「さてと、これくらい話せば上司に提出する報告書も纏まったでしょう?私はもう厄介ごとに巻き込まれるのは御免なの。安全な場所で悠々自適な生活が送りたいだけ…だから早く例の目的地へ急いでほしいのだけれど。」
ヒュミリス嬢に一方的に話を締め括られたと思いきや冒頭と同じ発言内容に戻ってきたというところだったが、それと同時に馬車がぴたりと停まった。
「目的地まではまだあと1日要します。本日はもう日が落ちる頃ですので、我々が普段使用しております停留所にてお休みください。」
トロヴァが馬車を降りて案内すると、ヒュミリス嬢もガウンの裾を持ち上げながら渋々下車し、雑木林が開けた広場にひっそりと佇む小さな木造平屋を訝しげに睨んだ。平屋の窓越しには室内に灯が灯されているのがわかるが、人の気配はなかった。なお馬を待機させる小屋は離れた別棟にあるため、空になった馬車はさっさとその場を離れてしまった。
「停留所には誰もおりませんが、ヒュミリス嬢ご宿泊のため清掃は行き届いております。私は外にて見張りをしておりますので…。」
「わかったわよ。ここまで来てこれ以上文句をつける気はないから。」
そう言ってヒュミリス嬢は玄関に向かってスタスタと歩いて行ったが、ドアノブに手を掛けようとしてぴたりと動きを止めた。
「…ねぇ、私からも1つ訊いてもいいかしら。」
どういう風の吹き回しなのか、トロヴァは一瞬動揺したが、なんとか平静を装ってヒュミリス嬢の背中越しに反応することができた。
「…何でしょうか。」
「人間って、隠し事をしないと生きていけない生き物だと思う?」
身に覚えがあるような、抽象的な問いかけが風に乗って飛んできた。こちらを蔑むためではない、ぼんやりと浮かんできた問いをそのまま飛ばしてきたかのようだった。
「…仰っている意味が、よくわかりかねるのですが。」
「人間は誰しも、生身の等身大そのままじゃ五体満足になり得ないってこと。譬え恵まれた身分に生まれたのだとしても…暗黙の了解だとか利害の一致だとか、自分ではどうしようもないことを誤魔化したり、他人に容認してもらったりしなければ満足に生きることが叶わない。お父様も、ディセプシオの領民も皆そうだった。隠し事を抱えて取り繕った言動をしていなければ立って歩くことも儘ならない人種だった。…貴方はどうなのかしら?貴方もきっと何かを隠して、何かを装って、私のことを探ろうとしていたんでしょう?」
このまま喋り続けていれば、そのうちまた傀儡だの死神だのと自分の呼び名が変わってきそうな気がした。
「でも人間はきっとそれが正しい。幾重にも虚栄を纏って自分の不自由な部位を補いながら、せめて真っ当に生きていこうとするものよ…だから私もそうしたって何も咎められる謂れはないはずよね。」
結局はヒュミリス嬢自身に言い聞かせていたのか、こちらを牽制していたのか、どちらともとれるような台詞は、かつて『魔性の泪』に魅せられていたシスター・ドールを彷彿とさせた。
「それじゃ、おやすみなさい。」
こちら側を振り向くことなく、しかしはっきりと聞こえるようにトロヴァに伝えると、彼女はドアをゆっくりと開いて室内へと入り、同じようなスピードでそれを閉めた。
しかしその瞬間、窓越しに見えていた灯が一斉に落下して、ガラスが潰れて砕ける音が響いた。
同時に平屋の奥から玄関を囲うように一気に火の手が上がり、あっという間に停留所は炎に包まれた。だがトロヴァが燃え盛る建物に向かって駆け出すと、停留所は破裂したかのような爆発音を起こし、強烈な暴風が衝撃波のように吹き荒れ、燻ぶった木造の壁がバラバラに飛び散っていった。その反動かヒュミリス嬢が玄関から背面のまま大きく飛ぶように後退してきた。
その着地の瞬間を、トロヴァは狙っていた。
「!!!」
しかし危機を察知したヒュミリス嬢は右側に身体を捩ると、懐から取り出した刃物でトロヴァの短剣ユーディジウムに応戦した。同じくらいの刃渡りの短剣であったが、容易くトロヴァの短剣を跳ね除けては、隙のない動きで首元を狙い詰め寄ってきた。更には破壊された停留所から止めどなく溢れてくる追い風をその身に纏うことで、ものの数秒でトロヴァを広場の隅まで追いやってしまった。
