Snow White Lunatic

狂気の姉妹愛を描く現代のグランギニョル、ここに開幕。
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Chaper I

#2

公開日時: 2020年9月4日(金) 20:09
文字数:4,078

――一九九五年。


中学校の校舎の片隅。カーテンの隙間から、真昼の木漏れ日が差し込む。床の上に映し出されたいくつもの影は、嘲笑う口元のように湾曲し、風とともにちらちらと揺れ動いていた。

うららかな春が過ぎ去った、そのすぐ後の時季。穏やかな午後の光は、私の前に広がる光景を置き去りにして空気を熱し、気温をみるみる上昇させていく。背中に、じっとりと冷汗が滲む。蒸し暑い陽気とは対照的に、私の胸の奥は冷え切って、今にも凍りつきそうだった。


紗雪さゆき……もう、大丈夫?」


包丁を握りしめたまま恍惚としている少女に、そっと、声を掛ける。既に呼吸音は静かになっていて、発作が治まっているのはわかっているけれど。

その小さな背中から溢れ出る狂気が沈静化すると、熱く重く私を包み込んでいた空気が、森の中の清浄なそれに入れ変わった気がした。


「うん……もう大丈夫。ありがとう、陽葵ひまりちゃん」


亜麻色の長い髪を背中に垂らした、麗しい少女が振り向き、微笑む。眩しいほどに白いシャツに映える真紅のリボンタイ。プリーツがくしゃりと潰れた黒のスカート。一幅の絵画のように幻想的で、妙に現実感の無い姿に、その手に不器用に握られたモノから滴り落ちる液体が、生々しい香りをつけていた。

ポタリ。床に、赤い雫が落ちる。着地した球が潰れる、その一瞬だけできる王冠クラウンを被せたら、紗雪は喜ぶだろうか。そんな馬鹿なことを考える余裕を、取り戻している私がいた。


「そう。じゃあそれ、貸して。これで手拭いて」

「うん」


紗雪が赤く汚れた包丁を素直に差し出し、代わりに数枚重なった濡れティッシュを受け取る。指に、爪に、美しい赤を纏わせ、紅玉ルビーをつけた白い手袋をしているようだ。元の純白に戻すのは惜しいような、そのままにしておくのはおぞましいような、そんな刹那的な美が、そこには宿っていた。


「……ありがとう」


白く薄い手袋をつけて包丁を受け取り、持ち手をアルコール入りのウェットティッシュで念入りに擦る。勿論指紋を消すためだ。警察なんかに、紗雪を渡してなるものか。黒い木製の柄が水とエタノールで濡れ、そして乾いたときに残っていたのは、落としようのない褐色の染みだけだった。


他にも紗雪の痕跡が残っていないか、部屋を迅速かつ綿密に調べる。木製のタイル張りの床の上、調理台を兼ねた机の上、まだ温かい血溜まりの中。まあ、物証が出ても紗雪に嫌疑がかかりにくくなるよう、今日の授業で使った家庭科室を選んだのだが。


家庭科の先生は非常勤講師で、ついさっき帰ってしまった。鍵は先生が戻した直後、手袋を嵌め、素早くいただいていた。昼休みの緩んだ空気の中、私の一瞬の行動に気づく者はいない。家庭科室だから、凶器は常に備え付けられている。肝心の標的は、どうとでもなる。紗雪が呼んでいると言えば、みな脇目も振らず飛んで来るのだから。それに、紗雪が呼んでいるというのは、あながち嘘でもない。別に指名はしていないというだけで。


こうして状況を整え証拠を隠滅するのは、私の仕事だ。学校だけではなく、通学路、よく行く店、生活圏内のあちらこちらに儀式に適した場所を見つけ、いつ何時でも紗雪の渇望に応えることが。


地面から窓枠までは、一メートルと数十センチほど。外部の犯行に見せかけるため、一番端の窓の鍵をあけておく。死体は窓の外からは死角になっている位置にある。包丁は床に放り投げて放置。家庭科室の鍵は後で焼却炉に放り込む。


今回のターゲットは、友達もおらず、いつも一人だったクラスメイトの小柄で非力な男子。忘れ物を取りに戻ったところを、鉢合わせた不審者に襲われ、死亡。そういう筋書き。彼がポケットに入れていたシャープペンシルを、遺体のそばにさりげなく転がしておいた。


「……さて。行こっか」

「うん。お昼まだだし」


すっかり顔色が良くなった紗雪が、すっくと立ち上がる。アーモンド型の大きな目を上機嫌に細め、薔薇の蕾のような唇を三日月に吊り上げながら。お腹空いたね、と呟く表情はあまりに明るくて。


その足元に横たわっている彼……紗雪に名前も知られていない彼は、背中を一突きにされ、既に自らの血溜まりの中で事切れていた。その方法で殺すよう助言したのは私だ。正面から背中を刺したほうが心臓に届きやすいし、返り血を浴びずに済むから。彼の背が紗雪とそう変わらなくて助かった。夏服とはいえ、制服をもう一着持ち歩くのは面倒だ。


最初の一撃で既に運命は決定されたというのに、彼は最後の最後までそれに抗い、生命のしぶとさ、力強さを存分に披露して、散っていった。誰にも届かない嘆きと絶望、痛み、真っ赤な血を振り撒いて。


紗雪ではないけれど、その姿に私は、美しさすら感じていた。彼の容姿はお世辞にも整っているとは言えなかったけれど。それは、懸命に生きようとする者だけが放つ輝きだった。


