「再提出しろ。この報告書は不十分だ。」
世界平和維持機構本部の隠し部屋の机上では、新たに紫色に輝く結晶が3本目となる瓶の中に沈んでいた。その机に向かって座る議長ルーシーは、提出された報告書をぐしゃぐしゃと捏ねるように丸めると、やや青白い顔色をして目の前に佇むトロヴァの頭に向かって放り投げた。ふんわりした弧を描いた紙屑は軽くその頭を跳ねて床に転がっていき、トロヴァは身を屈めてそれを回収したが、その際に脇腹の傷跡があからさまに痛んだため思わず顔を顰めた。狙ってやっているとしか思えなかった。
「…はぁ、何が不十分なんですか。伝染病の原因も女使用人クーノと相対した一部始終も記したじゃないですか。」
「『始』と『終』しか書いてないじゃないか!!その中間で同衾を強いられたおまえが堪能したあんなことやこんなことも一言一句書き遺してはじめて報告書が完成するんだろうが!!」
「た、堪能してなんか…そもそも書き遺しませんよそんな恥ずかしい経験!!」
「うわ~『経験』とか言っちゃってるし。これだから陰気な童貞は。」
ルーシーは嘗て見たことがないほど厭味ったらしくにやけている。だがこれ以上声を荒げると脇腹の傷に障りそうだったし、前回の首領ヴァニーと相対したときとは一転して明らかに失態を冒し無様な姿で戻ってきたために、上司に対し強気に踏み込める余地が皆無だった。ただ羞恥心を堪えながらこの報告の場を凌ぐことだけを考えるほかなかった。
「まぁ言いたいことは色々あるが…その前にまずは助けてもらったお礼を言わねばならないだろう?…さぁ、入れ。」
ルーシーがトロヴァの背後の扉に向かって声をかけると、静かに開いて1人何者かが部屋に入ってきた。トロヴァがちらりと振り返ると、その人物は黒づくめのローブで全身を締め付けるように覆っていた。ティーズ邸へ馬車を走らせた御者であった。よく見るとトロヴァよりもやや小柄でスリムな体型をしていた。その御者が頭の辺りの部分を引っ張り脱ぎ去ると、その中から茶色い短髪の女性の顔が出現した。整った顔立ちに吊り上がった大きな黒い眼は、議長ルーシーとはまた違った威圧感を醸し出していた。
「一応紹介しておこう。おまえとは別の隠密部隊に編成していたミトだ。おまえより2,3歳上だったかな。万が一おまえの身に危険が迫った場合に対応するよう私が指示し同行させておいた…何事もなければただ御者に扮しているだけだがな。ちなみに以前おまえとヒュミリス嬢…いや首領ヴァニーを乗せていた馬車もこのミトが動かしていたんだぞ。」
「えっ!?…てことは、彼女も『魔性の泪』について情報を共有しているんですか?」
「この部屋に呼び寄せているのに当然のことを訊くんじゃない。今回の相手は『男のみを侵す伝染病』だったから、ミトもただ御者に扮するだけでは済まないだろうと思ってはいたが…おまえが女使用人と同衾している間に処分された短剣ユーディジウムを回収し、廊下の天井に張り付きながら投擲、あられもない姿のおまえの脇腹に突き刺して毒素を吸収、最後には結晶化した『魔性の泪』を回収し倒れたおまえとともに馬車に運び込み護送…今回はほぼミトの働きによって任務が達成されたようなものだ!!」
ルーシーが早口で捲し立てるように、カスティタスでの一件はトロヴァよりむしろこのミトという女性を一人称にした方が報告書の纏まりが良さそうなくらいであった。もちろんクーノを仕留めたのはトロヴァ自身であったが、直前にクーノの右肩に負わせた傷は結果として短剣に吸収させた毒の魔力を逆流させる一撃になるという怪我の功名であり、ミトが短剣ユーディジウムを脇腹に突き刺して毒の魔力を吸収させてくれなければ元より起き上がることも儘ならなかったのであった。とにかく心身様々な危機を救ってもらったミトには感謝を伝えなければならない。
