魔性の泪

生と死の問いかけを重ねた先に待ち受けるものは何か。
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修道女の哀願 -あとがたり

公開日時: 2021年12月31日(金) 20:21
更新日時: 2022年1月23日(日) 23:37
文字数:4,565

世界平和維持機構…平たく言ってしまえば、この世界の連合諸国から代表を選出して議会を編成し、世界の紛争を仲裁したり貧困の解消を働きかけたりする国際機関である。議会は各国交代制で議長を任命し、平和維持活動のための国際混成軍や医療班を編成・指揮する最高責任者を兼務させている。

しかしそれは表向きの姿であり、陰では目的を円滑に実行するために諜報や暗殺を働く組織が存在していた。議長の管轄下で代々継承されているこの組織もまた、世界平和維持憲章に定められた目的に沿ってのみ運用が許されている必要悪であった。

現議長であるルーシーは就任後間もなくして、当機関の表裏どちらの姿も支持される敏腕な働きを見せていた。だが、そのルーシーがさらに秘密裏に、独断レベルで兼ねてより調査している案件があった。彼女はそれを、『魔性の泪』と呼称していた。


「今回のディレクタティオ修道院における報告書を読ませてもらったけどね…トロヴァ、おまえは本当に口下手だねぇ。」


古びた木造の長机に置かれた大きめの瓶の中にはよくわからないが透明な液体が満たされており、紅く淡い輝きを放つ掌サイズの結晶が沈んでいる。そのほのかな明かりに見惚みとれているのか報告書を片手にダラっと机に突っ伏しているその様は、とても普段の世界平和維持機構議長としての毅然とした姿からは想像できない。議会や軍隊に対し常に眼鏡の奥でギラついている釣り目が、いまは何とも気怠けだるそうである。トロヴァはそんな女上司を前に表情を緩めることなく佇むほかなかった。


「まず最初にシスター・ドールに投げかけた2つの質問。何だよこれは。お堅い新人刑事を雇った覚えはないんだがな。」


「…彼女にこちらの目的を悟られないよう、真っ当な理由を以て処罰を科せられるとか、懸賞金が掛けられているとか、適当な思い込みをしてもらえればと思いまして…。」

「ハッタリ下手糞か!…まぁハッタリを利かせないことには『魔性の泪』の回収が難しいと言ったのは私だがな。魅せられた女の危機察知能力は計り知れない、僅かな殺意にも敏感だからこれまでのような暗殺の経験は通用しないと言ったのは私だがな!」


助言が上手く効かなかったことが不満なのか、単にふざけているだけなのかわからないが、ルーシーは起き上がってさらにまくし立てる。


「その後も問題点だらけだ。修道女シスターの煽りにことごとく引っ掛かっては、その度に彼女に火を点け反撃を喰らっているではないか。どれだけあの修道院に墓穴をこしらええたかったんだおまえは!」

揶揄からかわないでください議長。俺は交渉人じゃないんです。」

「知っている!だから口下手だと言っているんだ!討伐対象と主義主張をぶつけ合う暗殺人がどこにいるものか!」

「それは解ってます。解ってまけど…。」


人間は生きるために自分の赦せないものを排除することは当たり前…シスター・ドールが何度も繰り返した主張が脳内にこびり付いて、未だに消えないままであった。だが今になって思い返せば、自分は自分、他人は他人と割り切れば済む話だったはずである。

くぐもったトロヴァに対しルーシーはまだ何かいじりたそうだったが、椅子にきちっと座り直すと咳払いをして真面目そうな口調に戻った。


「まぁこの案件では最初の任務だったし梃摺てこずるのも無理ないか。『魔性の泪』に魅せられた女はとにかく生き永らえるための執念が強くなる。身体的な強化や魔法めいた能力を以って力尽くで敵対者を排除するだけでなく、己の死生観を強く訴えかけることで相手を惑わそうとする傾向がある。そういうことを頭に入れて、次の『魔性の泪』の回収も頼んだぞ。」


「こんな任務があと6回も続くんですか…もっと他に任せられる人はいないんですか?」

「いない。理由は2つだ。1つは『魔性の泪』に対抗し、かつそれを回収するための道具が1つしかない。その短剣ユーディジウム…使い方はおまえが実際に振り回してみた通りだ。もう1つは、この案件が他の誰にも知られてはならないということだ。」

「それですよ。1人しか頼れないのならもっと優秀な部下を起用すればいいでしょう。俺はただ、拾ってもらっただけの…。」

「そうだ。この案件が他の誰にも知られてはならないからおまえを起用している。まさか私との出会いを忘れてしまったわけではあるまいな。」

「その割には5年以上も暗殺部隊として訓練させて…実地でヘマしたらどうするつもりだったんですか。」

「トロヴァという人間はその程度の才覚だった、という一言で終わるだけだよ。そもそも十分な能力が備わっていなければこの案件を任せるわけにはいかないだろう?」


ルーシーの無慈悲であっさりとした回答は至極当然のものであり、トロヴァも小さく頷かざるを得なかった。


「だが当然今後も魅せられた女が暴れた現場に関しては私が別部隊を動かして事前に情報を集めさせ、場合によっては魅せられた女に対して包囲網を敷く。そういう意味ではおまえ1人で立ち向かわなければならないというわけではない。ただ魅せられた女に直接手を下し、『魔性の泪』を回収する特別な使命を背負っているのがおまえだけだということだ。」


その特別な使命が結局この案件における仕事の9割方を占めているのではないかとトロヴァは反論したかったが、その前にどうしても呑み込めないことがあって、思い切ってルーシーに問いを投げかけてみた。


