魔性の泪

生と死の問いかけを重ねた先に待ち受けるものは何か。
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Ⅲ.淫蕩の魔性

女使用人の怨嗟 ー前編

公開日時: 2022年1月14日(金) 21:32
更新日時: 2022年1月16日(日) 09:31
文字数:4,617

峠を越えた先に広がる盆地に霧かっているのは、カスティタスという自然豊かな街である。中心部を透き通った河川が貫いており、その水を利用して育てた作物や果実の評判がとても良いらしい。しかしトロヴァが馬車からそっと眺める限りでは、外で働いている者は見当たらなかった。それどころか、街の大通りを進んでいてもまったく住人の姿がない。街がもぬけの殻というわけではないのだろうが、誰も外に出てくる気配がない。空気が静止しているようで、どこか埃っぽい感じさえする。馬車の中は密室であったが、トロヴァは今一度顔に巻き付けているスカーフを強めに結び直した。事前に情報を得ていた以上に深刻な状況を生んでいるらしい…突如この街を襲った伝染病というものは。


馬車がカクッと傾き坂を上り始めた。目的地はこの盆地を見下ろすようにやや小高い丘に建つ屋敷である。この屋敷に住むティーズ子爵から昨今の伝染病について情報を集め、実態を調査するのが表向きの訪問理由である。当然裏では『魔性の泪』に魅せられた者によりこの不可解な事件が引き起こされた可能性を探る意図を持ち合わせている…のだが、今回は未だ何者による仕業であるのか見当が付いていない。仮にこの伝染病が魅せられた者による魔法のような能力だったとして、果たしてこれは短剣ユーディジウムの能力で防ぐことができるのだろうか。それゆえに今日は表向きの調査を主軸として、中期的な行動計画を立てて馬車に乗り込んでいた。


目的地である屋敷、ティーズ邸は煉瓦れんが造りの3階建てで、広々とした庭園とともに塀で囲まれていた。黒づくめのローブで全身を締め付けるように覆った御者が玄関門に設置されている電話機で何やら話をすると、門がきしんだ音を立てながらゆっくりと開いた。すぐに馬車はティーズ邸の正面玄関に向かってU字になっている通路を進んでいく。途中に見える庭園は綺麗に刈り込まれているように窺えた。そして正面玄関前に到着すると、扉が開いて1人の女使用人が姿を現した。トロヴァが馬車から降りると、口元にスカーフを巻き付けた女使用人は一瞬やや驚いたような、おびえたような表情を浮かべたのがわかった。だがトロヴァはいぶかしむ素振りを見せずに、予定していた体裁で挨拶をした。

「こんにちは。世界平和維持機構よりせ参じました、トロヴァと申します。カスティタスを襲った伝染病の調査のためお伺いしました。事前にティーズ子爵へ訪問する旨お伝えした封書をお送りしておいたのですが…。」


女使用人は深い紫色の瞳でトロヴァをまじまじと見つめ返したのち、うつむいた。長い黒髪を後頭部で結い、フリルの付いたカチューシャを付け、足元スレスレまで丈のある黒ベースのエプロンドレスを身に着けていた。若く、歳はあまり自分と変わらないようにみえた。

「あ、あの…子爵様はその…伝染病で1週間前にはお亡くなりになっておりまして…。」


女使用人がおどおどした口調で返答してきたが、トロヴァは耳を疑わずにはいられなかった。ティーズ子爵ももしかすると伝染病でとこに伏せておられているかもしれないとは予想していたが、カスティタスの伝染病騒ぎの情報が世界平和維持機構に入る数日前には、既に感染し亡くなっていたことになる。

「…ですが、封書は代わりに拝見しまして、トロヴァ様がお見えになることは存じ上げておりました。…宜しければどうぞ中へ…外はきっと空気も悪いでしょうから。」


玄関扉を開けて屋敷内へ誘導した女使用人の言う通り、丘の上にきても相変わらず空は霞懸かっており空気がよどんでいるような息苦しさを感じていた。息苦しいのは口元にスカーフをきつく巻いているからかもしれないが、どこから例の伝染病がうつるかもわからない不安で早くも胸が締め付けられる思いであることは事実だった。