「あの…ミトさん。助けていただいてありがとうございました。…お手数おかけしました。」
丁寧に礼をしたつもりだったが、ミトはこちらに1秒くらい視線を寄越しただけで微動だにせず、ひたすら無表情で直立しているだけだった。怒っているのか面倒臭い奴だと思われているのか、そもそも眼中にないのかさっぱりわからなかったが、まず好印象はないとみてトロヴァはそれ以上話しかけることなくルーシーに向き直った。
「よし、ミト、もう出ていいぞ。」
ルーシーにぶっきらぼうに指示されたミトは、無言のまま敬礼するとさっさと部屋を出て行ってしまった。この1分にも満たない用事のためにこの部屋へ呼び寄せていたかと思うと、トロヴァはさらに申し訳ない気持ちになった。
「さてトロヴァ、おまえも報告書を書き直してくるんだ。そして次回もミトの力に頼りきることがないよう、警戒して行動するように。」
「…はぁ、それは肝に銘じておきますけど。あんなに彼女が優秀でこの案件についても知っているなら、最初から彼女に『魔性の泪』の回収を命じておけばよかったんじゃないんですか。」
未だ心身とも疲弊が癒えないトロヴァは半分自虐、半分八つ当たりにルーシーに置き土産の台詞を残そうとしたところ、ルーシーはやや呆れたような表情で即座に言葉を返した。
「ああ?言ってなかったか?この案件は女性には任せられない。『魔性の泪』は女性の生命力しか取り込もうとしないからだ。」
「えっ?それは…どうしてですか?」
「理由はわからない。ただ経験則上、女性しか魅せられた者がいないというだけだ。それが生物学的、若しくは遺伝子的な原因によるものなのか、はたまた最初からそうなるように誕生したのか…ちょうどティーズ邸の女使用人が『男のみを侵す伝染病』を意図的に生み出したように。だから、私やミトが直接回収に赴くことは避けなければならない。」
「確かこの結晶は『魔性の泪』が封印された状態だと説明したはずだが、実際には一時的な応急処置でしかないのだ。時間が経てば封印は緩み再び実態を無くし、また別の女性に乗り移る。いま手元にある3片は特殊な液体に漬けて保存してあるから封印が解かれることはないが、そうでもなければ譬え結晶の状態であったとしても、女性にとっては素手で掴むことですら魅せられる危険を孕んでいるのだ。」
その特殊な液体をどこから調達してきたのか訊きたくなったが、トロヴァはそれ以上に気掛かりな点を確かめずにいられなかった。
「…でも実際にティーズ邸からその結晶を持ち運んだのは俺じゃない。」
「そうだ。どうにかしてミトが直接触れずに移動させたのだろう。この液体入りの瓶も馬車の積み荷の1つだったからな。」
つまりミトは、自分が『魔性の泪』に魅せられるかもしれない危険を顧みることなく最終的な後始末までやってのけたわけである。むしろ『魔性の泪』の性質を考えれば、御者に扮してトロヴァに同伴すること自体、常に命の危険と隣り合わせと言っても過言ではない。万が一『魔性の泪』に魅せられてしまえば、ルーシーの特命に従って殺される運命から逃れられなくなるのだから。
「…そのような事情も知らずにいて利ける口ではないですが、何故その危険を承知の上で彼女を俺に同行させているんですか。」
「以前も言ったとおりだ。この案件が他の誰にも知られてはならない…彼女もまた数少ない関係者の1人なのだ。」
「数少ないって…他にもまだいるってことですか。」
「厳密にはもう1人いるが、そいつも女性だし元より戦闘要員ではない。結局男性はおまえだけなんだよ、トロヴァ。」
