「ふぅん。孤児でも結構稼げるものなんだな。」
未だ片付けられていないひしゃげた樽の残骸の山の裏で、袋小路の壁を正面にトロヴァとルーシーが並んで座り込んでいた。陽射しが雲に隠れて、少し肌寒く感じる。トロヴァは彼女の提示した条件に従い時間と財産を納めたのだが、財産は小袋ごと全額没収されてしまい、果物の入った紙袋だけを抱えて俯くほかなかった。
「…なんてな。この地区の賃金で子供がこれだけ稼げるわけがない。大部分はくすねたものだろう。」
「……。」
「昨日財布をくすねて追ってきた3人の男をこの樽の山で潰したのもおまえだな?」
小袋をトロヴァの耳元でじゃらじゃらと揺らしながら、ルーシーは素っ気なく呟くように尋ねた。
「…何を証拠に。」
「証拠になるものは探せばいくらでも出てくる。こんな悪戯じみた騒がしいやり方は子供が思いつくような範疇だし、おまえは上手くやり過ごしていると思っているのかもしれないが、現実は単純にこの街がおまえを追及しないだけだ。」
「そういう意味なら、俺以外にも盗みを働く子供は沢山いる。俺がやったなんて証拠は…」
「おまえはこの残骸の山で受け身をとろうとしただろう。この袋小路の空間と残骸の位置取りを把握していなければ、いかに身の熟しがいい才覚のある子供でもそんなことは困難だ。」
無意識だった。だが確かに放り投げられたとき、残骸の山に叩き付けられるであろうことは察していた。打ち所が悪ければ、最悪立てなくなるかもしれないと咄嗟に体勢を整えようとしたのだった。
「…買い物に来る途中に、この袋小路の事故現場を見ただけだ。」
「慣れない嘘をつき続けると引き返せなくなるぞ。その果実が売っていた露店は西にある。希少品だったが故に売り切れるのも早いだろう。そしておまえが住んでいるユーベット孤児院も西だ。孤児院は休日の午前中は皆で清掃をすることになっているはずだから、終わり次第真っすぐその露店に向かわざるを得ない。現在時刻に鑑みれば…態々遠回りしてこの袋小路の前を通る余裕などないと思うがね。」
その場凌ぎの誤魔化しはこの女の前ではまったく通用しそうになかった。怪力なだけでなく、頭の回転が恐ろしく早い。どう足掻いても敵わない強者がすぐ傍で澄ました表情をしながら威圧感を放ち、こちらの尻尾を掴まれているようだった。
「…なんで軍人が孤児院の暮らしなんて知ってるんだ。」
「おいおい普段の勉強も疎かにしているのか?おまえが住むユーベット孤児院は世界平和維持機構によって建てられたものだ。規則を定めたりこの地区に子供でもできる仕事を斡旋してもらったりと、現地で具体的な取り纏めを仕切ったのは我々国際混成軍の第2部隊だがな。ちなみに私はその隊長だ。だから孤児院の生活態様もこのヌーラ地区の街並みも隅々まで熟知している。この街の採石場も我が軍が開発を進めた新しい産業だし、おまえが買ったその果実も、我々の部隊が今朝この街を訪れた際に卸したものだ。」
「…軍人が、この街のために働いている…?」
「まぁ、その辺で銃をぶっ放すだけしか能がない軍人とは根本的に存在意義が違うということさ。我々は、紛争などで貧困に陥った街…そこに住む人々を支援して、必要最低限度の生活が送れるようにするため世界中に派遣されている。」
それを聞いたトロヴァは、淡々と語るルーシーの横顔に圧倒的強者による驕りが過ったように見えて、不貞腐れたように応戦した。
「世話焼きな連中もこの世界にいるんだな。この街も俺も好きで貧しくなったわけじゃない。何の見返りがあるっていうんだ。」
「見返りならあるさ。生活が豊かになれば、生きるために他人から物を盗んだり他人を傷つけたりすることが無くなる。その積み重ねが世界をより平和に、豊かなものへと育ませるんだ。」
「それなら期待外れだったな。この街はずっと貧しいままで治安も悪い。腹いっぱいの食事を摂ることだって滅多にできることじゃない。あんたらの努力は無駄だったってことだ。」
「私にはそうは思えないな。初めてこの街に来た5年前と比べれば幾分かは街らしくなった。当時の紛争が終わってもまだこの国の情勢は不安定で、辺境にあるこの地区までなかなか資源が回らないようだが、この5年間で孤児院をはじめ色んな設備も整ってきた。もっと長い目で見ていく必要があるんだよ。」
「それじゃあ駄目なんだよ…。」
声が震えて紙袋を抱える力が無意識に強くなり、乾いた音が零れ落ちる。ルーシーが横目でちらりとトロヴァを見遣った。
「どうして駄目なんだい?」
「…その間に、消えてしまう命があるかもしれないから。」
その回答に一瞬ルーシーは口元を綻ばせたが、少し間をおいて再び淡々とした口調で話を振ってきた。
「昨日おまえが樽で潰した3人の男…所要があって立ち寄っていたとある貴族の付人だったらしいが…うち1人は打ち所が悪くて即死だったらしい。残り2人も重傷の一歩手前ということらしいが。」