まだ午前中であるのだが、曇天と霧で覆われているためか大広間も窓からうっすらとしか光が入って来ておらず、あちこちに灯る蠟燭ろうそくあかりの方が頼り甲斐があった。女使用人は黙々とその灯の下を通過し、奥にある小さな応接室にトロヴァを案内した。

「…お茶をご用意いたしますので、こちらでお座りになってお待ちください。」

そう言って女使用人はゆっくりと扉を閉めた。トロヴァがいかにも高級そうなソファーに腰掛けると、身体が思いのほか深く沈み吸い付かれるような、ゆったりとした心地良さがあった。これが貴族階級の椅子かなどと堪能する余裕はなく、この屋敷に漂う違和感を探ろうとした。すると、直ぐに女使用人が紅茶のポットを持って応接室に戻ってきた。やけに準備が良い。だが事前に手紙を送っていたことに加え、閑散とした街中を進んでくる馬車を見かけていれば、到着に合わせて紅茶を沸かすことも容易いのだろう。女使用人は応接室の戸棚からお洒落なカップを取り出し、紅茶を注いでトロヴァの前の低いテーブルにそっと置いた。


「…長旅でお疲れでしょう。冷めないうちにどうぞ。」

「ありがとうございます。ですが、恥ずかしながら猫舌なもので。えーっと貴女は…。」

差し出された紅茶には敢えて手を付けず、スカーフを口元に巻き付けたまま調査を持ち掛けることとした。

「クーノと申します。せっかく遥々お越しいただいたのに大したおもてなしもできず申し訳ございません。」

「いえいえ、こちらこそ不躾ぶしつけな訪問で…クーノさん、差し支えなければ貴女に少々お話をお伺いしたいのですが。」

「…承知いたしました。私に答えられる限りで宜しければ…。」


女使用人クーノはトロヴァに対して直角の位置に立ったまま、自身なさげにかしこまった。

「それではまず、昨今の伝染病の症状について。クーノさんが見た限りでのことを教えていただけますか。」

「ええと、症状は…全身が酷く痙攣けいれんして呼吸困難になるようです。個人差があるようですが、早い者だと感染したその日のうちに亡くなってしまうとのことです。それから…聞いた限りでは、感染したのはみな男性でした。」


その最大の不可解な点は事前の報告でも聞いていた。それにもかかわらず世界平和維持機構の議長ルーシーは躊躇ためらうことなくトロヴァをこの街に遣わしたため、慣れている馬車の中でも当初は酔いそうなくらい気分が悪かったのを覚えている。


「男性しか伝染病に侵されないとは聞いていましたが…女性には一切何の症状も出ないということなのでしょうか。」

「体調が悪くなったという女性も聞いたことはありますが、因果関係までは判然としておりません。ただ、いまも街では外出がままならず自宅にこもっている女性が多くいらっしゃるかと。」

「伝染病が瞬く間に拡大したことから考えるに、例えば生活用水…街を流れる河川に中毒性のある物質が紛れ込んでいるとか、この街を覆う霧が実は何らかの毒性を含む煤煙ばいえんであるといった原因が考えられますが…何かこの街の異変など気付いたことはありますか。」

「いいえ、特には…。河川には目立った濁りもないようですし、あの霧はこの時期になるとよく発生するのです。盆地になっておりますので。」

「そうですか。まぁ水質に関してはこれから詳しく調査をしようかと考えているところです。それでは次に、最初にこの伝染病の症状が表れた住人に心当たりはありますか。…ティーズ子爵は随分早い段階で感染されてしまったようですが。」