結局はそういう結論に行き着くものだと大方予想はついていたが、脇腹の傷から血が滲み出てくるような気持ち悪い痛みを拭い去ることはできなかった。
「それはつまり、俺が失態を侵せばその分彼女の命を危険に晒す可能性が高くなる…俺は彼女を護ることを念頭に置きながら任務に当たらなければならないということですよね。」
他方でそれを聞いたルーシーは一瞬キョトンとした後、わざとらしく声を上げて満面の苦笑いを浮かべて見せた。
「ぶっはっはっは!彼女を護るだなんて、傲慢にも程があるだろう!ミトはおまえに護られるほど軟な人間じゃない、むしろおまえよりよっぽど腕が立つ。性別を転換させて任務に協力させたいくらいだ。そもそも、世界平和維持機構の陰の部隊に所属している時点で、常に危険と隣り合わせの任務を命じられることに変わりはない。だからおまえは、自分自身が生きて任務を完遂させることだけを考えればいいんだ。」
女上官は小馬鹿にしながらも励まそうとしてくれたのかもしれないが、トロヴァは痛みの退かない傷跡を服の上から摩りながら皮肉を零す。
「性別転換という技術が実現するのであれば、議長が男になって『魔性の泪』を直接回収してくればいいでしょう。」
その皮肉に、ルーシーの眉がぴくりと動くのがわかった。
「断固拒否する。男なんて惨めでむさ苦しい種族には、生まれ変わっても成りたくはないね。」
女上官は露骨に顔を顰めて椅子に踏ん反り返った。さすがに一言で男という性を卑下されると、トロヴァも居た堪れない思いだった。
「確かに男女の間には超えられない体格差や体力差があるが、別にそれは男が勝ち得た優越ではない。所詮は染色体1個の違いで男と女のどちらに生まれるかが決まったに過ぎない。それにも関わらず、女が上に立つことを不快に思い高圧的に出しゃばる男の多いこと多いこと。まぁ、ただ性別上の力の差だけで無駄に声を荒げて喚き散らかす能無しの男は、議長になったこの私が片っ端から封殺してやったがな。」
まるで害虫駆除の思い出を語るようなその口振りに、トロヴァは身震いし視線を逸らすしかなかった。この女上官は元より軍人上がりであり当然体力も身体能力も高く、そのうえで頭の回転が速く的確な判断を下すことができる。世界平和維持機構の議会の場で首脳に君臨するに相応しい人物なのである。逆に言えば、そこまでの文武を両立させなければ女は男と対等以上になれないのではないかと思わずにはいられなかった。脳裏に過るのは、ティーズ邸で相対した女使用人クーノの姿であった。
「…今回のカスティタスの伝染病の原因は、女を虐げる男に対する怨念が『魔性の泪』によって止めどない毒へと具現化したことでした。彼女は世界平和維持機構のことも憎んでいたようでした…その…性交渉を強いる男の摘発と処罰を科して自身を救ってはくれないのかと。」
トロヴァが俯きしどろもどろになった瞬間をルーシーは見逃さず、机に肩肘を付いてにやけながらトロヴァの顔を覗き込んだ。
「それは無理な相談だな。何故なら女というものは男を魅了するようにできているからだ。丸みを帯びた柔らかな身体、腰つき。滑らかな腕、脚。艶やかさを保つことができる素肌、髪。心地よい声音に、麗しい瞳に、妖艶な唇に、2つの豊満な…。」
「ちょっ!?な、なにを言い出すんですか急に!?」
「黙って想像していろ童貞!とにかく、女は男の性欲を昂らせてそれを受け入れるよう身体がつくられているのだ!それだけで男にとっては魅力であり価値があるのだ!男に子孫を残そうという意思があるか否かに関係無くな!男の性欲を憎むのならば人間を創造した神を憎むことだな!!世界平和維持機構はお門違いだよ!!」
「なんで逆に怒鳴られているんだ…ていうか議長は女として本当にそれでいいんですか!?」