「何か仕込んでいるだろうとは思っていたけど、随分と荒っぽい手を使うんだねぇ世界平和維持機構って奴は!!」
魅せられることで強化された筋力、身体能力による剣捌き、鍔迫り合いに加えて、猛烈な風が圧し掛かってくることで、トロヴァは雑木林の間の茂みに埋もれて押し潰されそうになっていた。その風に煽られて、周囲の雑木林は忙しなく揺れて騒がしい音を立てている。
そんな状況下で、とある違和感が湧き上がっていた。前回、ディレクタティオ修道院で戦ったドールは、元々シスターであったが故に武器の扱いが全くの素人であった。だが目の前で不敵な笑みを浮かべているヒュミリス嬢は明らかに短剣の扱いに慣れていた。武器そのものも護身用にしてはかなり使い込まれているようだった。彼女は交易都市の領主の一人娘にすぎないと思っていたし、戦闘訓練を受けているような情報は入っていなかった。
「おまえ…一体何者だ!?ただの貴族令嬢じゃないな…まさか!?」
脳内が弾けるような衝撃が奔って、トロヴァは大きな勘違いをしていたことに気が付いた。一連の登場人物の中で最も武器の扱いに長けていた者を挙げるならば、それは海賊であった。そして海賊団ヴァニタスの首領には、数年前からヴァニーと呼ばれていた若い女性が就任していたという情報を耳にしていた。そのうえで、首領ヴァニーがヒュミリス嬢を誘拐したと仮定して、直後に竜巻が海上で発生し船舶を襲ったという事実を辿るならば…。
「おまえはヒュミリス嬢に扮した…海賊団の首領、ヴァニーだな!?」
「フフフ…ご明察だよ。確かにあたしは本物のヒュミリス嬢じゃあない。でも海賊団そのものも潰えちまったから、首領なんて肩書も似つかわしくないねぇ。」
首領ヴァニーは少し後方へ跳躍し、腕を組んでせせら笑った。だが相変わらず暴風がトロヴァに向かって吹き付けており、茂みから起き上がることが困難であった。なんとか両膝を地面について前のめりに屈み、仰向けの無防備な体制からは脱却することができた。
「本物のヒュミリス嬢は…どうなったんだ!?」
「さぁね、あたしも知らないわ。でもきっと海の藻屑ね。そうでないとあたしが困るもの。」
「何が目的で、こんな成りすましを…?」
「おや、目的なら報告書にもその手で書き遺したはずだろう?『安全な場所で悠々自適に暮らしたい』…それだけのことさ!」
確かに報告書には馬車に揺られながらそう書き遺している。だがそれは自責の念や精神的な疲弊から自らの領地より退こうとする貴族令嬢の発言として遺したのであって、凄惨な自作自演を披露したまったく別の人間の野望を認めたわけではない。
「そんなことのために…ディセプシオの街や商人、住人、伯爵たち…同士である海賊すらも、容赦なく吹き飛ばしたってことか!?」
「『そんなことのために』…の『そんなこと』が、どれだけ手を伸ばしても金を積み上げてもあたしには生涯到達できない理想の世界だって、おまえには理解できるはずないだろうねぇ!!」
首領ヴァニーが声を荒げると、更に一段と強い暴風が唸るように襲い掛かってきた。トロヴァは短剣ユーディジウムを地面に突き刺して、飛ばされないように必死に堪える他なかった。
「…いや、おまえなら少しは理解できるだろうと思ってはいたよ。同じような臭いがしたものね…禄でもない生まれ方をして、生きていくための選択肢を持ち得なかった泥臭い臭いがね。人間どれだけ取り繕っても、やっぱり臭いは消せないんだ。」
短剣をだらりと右手に下げながら、首領ヴァニーはトロヴァの方へゆっくりと歩み寄っていった。だがその間も、叩きつけるような暴風の勢いは収まらず、トロヴァは顔を上げることもできずただ彼女の近付く足音を聞き分ける他なかった。
