「おい!大丈夫か!?目を醒ませ!!トロヴァ!!」
暗闇の中で聞き覚えのある声が降りかかってきたかと思ったら、その暗闇がぐらぐらと揺れ出した。そして視界が下から上へ開けてくると、朧気な景色に徐々に焦点が合ってきた。目の前に映っていたのは、幾重にも連なった植物の蔓の壁だった。蔓はどれも淡い光を発しながら、脈打つように不気味に震えていた。トロヴァはそんな蔓でできた檻の中に幽閉されているようだった。そのうえ下半身は蔓に埋もれて身動きがとれなかった。顔と上半身の左側だけが自由に動かせたのは、ルーシーが左側の蔓の壁を短剣で切り裂いて抉じ開け、身体に絡みついた蔓を解いてくれたからであった。
「あんたは…さっきの…?」
全身どこにも痛みはなかったが、長時間微温湯に浸かっていたかのような酷い倦怠感に襲われていた。声を振り絞ってみてもなんだか張りがない。一方のルーシーは必死の形相で自分に絡みつこうとする蔓を捌きつつ、トロヴァの傍に抉じ開けた穴が閉じられないよう切り裂き続けていた。
「時間がない!一度しか言わないからよく聞け!この蔓の発生源を斬ろうとしたが、護りが堅すぎて弾かれてしまう!だからその反対側でかつ発生源の一番近くにいるおまえがこの短剣を使って斬るんだ!この巨大な植物の成長を止めるには内側から崩すしかない!この短剣を使って発生源になっている人間を殺せ!!早くしないと最悪この街ごとこいつに何もかも呑まれる!!頼んだぞ!!」
ルーシーは口早に説明してトロヴァの左手に短剣の柄を押し付けると、間髪を入れず後方へ飛び跳ね、それを逃すまいと噛み付くように夥しい量の蔓が勢いよく上下から生えてきた。既の所でルーシーは逃れたようだが、トロヴァは再び蔓の檻に閉じ込められてしまった。
ルーシーが空中で身軽に一回転し近くの家屋の屋根に着地すると、屋根伝いに統率下の隊員が駆け寄ってきた。
「隊長!植物の拡大を人海戦術で阻むのには限度があります!どうか重火器の使用の許可を!!」
「駄目だ!!あの中には大勢の人間、孤児院の子供たちが取り込まれている!!一緒に燃やし尽くすことは避けなければならない!!」
「じゃあどうするんですか!!?」
「状況を打開する鍵をあの中に預けてきた!もう少しの辛抱だ!その間に住民の避難区域を広げろ!!」
追い払うように隊員を蜻蛉返りさせると、ルーシーは足元に這い寄ってくる蔓を別に携えていた剣で払い除けながら、ユーベット孤児院が建っていた場所に高さ6メートルほどまで樹木の様に伸び上がった蔓の塊を睨み付けた。止めどなく溢れる大量の蔓は最早孤児院を覆い尽くして原型がわからなくなり、そのまま地表を這って唸りを上げるように周辺家屋を侵食しつつあった。そして蔓に呑み込まれた何十人もの人間の安否は不明であった。
一方でその樹木の頂点部分に囚われているトロヴァは、ルーシーから預けられた短剣を握り締め、伝言を気怠い脳内で繰り返した。
『発生源となっている人間を殺せ』
…その人間とは紛れもなく、右手首を固定したまま離さず蔓の檻に覆い被さるような体勢で沈黙しているフィルマのことであった。フィルマは全身淡い光を発しながら気を失っているようだったが、蔓は絶え間なく成長を続けていた。
トロヴァは微睡を覚えつつあるなかで、どうしてこんな状況になってしまったのか、過去の風景をふわふわと脳内で巡らせた。
これは自分のせいなのか。自分が買ってきたあの紅い果実が原因だったのか。否、あの果実は軍人が降ろした品物であり他にも買って口にした者もいたはずだ。
きっと原因は自分だ。フィルマを景気づけるため、彼女の笑顔を見たいがために高価で栄養価のある食べ物を与えていたが、フィルマはその分だけ舌が肥え、着実に欲深くなっていったのだ。
ゆえにこれは欲求不満の暴発…なぜ夥しい蔓が発生したのかは不可解だったが、それ以外のきっかけは考えられなかった。むしろこのきっかけは自分が原因であるうえに自分以外知り得ない…すなわち、自分で責任をとるほかないことを悟った。
