりたい。
このまま、手を伸ばして抱きしめて「大丈夫だから」と言ってやりたい。
そんな衝動にかられながらも、楽空は梓の中にいる忘れられない人を見ていた。
だから、触れることさえできない。
「もう、遅いし。寝たほうがいいかもな」
楽空の言葉に梓は顔を上げた。
「ここの鍛錬って、空が暗い内からはじまるだろ?早く寝ないと起きれないよな。よく、梓は平気でいられるよな。俺はできれば、朝は寝てたいんだけど…」
そう言って、おどけたようにため息をつく楽空を見て、梓の表情が和らいだ。
「私も朝は苦手よ」
梓は笑って言った。
「でも、大事なことだから、しょうがないのよ」
「そうなんだけどな~」
また、楽空が大袈裟にため息をつく。
「じゃあ、明日の朝ね。おやすみ。私は唯人様の様子を見てから眠ることにするから」
そう言うと、梓は唯人の部屋に入って行く。
その姿を見送ると、楽空はため息をついた。
「梓の忘れられない人って、唯人なのか?花音ちゃんの許婚になったから、忘れるしかなかったのかも…」
また、ため息をつく。
「花音ちゃんの記憶が戻った今、より戻るかな…」
楽空は空を見上げた。
「切ないな…。俺」
そう、ポツリというと、花音の部屋の二つ先にある自分の部屋に向かって歩き出す。
早朝の鍛錬場で、祓子を中心とした神代一族の鍛錬が行われていた。
そんな中、唯人は少し離れた木の下にガーデンチェアを置いて座っていた。
その場所からなら、鍛錬している一族の者達全てを見渡すことができた。
体の弱っている唯人は鍛錬には参加できないが、一族の一人一人の鍛錬の状況を見てアドバイスをしていた。
そして、その日も鉄杖を振り下ろす鍛錬が始まっていた。
筋力のない者には辛い鍛錬だが、眷属と戦うには避けられない鍛錬だった。
その日は、一族の者が一斉に鉄杖を振り下ろすのを見て、ぼんやりと唯人は昔のことを思い出していた。
それは、唯人が八歳の時だった。
両親と三人で遊園地に行った時のことだった。
唯人の両親は神代の一族なのだが、結婚を期に神代の屋敷を出た。
通常、神代の一族は十三歳になると神代の屋敷で鍛錬を行い、その中から祓子が選抜される。
そして、祓子以外の一族は結婚を期に神代の屋敷を出て普通の生活をすることを許される。
そうして、唯人の両親は結婚を期に屋敷から出て、一人の息子に恵まれ幸せな生活を送っていた。
八歳の唯人は右手を父親と繋ぎ、左手を母親と繋ぎ、嬉しそうに園内を歩いていた。
その日は唯人の誕生日だった。
八歳の誕生日プレゼント、それが遊園地へ行くことだった。
嬉しくないはずがなかった。
暗くなるまで遊園地で遊んで、夜になったらバースデーケーキをサプライズで出してくれるレストランへ行く。
それが毎年の唯人の誕生日のルーティンだった。
毎年、同じコース内容にもかかわらず唯人は楽しみにしていた。
両親に思い切り甘え、どんな我儘も許される一年で一日しかない特別な日だったからだった。
遊園地の乗り物に次々と乗っていき、お昼には母親の作ったお弁当を食べ、午後にはまだ乗っていない乗り物に乗る。
そうしている内に楽しい時間は過ぎて夕暮れになると、地上に隠れようとしている夕陽が鮮やかなオレンジ色に染まっていた。
「きれいね」
母親がうっとりとして言った。
唯人は、その鮮やかなオレンジ色の夕陽に見とれていた。
右手に父親の手の温もりを感じ、左手に母親の手の温もりを感じ幸せだった。
きっと、また来年も、同じように両親と遊園地に来ることになるだろうと、来年の誕生日を楽しみにしていた。
「帰ろうか」
父親が唯人の頭を撫でて言った。
「この後、レストランに行くのよ。たくさん、食べようね」
母親が笑顔で言った。
「うん!」
唯人は笑顔で言った。
そして、三人が歩き出すと、悲鳴が聞こえた。
