魔性の泪

生と死の問いかけを重ねた先に待ち受けるものは何か。
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Ⅳ.過ぎ去りし日々

天使の微笑 ー前編

公開日時: 2022年1月18日(火) 23:23
更新日時: 2022年2月8日(火) 21:24
文字数:6,061

―6年前―


餓鬼がきがあっちにいったぞ!!追え!!」


黄昏たそがれ時になってもこの寂れた貧民街には灯という灯がともることがなく、あっという間に暗闇に包み込まれてしまう。だがこの街の一区画、一区画を緻密ちみつに記憶している自分にとっては、たとえ月明かりがなくとも俊敏に立ち回ることが可能であった。猫のように路地を駆け抜けては家屋に飛び乗り、猿のように木々や柱にぶら下がって奇襲をかける。そうして愚かな大人を翻弄しては金と食料を盗み去る。すべては生きるため…否、『生きてもらうため』に。


黒地の上等そうなスーツを着こなした男が3人、慌ただしく袋小路へと駆け込んできた。暗闇に吞まれつつある視界の中で、全身を薄手のコートで隠した小柄な姿が立ち尽くしているのを捉えた。

「もう逃げられないぞ…観念しろこの餓鬼!」

「早いとこ財布を取り返して戻るぞ、この街は貧乏すぎて街灯すら設置されてねぇみたいだからな…完全に真っ暗になっちまう。」

「その心配はなさそうだ。ほら、もうすぐ雲が晴れて月明かりが…。」


だが3人の男が見上げた空からは、月明かりに照らされて十数本の樽が雪崩なだれ落ちてきた。

「う…うわああああああ!?」

静まり返っていた夜の貧民街に、けたたましく樽という樽が地面に打ち付けられてひしゃげる音と、それらの下敷きになる3人の男の悲鳴が響き渡った。だがもとより治安の悪いこの街では、何事かと様子を窺いに外へ出てくる人影はまばらである。そのような人々も、翌朝になってからでなければ事態の収拾に努めようとはしない。


「痛てて…おい、大丈夫か?…うわ、なんだこのじっとりした…ってこの臭い!おい、しっかりしろ!!返事しろって!!」


どうやら3人のうちの誰かが下敷きになった拍子に流血沙汰になったようだ。事前にはりぼての屋根の上にこしらえていた樽を落とす罠…追っ手を袋小路に誘い込んだのち、仕込んだ縄を引っ張って支柱を外して十数の樽を雪崩のように浴びせ、生き埋めにしたどさくさに紛れて完全に逃げ切るという作戦を初めて試してみたが、あの程度でも人間は死んでしまうものなのだろうか。だが見ず知らずの他人が死のうと自分には何も関係がないし、自分が仕掛けた罠や振り回した刃物で、他人が傷を負ったり最悪命を失ったりする結果も特段珍しい光景ではなかった。誰もが生きることに必死ななか、その生存競争に勝ったに過ぎないのだと考えていた。


「…さて、そろそろ帰らないとな。収穫はよかったが門限に間に合わなけりゃ元も子もない。」

 



貧民街・ヌーラ地区の外れにあるユーベット孤児院のとある部屋では、1人の幼い少女がベッドに横たわりながら、冷え込んだ空気が流れてくるにも関わらず窓を開け放ち、宵闇をぼんやりと眺めていた。するとその部屋の扉をコンコンと優しく叩く音がして、エプロンを着けた若い女性が羊皮紙を片手に入室してきた。

「点呼の時間よ。まぁフィルマはいつも通り…だけど、トロヴァは?」


「はいはいクラエ先生、ちゃんと帰ってるよ。」

窓の外側から声が飛んでくると同時に、桟を飛び越えて薄手のコートを羽織った子供が軽快に室内へと降り立った。フードを外すと中からは長く伸びた黒髪がバサバサと溢れ出し、ベッドに横たわっていた少女フィルマの表情は灯が灯されたように明るくなった。対照的にクラエは大袈裟に溜息をついてげんなりした表情を浮かべた。


「まったく…きちんと玄関から入ってきなさいって何度言ったら約束を守ってくれるの!?」

「ユーベットの規則にはそんなこと書いてないだろう?書いてあるのは19時の門限を守ること…だから19時までに俺がどこからここにたどり着こうが罰せられるいわれはない。そうでしょ、クラエ先生?」