「…それがどうかしたのかよ。」
「いや、赤の他人の命を軽視する奴に、大切な人の命を護れるわけがないよなぁと思っただけだ。」
「なんだと!?」
ルーシーの言い放つ皮肉は鋭利な刃物となって喉元を突き付けてくるようで、トロヴァは反射的に跳ね上がって嫌悪感を剝き出しにした。
「そのままの意味だよ。命の優劣を決めていいのは、お互いが同意の上で決闘したときだけだ。それ以外で人間は人間の命の選別をしていい理由なんてどう足掻いても作り出せないのさ。おまえはそんな選別ができるほど強くて偉ーい人間なのかい?いや、人間を支配できる別次元の存在でもない限りは、そんな所業は赦されないんだろうねぇ。」
「…あんたこそ、何をそんなに偉そうに…!」
「はっきり言っておくよ。そういう傲慢な人間はね、例外なく人間たちによって社会から排除されることになるんだ。特におまえみたいな孤児は、他人1人傷付けただけで容赦なく居場所を奪われかねない。孤児院だって匿えることには限度がある。…だから本当に大切な人を護りたいのなら、もっと賢い方法を考えるべきなんだよ。」
この圧倒的に敵わない女にそんなことを言われてしまっては、最早駄々を捏ねるように反論する気も起きなかった。彼女はすぐ隣に座っているはずなのにずっと高い場所から見下ろされているような気がして、トロヴァは顰める目元が潤んでくるのを感じた。
「…そんなの、わかんねぇよ。」
「ふっ。子供にはまだ難しい話だな。」
「そういうんじゃねぇよ…俺はあんたみたいに強くないから、沢山のものを護ることができないんだ…だからたった1つだけ、せめてたった1つだけでいいから護りたい。でもあんたらが定めた規則のせいで自由が利かない。お金も十分に稼げない。…親も生まれた場所も知らない貧民街の孤児は、護りたいもののために必死になることも赦されないのかよ!?」
柄にもなく声を荒げてぐずり出してしまうと、そっと頭を撫でられた。片膝を付いて中腰で向き合ったルーシーは穏やかに、だが力を込めた声でトロヴァに告げた。
「その願いが叶うように、我々はこれからも活動を続けていく。だから、直ぐに生活が豊かにならなくても、誰かのために生きようとするその心だけは失わないでいてほしい。それと同じように、おまえは自分自身のことも必ず大切にするんだぞ。」
頭から流れ落ちてくるような温かさをその身で受け止めながら、トロヴァは小さく頷いた。
「おまえ齢十になるまでもう少しじゃないか。孤児院を出たら、私が稼ぎのいい仕事を斡旋してやる。それで大切な人に仕送りをするんだ。そうやって長い目で物事を考えろ…いまその人の身をいくら案じたところで、自分自身の首を締め付けるだけなんだからな。」
薄汚れたコートの裾で目元を擦ると、改めて眼鏡越しの真っすぐな黄金色の瞳を見つめてもう一度頷いた。
「そうそう、それにもう何年か成長すれば、おまえもいい感じに可憐な少女になるやもしれないしな!」
「え、いや…俺男なんですけど。」
「え!?そうなの!?」
正直に驚いたようなルーシーは、目を丸くしたまま素早くトロヴァの穿き物を下着ごと引っ張り中を覗き込んできた。
「ちょ!?馬鹿野郎!!何すんだよ!!」
「ふーむ、これは1本取られたな…いや、1本が元からあったと言うべきか。」
乾いた青空に再び太陽が顔を出したヌーラ地区の袋小路で、高らかな女の笑い声が響き渡った。
「ただいまー、クラエ先生ー。」
「トロヴァ!?ちょっと遅いじゃない、皆お昼ご飯食べちゃったわよ!?」
孤児院に帰り玄関を開けながらトロヴァが呼びかけると、クラエが待ち侘びていたかのように近くの部屋からバタバタと出てきて駆け寄ってきた。
「まったく勝手なんだから…ってあれ、ルーシー部隊長さん?」
「やぁクラエ、元気そうだね。すまない、ちょっとトロヴァくんと話し込んじゃってね。」
トロヴァを玄関口に押し込むように、後を付いてきたルーシーがキリッとした口調で姿を現しクラエに挨拶をした。孤児院訪問が運営の元締めたる彼女の予定に最初からあったのかどうかは不明だったが、飄々とした性格なうえ一連の出来事について何を喋り出すかわからない以上、トロヴァは不安と焦燥感に苛まれていた。
「あら、トロヴァその紙袋、軍人さんの露店のやつじゃない。何を買ってきたの?」
だが心臓を揺さ振ってきたのは何気ないクラエの質問の方だった。まさかクラエが紙袋で露店を識別してしまうとは予想外だった。軍人の露店とはいえ特別に仕入れた商品が多く決して手頃な値段では取り扱っていなかった。勤勉なトロヴァは駄賃も地道に貯めているものだとクラエは思い込んでいるのかもしれないが、窃盗を重ねて貯め込んだお金を使っているとバレれば、規則違反どころではなく最悪孤児院にすら居られなくなるかもしれない…トロヴァの脳裏には先のルーシーの戒めの言葉が過った。