「あたしが海賊団の首領の娘として生を受けた時点で、あたしの運命は決まったようなもんだった…。海賊団はいずれ世界平和維持機構によって淘汰される。生まれた時から法を侵し続けてきた、存在そのものが世界から忌避されていた海賊団の跡継ぎに平穏な未来なんて持ち得なかった!それでもあたしを慕い従う奴らが大勢いて、そいつらの食い扶持を維持していく必要があって…すべてを擲って、傷付くことなく自分を生まれ変わらせるためには、この機を逃すわけにはいかなかった!!」
間近に迫った首領ヴァニーが、ヒールでトロヴァの後頭部を勢いよく踏みつけて地面に埋めようとした。トロヴァは額から来る衝撃も相まって意識が飛びそうになったが、なんとか歯を食い縛り踏ん張る手足の力だけは抜くまいと体勢を保った。
「なぁ、せめて同情くらいはしてくれよ?あんたもあたしを陥れて始末するような薄汚い仕事をやっていかないと生きていけない身なんだろう!?でもそんな反吐に塗れた人生でいいと思っているのかい!?お互い平穏で豊かな生き方を目指して上手いことやっていこうじゃないか!!」
『魔性の泪』に魅せられた女は、拗らせた死生観を盾に敵を惑し画策する…議長ルーシーの言葉が、未だじりじりと痛む脳裏に浮かび上がってきた。
「…俺がどういう生涯を送るかはおまえには関係ない…それにおまえ自身で言っていただろう…『人間はどれだけ取り繕っても臭いは消せない』…おまえがいくら努力して貴族令嬢を装ったとしても…おまえは本当の出生や過去からは逃れられない…結局は死ぬまで身包みが剝がされることを恐れて生きていくことになるんだよ!!」
トロヴァが地面に向かってそう叫ぶと、頭上に載っていたヒールが外れ、重しが無くなった弾みで顔を起こす格好になった。しかし目の前に首領ヴァニーは立っていなかった。そして周囲を確かめる暇もなく、俯せだった身体がふわりと浮き上がっていくのがわかった。どんどん地表が遠くなり身体が仰向けに転じると、両腕を広げて純白のガウンをはためかせた首領ヴァニーがこちらを睨み見下していた。視界を渦巻く風の束が曇天を貫いているのが見える。2人は竜巻の渦中で上昇気流に煽られていた。
「これ以上おまえに構っているわけにはいかない…竜巻の力でその身体を捩じ切り地の果てまで葬り去ってくれる!あの愚かな伯爵のように…!!」
だがヴァニーは違和感を覚えた。眼下で仰向けに煽られるトロヴァの表情にまったく焦りが見られなかったためである。そして竜巻の中でも決して手放さない右手の短剣が…正確には鍔に嵌め込まれている宝石が淡く紅い光を放つのを察した。
次の瞬間、刀身から青白い炎が爆発したかのように広範に噴出し、竜巻に纏わりついて急上昇した。たちまち灼熱の業火が首領ヴァニーに襲い掛かった。
「な…火災旋風だと…!?しかし、それではおまえもあっという間に焼かれて…!?」
ヴァニーが灼熱を堪えて薄く開けた目を凝らすと、トロヴァは依然として真っ直ぐこちらを見上げていた。分厚いコートをはためかせながら…。
「まさか…そのための耐火コート…!?」
焦げたガウンが更に身を焼き全身が燻ぶるのを感じた首領ヴァニーは竜巻を維持していた力を解放して、纏わりつく炎を振り払いながら雑木林へと墜落していった。もちろんそれはトロヴァも同じであったが、もう一度空中で仰向けになって耐火コートの胸元の紐を引き、小さなパラシュートを出現させた。
そして、竜巻が発生し無造作に雑木林が伐り開かれた場所に着地すると、コートを脱ぎ棄ててヴァニーが落下した地点を目指して駆け出した。耐火製のコートやブーツを着用していたとはいえ、暴風と灼熱に煽られていたためかなり意識が朦朧としていたが、最後の好機を逃すわけにはいかなかった。
暫し草叢を短剣で掻き分けて進んでいくと、黒焦げになった首領ヴァニーが地面に横たわっている姿を捉えるに至った。まだ微かに息はあるようだ。これもやはり『魔性の泪』の執念、乗り移った者の命が尽きないギリギリの死線で踏み止まるよう、最善の状況を判断しその身体を操っていたのだろう。
「だが、その身体では最早動けないだろう…自分を騙すのも、これが最後だ。」
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