「あの、議長…『魔性の泪』を回収するためには、魅せられた者を殺すことが必須なのですか?」


対するルーシーは両目をややギラつかせ、少しトロヴァの発言が意外そうな、若しくは興味深いような反応をしてみせた。


「なんだ?無垢な女を手に掛けることに抵抗があるのか?」

「そういうわけでは…ただ危機察知能力が優れているのであれば、殺害すること以外の方法で回収することが叶わないものかと…。」

「残念ながら殺害以外の方法はない。『魔性の泪』の力は魅せられた対象の生命力と完全に融合してしまっているからだ。だから『魔性の泪』を抽出するためには魅せられた対象の生命力を消滅させることで分離させるほかない…だが単純に殺害するだけでは『魔性の泪』は実体を伴わないために、すぐさま別の女に乗り移ってしまうだろう。しかし唯一、短剣ユーディジウムで対象を殺害した場合のみ、『魔性の泪』を結晶化させ封印させることが可能とされている。」


ルーシーはその結晶が密封された瓶を小突きながら、淡々と説明を言い聞かせた。それに対してトロヴァは2つ目の問いを投げかける。


「それではもう1つ、議長のお考えをお尋ねします。…人間は、死んだ後どうなると思いますか。」



2つ目の質問にルーシーは表情を変えなかったものの、その眼差しから好奇心が露骨に色褪いろあせていくのがわかった。


「考える必要性を微塵も感じない。人間はいつか必ず何らかの理由で死を迎える。だからこそ生きている間は生きることだけ考えればいいし、人間は皆そうするべきだと思う。」


そういう回答が返ってくるものと、トロヴァは大方予想していた。この人は強い。だからすんなりとそういう考えを吐露できる。だがそんな女上官はトロヴァが言わんとしていることを探るように、敢えて自ら回答を掘り下げていく。


「あのディレクタティオ修道院は、信者達にとって総本山のような場所だったらしい。だからそこで仕える聖職者は善く言えば厳格、悪く言えば過激な連中で、教典と信仰が人生の設計書のようなものだと考えている…死して肉体が滅んでもなお続いていくことをこいねがう人生のな。故に、それらを逸脱した思想発想は彼らの人生そのものの否定に繋がることから、容赦なく排除される。あの修道院の地下深くには処刑台が隠されているのを知っているか?おそらくシスター・ドールもそこで処刑されそうになったのだろう。そして『魔性の泪』の力が発動した。…トロヴァ、おまえは愚かだと思うか?理不尽だと思うか?死後の自分の姿にすがり付く者がいなければ、あの丘で誰の命も失われることなどなかったのだから。」


トロヴァは先日の廃墟と化した修道院を思い起こしながら、言葉を選んでいく。


「…人間は誰しも、自分を構成するすべてを喪失する『死』という予定された危機に脅えるものだと思います。その危機から逃れるため、死の不安から救われるために他を攻撃することが愚かな行為だとは思いませんし、攻撃を受けることが理不尽だとは思いません。」

「それは詰まるところ…シスター・ドールの主義主張を擁護するものと捉えても良いのかな?」

「違います!彼女はそのうえで、人間の命を奪うことを正当化して自分を見逃すよう要求してきた…その考えだけは、容認できませんでした。そんな主張がまかり通るのであれば、俺は…。」


トロヴァは首から下げている2つのタグを服の上から握り締め、昔大切なものを失ったその理由をもう一度探そうと試みた。


「…やれやれ。おまえが未だなおそれほどまでに大層な罪悪感で日々心臓を動かしている人間だとは思わなかったよ。」


対するルーシーはわざとらしく大袈裟な溜息をつき、肘をついて面倒臭そうな表情でトロヴァに質問を返した。


「あのなぁトロヴァ。おまえは自分のことを赦されない人間だと思っているようだが、いつまでおまえは自分自身が裁かれることに脅えているんだ?おまえに罪の償い方を教えてやったことすらも忘れてしまったのか?」


そのときトロヴァは身体のど真ん中を射抜かれたかのような、冷たく痺れる感覚が全身に広がっていくのを感じた。シスター・ドールに対しあれだけ応酬を続けておきながら、結局はただの同族嫌悪だったのではないかと思うと頭痛がした。

自分が生き永らえるために数えきれないほどの人間に危害を加えてきたことは、決して赦されないことであり自分は愚かしい存在であると認めてはいたが、はたから見ればそれはどれだけ愚かしい存在であったとしても受け入れてほしいと嘆きすがっている脅えた生き物の姿に他ならなかった。

どれだけ十字架を背負っていたとしてもそのままの自分を他の人間と同じように扱ってほしい、この世に存在し続けることを赦してほしいと希うその有様は、たとえこうして生かされているとしてもあの修道女と何ら変わりのない惨めなものだと悟った。


「…まぁそうだな、そういう意味ではとても人間らしいとは思うぞ。他人を攻撃しなくても排除しなくてもいい、そうする必要のない世界があるとしたらそれこそ天国だ。生きている間は決して到達することのできない楽園…宗教が興る理由もなんとなくわかる気がするな。」


沈黙するトロヴァに代わってルーシーが話を畳んでしまうと、古びた机の引き出しから1枚の丸められた羊皮紙を取り出してトロヴァに突き出した。


「報告をもらったばかりで悪いが、早速次の任務だ。なんでも大規模な災害が起こったようだが…『魔性の泪』が引き起こした事件である可能性が高い。内容をよく読んで、直ぐにでも出発してくれ。」


「…承知いたしました、議長。」


トロヴァは小さく畏まると、その場から逃げるように立ち去り部屋の扉を閉めた。



隠し部屋から外へ出るための長い通路を足早に移動しながら、この『魔性の泪』の回収を何としてでも完遂させてやろうと強く自分に言い聞かせるのであった。

…己の過去を清算し、彼女の分まで真っ当に生きるために。

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