もしかしたら紗雪は、それを求めて人を殺すのかもしれない。神秘的で虚ろな美しさを持つ紗雪が、自分に足りないものを求めて、本能的に殺人を犯す。なんとなく納得してしまった。


「あ、待って……それ、拭かないと」


滑らかな膝に血がほんの少しついているのを見つけて、紗雪を制止し、もう一枚ウェットティッシュを渡す。


「あ、ほんとだ……ありがと。あはは、うっかりしてた」


紗雪は照れたように笑うと、それを受け取って、肌に張り付いた赤色を拭き取った。ティッシュに移ったそれは、私達の罪を象徴するように、未だ鮮やかに発色している。紅雪。そんな形容が相応しいだろうか。今だけは、なんの変哲もない不織布が、緋羅紗ひらしゃの切れ端のように見えた。


「じゃ、帰ろっか。お昼まだだし、ね」


さっきの分も纏めて、紗雪からウェットティッシュの束を受け取って握り締めると、私はふぅと息をついた。ウェットティッシュと手袋は、鍵と一緒に焼却炉行きだ。遺体が発見されるまでに、少なくともまだ数時間はあるだろう。それまでに燃やしてしまえばいい。焼却炉は、家庭科室からほど近い、学校の敷地内の外れにある。外部犯行説との相性が良い。この学校の防犯カメラは正門にしか無いし、昼間だから赤外線式の防犯装置はオフになっている。この説を完全に否定することは不可能な筈だ。

背後に立つように紗雪を促すと、戸の横の壁に背中をつけ、磨硝子すりガラスから外の様子を伺う。取り敢えず、人影は見えない。


「私が先に行く。いいよって言ったら出て来て」

「……うん」

「じゃ、いくよ……」


聴覚を研ぎ澄ましながら、ゆっくりと家庭科室の引き戸をずらす。昨年設置し直されたそれはスチール製のレールの上を滑り、音もなく容易に開いた。

そのまま極力足音を立てず、静かに廊下に出る。人っ子一人いない。続いて、喧騒に包まれたフロアに続く階段を確認する。誰もいない。下りてくる様子もない。


「ん……いいよ、紗雪。出ておいで」

「うん」


紗雪を呼び寄せ、家庭科室の扉を、固く施錠する。家庭科室の鍵は内側からもかかるタイプだ。外部犯行説と矛盾しないし、発見を遅らせるには有効だろう。それから手袋を取り、鍵とティッシュを包んで、ポケットに仕舞う。幸い今日は金曜日だ。ゴミ出しを進んでやれば、焼却炉へは容易に行けるだろう。家庭科室の定期的な掃除は水曜日、週一回。今日はない。長ければ数日、死体は放置されることになる。それまでに証拠品を消すなど、わけもないだろう。


ついさっき即興で立てたプランだが、今のところ狂いはなかった。余程のヘマをしない限り、犯人が私達だとバレることはない。とはいえ、油断は禁物だが。

後は、残った昼休みを紗雪と一緒に楽しむだけ。今日のお弁当のおかずは、私と紗雪の好きなものだらけだ。食い逃すのは惜しい。

腹の虫が鳴くきゅるきゅるという音と共に、紗雪が小さく肩を竦める。私が思わずクスクスと笑うと、紗雪は黙って顔を赤くした。私自身は特に空腹を感じていなかったが、その色づいた頬を見ていると何故か腹の底が切なくなる。案外、非日常に空腹を忘れていただけなのかもしれない。


「あはは、本当にお腹空いてたんだね」

「もー、笑わないでよ……」


揶揄いまじりに笑いかければ、桃色の頬が温めた餅のように膨らむ。柔らかそうなそれをつまみたいという衝動を堪えると、私は緑色のリノリウムが張られた階段を数段駆け上がり、いじけたままの紗雪に手を差し伸べた。


「紗雪、ほら」

「っ……うん」


紗雪が私の手を握り、躊躇いがちに微笑む。同じ段に立って目を合わせると急に擽ったい気持ちになったが、私はそれを嫌だとは思わなかった。

私達はそうして、虫も殺さないような穏やかな顔で、堂々と上の階に登っていく。さっき人を殺めたことなど忘れたかのように、いや、そんな事実は存在しないかのように。


紗雪が憶えているのは、持病の発作をなんとか乗り切ったこと。私が憶えているのは、紗雪の発作を止める手伝いをしてあげたこと。憶えているのはそれだけ。


紗雪は彼の名前を知らなかったし、これからも知ることはないだろう。だから、私が憶えておく。紗雪の……私達の、六人目の犠牲者の名を。


「ごめんなさい……佐藤裕太」


手を繋いでいる紗雪にすら聞こえないような、囁き。

人の命を奪う、その罪の重さを理解した上で、それでもそれを選んでしまう……選べてしまう、真の意味で邪悪な私に、たった一つできること。

それは、謝罪。罪を認めることだ。

これからも罪を重ねていく覚悟がある私がしても、無意味なことかもしれないけれど。


「……え? 今、何か言った?」


私の呟きの端切れが耳に入ったのか、紗雪は振り返ってそう訊いた。


「ううん……なんでもない。さ、早く」


私は首を横に振って、紗雪がくれた笑顔を浮かべると、もう一段、階段を上った。

紗雪が自分の罪を理解する日は、きっと来ない。理解して欲しくもない。私が一番嫌なことは、紗雪が私のそばからいなくなってしまうことだけなのだから。


紗雪が元気で笑っていてくれるなら、なんだってする。この言葉に嘘はない。

他人の命を奪うことでしか生き永らえることのできない、純白の狂人。紗雪を守るのは私だ。


そう、決めたのだ。あの日から。


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