だがこのとき、『殺せ』という指示は理解を受け付けず宙に浮いたままであった。きっとあの女隊長は鬼気迫られて乱暴な言葉を使ったに過ぎないのだ、と。自分は責任をとるためにまずフィルマを助け出さねばならない。
そのためにはまずフィルマの左手と蔓で固定されている右手首を解放させることが先決だった。絡みつく蔓は強靭に見えたが、短剣を宛がうだけでプツプツと切れていった。とはいえ利き手でない方で短剣を動かし、ぼんやりした頭を働かせて絡みついた蔓を切り解くのは容易い業ではなかった。なんとしてもフィルマの小さな手を傷付けないよう、できる限りの最新の注意を払おうとした。
だが突然蔓の檻がぐらりと揺れ出し、刃先に力を入れる方向がずれた。右手首は解放されたが左腕を振り切る格好になってしまい、フィルマの細い腕を浅く擦り斬ってしまった。
「いやああああああああああああああああ!!」
檻が震えるかのようなフィルマの劈く悲鳴が反響し、トロヴァは思わず両手で頭を抱えた。だがかえってその悲鳴で気怠さが吹き飛び、焦燥感も相まって視界も思考も明瞭になった。
「だ、大丈夫かフィルマ!?ごめん、ごめんよ!!痛かっただろう!?俺のせいで…!?」
慌ててフィルマに与えた傷跡を確認しようとしたが、淡く光りを放つ素肌は波打つようにその傷跡をじわじわと埋めていき、あっという間に閉じてしまった。思わず目を見張るトロヴァだったが、頭上から覗くフィルマの呼吸が急激に荒くなっていることに気付き、大声で呼び掛けた。
「落ち着くんだ!フィルマ!!深呼吸だ!!一度息を深く吸って…吐いて…吸って…吐いて…。」
トロヴァの声は届いているのか、フィルマは言う通りに従って徐々に呼吸を落ち着かせていった。もとより先の急速な傷の修復のときだけ呼吸が荒くなっていたようにも窺えた。だがフィルマは呼吸を落ち着かせても、高熱に魘されているかのような苦しそうな息遣いであった。
「たすけて…おねえちゃん…いのちが……はいって…くるの……みんなの…いのちが…。」
フィルマは顔も火照り大量に汗をかいていた。トロヴァは蔓の檻の上に凭れるフィルマを救出したかったが、その前にすっかり蔓に埋もれている下半身を掘り返さなければならず、必死で短剣を振り回していた。
「おねえちゃん…わたしね……もっと…いのち…つよく…しなきゃって……おもった……おねえちゃん…と…たくさん……あそべる…ように……。」
「無理して喋るなよフィルマ!!いま助けてやるから!!もうちょっとだけ頑張れよ!!」
「…でも……やっぱり……だめだ…ね……。」
「フィルマァァ!!!」
最早衰弱しきったような声が零れ落ちてきて、トロヴァは思わず声を荒げながら天を仰いた。全身が凍り付くような危機感に迫られてその目は血走っていたが、火照ったフィルマは対照的に、嘗て何度も見てきた優しい天使のような笑顔をしていた。
「みんなの……いのちを…つかって……いきる…なんて……ずるい……よね……。」
その言葉ののち、蔓の檻には沈黙が訪れた。そして徐々に蔓がそこら中で軋んだ音を立て、崩れるようにして檻はひっくり返り地面へと墜落した。その地表に衝突する瞬間までトロヴァは声にならない叫びを上げてフィルマを起こそうと躍起になっていたことを、朧気に記憶し続けるのであった。
「…結局ユーベット孤児院は全壊、周辺家屋も数十軒に渡り損壊被害が生じたが…死亡したのは魅せられた幼女1人だけ。あの蔓に呑み込まれた者は揃って生気を吸われたような衰弱っぷりだったが、命に別状はなかった。まさか、能力が発現した直ぐ近くに居合わせることになるとはな…よりにもよって、あの孤児院で。」
ヌーラ地区の東にある国際混成軍の駐屯地の自室で、黄昏色に染まりつつある虚空を仰ぎながらルーシーは呟いた。巨大な蔓植物の化物のようなものが出現した日から3日が経過していた。