悲鳴のする方を両親は振り返り、その瞬間、唯人の手を強く握りしめた。
「どうしたの…?」
唯人が両親が見ている方向を見ると、そこには化け物がいた。
人間の姿をしているが、鋭い牙と長く鋭い爪、黒い翼を持った化け物だ。
その化け物が長く鋭い爪で人間の体を引き裂いた。
その人間が絶命すると、その化け物に似た化け物が宙から降りてきた。
その化け物は血のような真っ赤なローブと仮面のような白い顔をしていた。
絶命した人間の傍まで行くと、その死体の血を吸い始めた。
「Ker…」
そう言うと、父親は唯人の手を離した。
「唯人を安全なところへ…。眷属を押える」
そう言いながら、父親はKerと眷属のいる方向へ歩いていく。
「はい」
母親は唯人を抱きかかえると、走り出す。
遠くなっていく父親は、眷属を押さえつけようと刺股を持って集まった警備員達が目の前で殺されていく中、刺股を拾い颯爽と眷属に立ち向かっていた。
「お母さん!お父さんが!お父さんが!」
「大丈夫よ。お父さんは普通の人とは違うから」
そう言いながら、母親は観覧車の前まで来ると唯人を観覧車に乗せた。
「唯人。ここから出ちゃだめよ」
「お母さんは?」
母親は微笑んだ。
「お父さんと一緒に、あの化け物をやっつけたら戻ってくるから。だから、ここで大人しく待ってるのよ」
「お母さん。本当?本当に?」
「うん。だって、この後、唯人とレストランに行かないと。だから、いい子にしててね」
そう言って、母親は包み込むような優しい笑顔を見せると、父親の元へ向かった。
何人もの人を殺していた、あの化け物のところへ母親はいったのだと思うと、唯人は不安で不安でしかたなかった。
それでも、大丈夫だと。
母親の言葉を信じて、観覧車の中でうずくまっていた。
しばらくして唯人の観覧車が一周して戻ってくると、外から観覧車の扉が開いた。
うずくまっていた唯人は恐る恐る顔を上げた。
そこには忍び装束の三十前後の男が立っていた。
「おまえが唯人か…」
男は哀しそうに眼を細めて言った。
「さあ、降りろ。もう、大丈夫だ。化け物は退治した」
男は唯人を抱えて、観覧車から降ろした。
「おじさん。誰?」
「穂高っていうんだ。おまえの父さんと母さんの親戚だ」
穂高は屈むと、唯人に目線を合わせて言った。
「じゃあ、僕の親戚?」
「ああ。そうだ」
「お父さんとお母さんは…?」
「用事があって、遠いところに行くことになったんだ。その間、俺が面倒みることになった」
「嘘だ!お母さんは戻ってくるって言ってたもん!レストランに一緒に行くって言ってたもん」
唯人は穂高を睨みつけて、言った。
「そうだな。俺達が駆けつけるのが遅くなったならなかったら…」
穂高は目に涙を溜めて言った。
唯人は、その涙の意味に気づいて走り出す。
しかし、穂高に抱きかかえられる。
「おろしてよ!お父さんとお母さんのところに行くんだ!」
「駄目だ。今は、まだ見るな」
「いやだー!」
穂高に抱えられ暴れる唯人だったが、そのまま連れていかれた。
両親と再会したのは二日後の葬儀の日だった。
棺桶に眠るように横たわる両親の姿を見て泣いた。
最高に幸せだった唯人の誕生日は、この時から最悪の思い出に変わった。
唯人は両親を失った日のことを、ぼんやりと思い出していた。
最低最悪の誕生日の日のことを…。
「唯人様!」
梓の声で現実に引き戻される。
「大丈夫ですか?ぼんやりされて…。体調がすぐれないのでは…」
心配そうな梓の顔が目の前にあった。
「大丈夫だよ。少し、昔のことを思い出していたんだ」
唯人は穏やかに笑った。
その顔を見て、梓はホッとしたように笑った。
そんな二人を楽空は寂しそうに横目で見ていた。
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