「もちろんティーズ子爵のような腐れ外道は万死に値するが、仮にそういう輩を摘発するとして、どういう手段を採ればいいのかおまえはわかっているのか?情事の状況証拠を抑えるんだぞ?羞恥に怯える娘であれば、第三者にその証拠が拡散されることもまた苦痛であり必ずしも耐えられるとは言えないだろう…おまえが報告書を詳細に記そうとしなかったようにな。」
未だ左手に握り締めたままの紙屑に汗が滲んでいくのを感じながら、トロヴァは閉口するしかなかった。
「世界平和維持機構がその手の規制について憲章で定めているのは、紛争地域など事実上の無法地帯での人権保護だけだ。あとは国ごとの法規制に任せるのみ。それに…世の中には自ら男を誘惑し身体を売ることで生計を立てている女もいる。生きる上で利害が成り立っているならそれで良しとする男女の関係も暗黙には存在しているんだよ。その女使用人も言い訳を並べず逃げ出すことだって不可能ではなかったはずだ。敢えてその選択をしなかった理由は単なる恐怖だけじゃない…それは、おまえも直に感じ取ったはずだろう?」
「…わかりましたから、いい加減揶揄うのをやめてくださいよ。」
「まぁ、どっちが本当に幸せだったのかは察するに余りあるがな。乳飲み子のまま孤児院にでも引き取られていれば、また別の人生だったかもしれないものを…あの変態子爵のことだ、最初からそのつもりで引き取ったのかもしれないな…胸糞悪い話だ。」
確かに、望まれない命として生を受けてしまったのであれば、実の親のことなど忘れて誰かにとって望まれる命として生きられる道を探した方が幸せになれるのかもしれない。彼女はいつでもあの屋敷から逃げ出すことができたのでは、と考えることは無慈悲に聞こえるが、少女がたった1人で麗しく成長できるほど、世界に慈悲は満ちていない。そのことを身をもって知っていたトロヴァにとっては、あの日ベッドの上で呪いに溺れる女使用人が近いようで遠い存在に思えたのだった。
「…さて、まだしばらく『魔性の泪』に関する情報も入ってきていないことだし、おまえは1日も早くその傷を治して1秒でも早く完全なる報告書を提出するように。わかったな!!」
「さすがに趣味が悪いですよ、議長…なるべく早めに作成するよう努めますので。」
さっさと退室するよう煽るルーシーに呆れ顔で会釈して、トロヴァは隠し部屋から暗く長い通用口へと出た。立て続けに派遣命令が出されなかったことは幸運だった。さすがにこの脇腹の怪我では、長距離を移動するだけでも支障を来すだろう。
トロヴァがもう一度服の上から傷跡を摩りながら前を向くと、何者かが通用口の少し先の壁に凭れかかっているのが見えた。この部屋のことは第三者に絶対秘密であるために、こちらへ向かって歩いてくる人物を一瞬警戒したが、近付いてくると徐々にその人相がはっきりとしてきた…先程ルーシーに招かれたミトであった。
「…あれ、ミトさん。どうしたんですか…?」
トロヴァが右手を上げて尋ねようとしたが、ミトは歩みを止めずに間近まで接近すると、トロヴァの胸座を強く掴み、睨みつける鋭い眼差しの方へ手繰り寄せた。
「…おまえ、今度また禄でもない死に方をしようとするのなら、その前に私がおまえを殺してやる。最後まできちんとその身で贖ってみせろ!!」
低い声音で脅すように訴えると、壁に叩きつけるようにその胸座を放り投げ、ミトは踵を返して足早に通用口の暗闇へと姿を消した。
「痛ってぇ…何なんだよあの女…俺の何を知ってるっていうんだよ…?」
トロヴァは壁に凭れたまま、やはり傷口が開いてしまったのではないかと溜息を零さずにはいられなかった。
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