魅せられた幼女が死亡してから間もなくして夥しい量の蔓は急速に枯れ細り、塵と化して貧民街の埃っぽい空気と混ざり消えていった。その幼女は髪の長い少年の腕の中で息を引き取っているのが確認できたが、少年が悲嘆に暮れて涙を流しながら気絶して倒れていたのに対し、幼女の表情はどこか安堵したような安らかなものであった。
「しかし外傷がないのに魅せられた女は死亡した…初めて見る事例だったが、囚われた人間が一様に衰弱していたことを鑑みれば、魅せられた女の能力が生気を吸い上げる類のものであり、その大量の生気に幼い身体が耐え切れずかえって命に負荷がかかり、最終的にその身を滅ぼしてしまった…と推測するのが妥当だろう。魅せられていたとしても、必ずしもその力を自由に制御することができるわけではない、ということか。」
頭の中で一連の事態について考えを纏めていると、自室の扉を叩き訪ねてくる音が転がってきた。入室が許可されると、隊員が1人の髪の長い少年を引率して入ってきた。ルーシーがその隊員と一言交わすと隊員はびしっと敬礼してあっという間に部屋を出て行った。
「3日ぶりだな、トロヴァ。全然元気そうではないな。おまえ、まともに支給された食事を摂ってないだろう。」
敢えて普段通りの調子で声を掛けてみたが、長く伸びた髪も相まって俯き加減な少年の姿は案の定陰鬱であった。他方で、単に虚無感に憑りつかれ絶望しきってしまったわけではなく、微かに燃え上がる執念のような何かがその身体の奥深くに秘められているようであった。
「…まぁいい。今日おまえを呼び出したのは他でもない、例の短剣を返してもらうためだ。当然、持ってきただろうな。」
ルーシーがトロヴァの正面に立ち見下して左手を差し出すと、それに応じるようにトロヴァも薄汚れたコートから古びた短剣を取り出した。だがトロヴァはその柄をぎゅっと握り締め、剣先をルーシーに向けて立てて構えをとった。
「…鋏を相手に手渡すときの持ち方を孤児院で教わらなかったのか?…それとも、そんなしょぼくれた短剣で私を脅迫でもする気なのか?」
ルーシーはまったく動じることなく、腕を組んでトロヴァを見下ろし続ける。トロヴァの短剣を構える右腕が小刻みに震えてくるのがわかった。そして俯きながら小さく重苦しい声を漏らした。
「フィルマが死んだのは…俺のせいだ。俺が他人の命を軽んじて罪を重ねた報いを受けた…そう思ってる。だがどうしてフィルマはあんなに悍ましい最期を迎えなきゃならなかったのか、この世のものとは思えない怪物に呑まれて苦しまなきゃならなかったのか、そこだけは理解できない。あいつの死に納得してあいつの分まで生きてやろうって思えない。…でもあんたは知ってるんだろ?あの化物が何なのか。だからこそあのとき俺にこの短剣を託したんだろ?すべてを把握していなければ、いかに身の熟しが良くて頭が良い女隊長でもあんなに素早く対応なんてできない…違うのか?」
「これはこれは。柄にもなく褒めてくれているのかい?」
「惚けるな!!どうしてフィルマがあんな死に方をしたのか、あんたは知ってんだろうって訊いてんだ!!」
室内を包み込んでいた沈黙を切り刻むように、苛立ちを隠せなくなったトロヴァが声を荒げた。だがルーシーは表情を一切変えることなく冷淡に返事を落とす。
「私が知っていることを話したとして、おまえはどうする気だ。復讐の道でも歩いていくつもりか。」
「…おまえには関係ない。」
ぶるぶると振れる短剣の先を、ルーシーは左手で軽く摘まんだ。力が入っていないような摘まみ方なのに、短剣の震えがぴたりと止められた。
「関係あるんだよ。それは私が歩こうとしている道だからな。尤も復讐だなんて反吐の出るような道じゃない…反吐が出ることも忘れるような、途方もない永遠に続く道だ。」
抑えられた剣先を通じて、痺れて動けなくなるような威圧感が改めて伝わってくる。初めてこの女隊長に出会ったときも感じた、圧倒的強者による重圧…トロヴァはそれに抗うように、慎重にその顔を見上げた。
「どうしておまえの大切な少女があのような力を発動したのか…それは、あの娘が生きたいと強く願ったからだ。」