「ああ、これは私が奢ってやったんだ。どうしても土産に持って帰りたいようだったんでな。」
トロヴァの緊張感を見透かしたのか、ルーシーが頭をポンポンと軽く叩きながら乾いた笑いを溢した。
「そうだったんですか!?態々すみません…ほらトロヴァ、ちゃんとお礼は言ったの?済ましてあるのなら早く部屋に戻りなさい。フィルマが心配して待ってるから。」
まったく訝しむ様子のないクラエを傍目に、トロヴァはルーシーに小さく会釈して足早にフィルマのいる自室へと直行した。どうしてルーシーがどうでもいい嘘を付いたのかがわからず依然不安で靄々したが、いまはフィルマにこの果実を届けることを優先した。
「…クラエ、それからこれを渡しておく。」
トロヴァが廊下の奥に姿を消したのを見届けると、ルーシーは改めてクラエを呼び止めて小袋を手渡した。
「…どうしたの、こんなに沢山のお金。」
「私からの個人的な寄附金…ということにしてくれ。今朝がた私を狙った不届きな盗人から逆に徴収したものだ。」
「…待って、ルーシーさん!」
用事が済んだのかさっさと孤児院を後にしようとするルーシーの肩を、クラエが掴んで引き戻した。
「教えてください…その盗人の正体って…。」
「あ、お姉ちゃん、おかえりなさい。」
フィルマはいつも通りベッドに横たわったままトロヴァを迎えたが、昼食を食べた後であったためか少し微睡んでいるようだった。だが直ぐにでも食べてほしくて、トロヴァはくしゃくしゃになった紙袋から紅い果実を引っ張り出した。
「ごめんよフィルマ、遅くなって…。ほら、約束の果物だ。ちょっと小さいけど…その分、栄養が沢山詰まってるはずだ。さぁ、食べて!」
「ありがとうお姉ちゃん。それじゃあ、いただきます。」
フィルマはゆっくり上体を起こして壁に凭れかかると、小さな口でそっと果実に齧りついた。
「…どうだ、フィルマ。美味しいか?」
「…うん。甘いのと、酸っぱいので、美味しい!こんな美味しいもの食べたの、初めて!!」
その愛らしい姿でしゃこしゃこと果実を頬張りながら見せる、待ち焦がれていた満面の笑みにトロヴァは思わず安堵した。だがその裏では、予てより願っていたほどの大きな喜び、満足感が得られなかったことに内心戸惑った。やはりルーシーの戒めが心に深々と突き刺さり、衝動の抑止力となっているのだろうと思った。昨日までは他人を傷つけて物を奪い一方的に勝ち誇ることが当たり前だったが、今日でその価値観は雪崩落ちてひしゃげた樽の如く惨めな残骸へと変貌した。確かに目当ての果実は買えたが、結局自分自身で稼ぎ貯めた金だけでは手に入らない代物だった。目の前に咲く天使の微笑を前に、誇れたものなど最早虚無であった。
「よかったわね、フィルマ。トロヴァに感謝しなさい。」
我に返ると、背後でクラエが腕組みをしながら優しい顔を取り繕っているのがわかった。
「…トロヴァ、あなたに話しておきたいことがあるの。ちょっといいかしら。」
クラエが部屋の外へ誘い出そうとするのを見て、トロヴァは嫌な予感が的中したと思った。やはりあの女隊長がクラエに一連の出来事について告げ口をしたのだ。だが冷静に考えてみれば、孤児院の元締めとして問題児の情報を管理人と共有することは職務として当然のことであった。罰があるなら甘んじて受けなければならない…昨日までは誰にも追及されなかっただけなのだから。
「…お姉ちゃん、これもっと食べたい。」
ベッドの傍から離れようとしたトロヴァの右手首を、フィルマの小さな左手が掴んできた。果実の汁でややべっとりしていた。
「ごめんよフィルマ、また今度買ってくるから…もう全部食べたのか?」
ふらりとフィルマの方を見下ろすと、紅い果実は跡形もなく食べ尽くされてしまっていた。小さな果実ではあったが、彼女の小さな口が丸ごと食べきるにはあまりにも早すぎた気がした。彼女の萌黄色の瞳が爛々と輝いていたが、表情はどこか熱に浮かされたようにぼんやりとしているようであった。
「もうないの?…もっと、食べたいよぉ…。」
「こらフィルマ、駄々を捏ねるんじゃありません!それにこれ以上食べたら、お腹壊しちゃうわよ?」
見かねたクラエがこちらへ戻ってきて、ぐずつきそうなフィルマを宥めようとした。トロヴァは掴まれている右手首を振り解こうとしたが、手首は何かに固められているように微動だにしなかった。フィルマが掴む力が強いわけではない。よく見ると、いつの間にか手首には蔓状のものが巻き付いていた。その蔓はフィルマの草臥れた袖の中から何本も伸びてきており…急速に成長していた。
「もっと…欲しい…欲しいよぉ…ちょうだいよおおおおおお!!」
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