トロヴァがちらりと視線を上げると、エプロンの前で両手をぎゅっと組み締め俯きながら言葉を絞り出そうとするクーノの姿があった。

「…よくわかりません…確かに子爵様の感染は比較的早い時期でした。それに、ご子息様も直ぐにうつってしまわれて…。」

「そういえば若い息子さんも同居されていたと聞き及んでおりましたが…。奥様はどうなされたのでしょうか。」

「ご令室様はご子息様が亡くなられたのち、街中でも同じ症状で亡くなる者が相次いで報告されると直ぐにこの屋敷を発って避難されてしまわれました。ですが、その後こちらにはまだ一報もございません。」

「この屋敷には、貴女以外にも使用人として働いていた者がいたのではないですか。」

「…はい。私の他に3人の女性が使用人として、1人の男性が執事として当家に仕えておりました。しかし、執事もやはり伝染病に侵され…他の3人の使用人のうち2人は奥様に伴って屋敷を出ました。皆それぞれ避難できる宛があったのでしょう。もう1人もこの街を別方向に出立していきました。」

「貴女は一緒に避難されなかったのですか。」


「…私は1人残された者として、この屋敷を維持管理する責務がございますので…。」

「お気持ちはわかりますが、まだ女性が無症状で済むとわかったわけではないでしょうし、貴女の親御さんも身を案じておられるのでは。」

「…それは、よくわかりません…それに、私はこの屋敷以外に行く宛を知りませんから。」


「あー…失礼。少々踏み込んだことをお尋ねしてしまったようです。」

トロヴァは少し気まずくなって報告を書き留める羊皮紙に目を落としたが、差し支えない範囲での回答をお願いしたクーノの口が閉じられることはなかった。

「私、子爵様のめかけの娘だったんです。」


大して広さのない応接室で、静寂が一気に重苦しく充満しし掛かってきたような気がした。

「先程申し上げた3人の女使用人のうちの1人が子爵様の妾、私の母でした。そして、奥様とは別に出立していったのも私の母です。恐らく生まれ故郷を目指したのかもしれませんが、私はその土地の名を知りません。」


段々とクーノの声音が単調に、無気力にちていくのがわかった。

「私は物心ついた頃からこの屋敷以外の居場所を知らないのです。…生まれた時からずっと当家に、子爵様にその身を尽くしてきましたから。」

トロヴァは手先から血の気が引いて身体が一気に冷え込んでくるのを感じた。いますぐここから離脱しなくてはならないと脳は警鐘を鳴らしていたが、柔らかなソファーに埋もれた状態から立ち上がることが叶わなかった。


「…トロヴァ様、如何いかがなさいましたか。紅茶がいよいよ冷めてしまいますよ。」


クーノが静かに、しかしはっきりと聞き取れるような声で促してきたが、トロヴァは顔を上げることができなかった。確かに冷めかかっている紅茶を飲めば、少しは身体がほぐれてくるのかもしれない。だが先程から執拗に紅茶を口にするよう誘導されているような違和感も抱えていた。もしかすると、この紅茶にも何かの毒が混ぜられているのかもしれない…最悪の場合、伝染病の病原となる何らかの物質が。


ひとまず少しだけ口にする振りをしようと考え、口元のスカーフを外さずにやや上にずらし、口元に寄せたカップをクーノから隠すようにしながら、ひとつ息を吸った。


「…がっ…!?」


その瞬間全身を激しいしびれが襲い、たまらずカップを真下の絨毯じゅうたんに落として紅茶をぶちまけた。肺が焼き尽くされるように痛み、激しく咽込むせこみながら右側に倒れ込んで肘掛けにもたれる格好になった。他方で喉元が締め付けられるようで、息を吸って吐くことすら徐々に困難になっていく。

しかしクーノは介抱してくれるような動きもなくたたずんでいるだけであり、身をかがめずにはいられないトロヴァは涙目を辛うじて凝らして微動だにしない彼女の黒いロングスカートの裾を見つめるほかなかった。


その床スレスレの隙間からは、応接室の灯に照らされて何か埃のような微粒子がフワフワと湧き出ていた。それが何なのか察する頃には、身体中が硬直し意識が遠退とおのいていった。

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