彼女の目つきは最早ふざける様子もない、軍人として敵対する者を始末せんとギラギラ輝くものであった。
「なんだよそれ…そんな当たり前のこと…。」
「当たり前だ。だがその当たり前を強く願ったが故に魅せられてしまう…そしてそれを叶えるために自然を操るような妖しい力で環境を作り変えようとする…そういう怪奇現象みたいなものが、昔からこの世界にはあるんだよ。世間には理解が追い付かないようで、怪奇現象の一言で片付けられてしまっているが、私はこれを嘗て世界に降り注いだ厄災だと捉えている。古今東西人間の命を転々としながら生き永らえている厄災…これを収束させることが、私が歩こうとしている道の終着点だ。」
背筋が凍りそうな重圧のなかでルーシーが明かした野望は、どこかこことは違う世界のお伽噺のように聞こえたが、フィルマの凄惨な最期の記憶と重ね合わせると、ルーシーが追い求める獲物が直ぐ真横に立っているかのような緊張感となって全身をさらに身震いさせた。
「つまり…フィルマはその厄災によって命を奪われた…?」
「そういうことだ。そしておまえが頑として離さないその短剣は、例の厄災を封印するための唯一の武器だ。」
トロヴァはこの短剣が強情そうな蔓を易々と解くように切り払っていたことを思い出すと、スッと腕の力を抜いて構えを解いた。そしてその古びた短剣を両手の上に慎重に寝かせると、畏まりながらルーシーへ献上してみせた。
だがルーシーはトロヴァの指を畳ませながらその献上を押し戻してきた。
「私が厄災を追っていることは他言無用。つまりこれをおまえに話した以上、おまえは私の手足とならなければならない。だからその短剣もおまえに預ける…ただしその短剣:ユーディジウムはおまえの命より重いものだ。万が一失ってもおまえの命では贖えないものと肝に銘じておけ…わかったな?」
予想外に重要な代物だった短剣を押し戻されただけでも動揺していたのに、そのうえでルーシーに協力を強いられることになり、込み上げる戸惑いで頭がグラグラしてきた。
「えっ!?いや…どうして、俺なんかを…。」
「なんだ?私はおまえに義妹の敵討ちに挑める唯一無二の機会を与えようと言っているんだ。まさかとは思うが断るつもりか?」
「違います!違います…ただ、齢十にも満たない子供があんたの力になんかなれるわけが…。」
「勘違いするな。力を貸せとは言っていない。手足になれと言ったんだ。だがもちろんすぐに使える手足だとは思っていない。これから私の指揮下でみっちり働かせて生き抜く力を身に付けさせてやる…精々ありがたく思うんだな。」
「そ、そんな…この街で罪ばかり犯してきた俺が、易々と何食わぬ顔であんたの下で働くなんて…」
「…ふむ。3日前はもっと図太い奴だと思っていたが、随分としおらしくなったものだな。」
ルーシーは溜息混じりに顔を振ると、傾く夕日が眩しい窓に背を向けながら机に腰を寄り掛からせ、不敵な笑みを浮かべながらトロヴァに問いかけた。
「それなら私からおまえに罪の償い方を選ばせてやる。①財産、②食糧、③身体、④時間…このうち2つを被害者である私に納めるんだ。とはいっても、おまえはもう①と②に関しては何ら持ち合わせがない。必然的に③と④になるわけだ。これで私の手足として働く意義が見いだせただろう?」
ぐらつく視界を上から抑えつけられるような聞き覚えのある条件提示に、トロヴァは胸がじんわりと熱くなるのを感じた。
「…③の身体は別段得にならないって、言ってませんでしたっけ。」
「ああ、あのときはおまえを女だと思っていたからな…お兄ちゃんなら、大歓迎だよ。」
夕日の陰で女隊長の不敵な表情はよく見えなかったが、トロヴァは首から下げた2つの銀色のタグを優しく握り締めて大きく息を吐くと、その陰に向かってゆっくりと一歩を踏み出した。
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