「あのねぇトロヴァ!そういう問題じゃなくて!ここで暮らすからにはきちっとした生活を送ってほしくて私はね…!」

トロヴァとクラエがやかましく口論しているのを、ベッドの中のフィルマがクスクスと笑っていた。


「…それじゃあ、トロヴァは後でフィルマのお夕飯取りに来るのよ。またあとでね。」

仕方なく言い争いを締め括ったクラエは、フィルマの方にだけ手を振り微笑ほほえんで部屋を出て行った。そのフィルマがそのまま満面の笑みをトロヴァの方に向ける。

「うふふ。おかえりなさいお姉ちゃん。今日も1日お疲れ様。」

トロヴァも優しげな表情を作り浮かべて、フィルマの頭をゆっくりと撫でる。

「ただいまフィルマ。…あといい加減、お姉ちゃんじゃなくてお兄ちゃんって呼べよ。俺は男なんだから。」

「いーや。だってお姉ちゃんはお姉ちゃんなんだもん。」

意地らしく微笑みかけるそれはまるで天使のようで、生まれた場所も親も知らないトロヴァにとっては、彼女の存在こそが生きる意味であり、己の命を動かす理由だった。

 



フィルマは実の妹ではない。

彼女がユーベット孤児院に入居してきたのはまだ五つのとき、トロヴァは八つであった。フィルマはヌーラ地区の近くの森を流れる川で溺れていたところを保護されたらしく、酷く憔悴しょうすいした状態であった。家族が見つかるまでという名目で一時的にこの孤児院に移されたのだが、溺れていたことが原因なのか記憶が曖昧になっていたうえに虚弱な体質だったため、他の孤児とは別の小部屋で安静にさせる措置がとられた。そのときにまず世話係としてクラエに指名されたのが、トロヴァであった。


「ごめんねトロヴァ。最近子供達も増えてきて、フィルマに付きっきりになるわけにはいかないの。朝晩だけでいいから、あの子のことを見ててあげてほしいの。しっかり者の貴方なら、任せられると思って…。」


孤児院で皆の面倒を見ていたクラエには、トロヴァが勉強や街中での就労を真面目に取り組んでいるように見えていたのかもれないが、当時のトロヴァにしてみれば寡黙かもくで淡々とした単色塗りの毎日が過ぎ去っているだけだった。よわいが十になれば、孤児院を離れて自由な生き方をすることが許されるという規則であったため、ただひたすらその日を迎えることだけを考えていた…とはいっても、孤児院を出てからやりたいと思うこともなかった。この孤児院に入居する前の記憶がほとんどなかったうえ、退屈で荒んだ貧民街では何のために毎朝を迎え身体を動かすのかがわからず、髪を切り揃えることも億劫になるくらい、ただ定められた規則に言われるがままの日々を送っていた。それゆえクラエの頼み事に頷いたのかどうかさえ、記憶が定かではなかった。


その日の夕食をフィルマの寝室に配膳はいぜんしに行くと、ベッドのシーツに潜り込んでいる彼女は酷く咳込んで苦しそうであった。だがトロヴァは駆けつけてなだめることもなく、近くの机に夕食を並べて素っ気なく声をかけた。

「今日からおまえの世話係になった、トロヴァだ。とはいっても、短い間だろうけどな…」


「…お…ねえちゃん…?」


シーツから僅かに涙目を覗かせたフィルマが、掠れた声をこぼしながらトロヴァを見上げた。


「お姉ちゃんじゃない。俺は男だ。髪は確かに長いけど、今度切りに行くつもりだし…。」

「いや…おねえちゃん…どこかに…行っちゃうの…?…どこにも…行かないで…よお…おねえ…ちゃああああん!!」

「おい、うるせぇな…泣くんじゃねぇって!」


「いやだああああ!!いやだあよおおおおおお!!」

「ああもう!しょうがねぇなあ…。」


そうして泣きわめく幼い少女を仕方なくあやし付けたのが始まりだった。

フィルマはそれからというもの、トロヴァが孤児院にいる間は頑として離れようとはしなかったため、クラエと相談した結果、自分のベッドをフィルマの部屋に移して寝食を共にし、必要があれば彼女を車椅子に乗せて移動させるなど本格的な世話をする羽目になっていった。最初は夜中に彼女が咽込むせこむ音がわずらわしかったが、傍に寄り添うことで虚弱な彼女が見せるようになった無邪気な笑顔が、単色塗りの日常を徐々に彩らせていった。その笑顔が曇ってしまうことを憂いて、長く伸びた髪をそのままにしていた。

相変わらず彼女の本当の家族がこの孤児院を訪ねて来ることはなかったが、代わりに本当の兄妹になれたような気がしたトロヴァは、使い道のわからなかった自分の命を彼女の笑顔のために動かすことを決めた。

もっと就労に務めてお金を稼いで、彼女に精のつく食べ物を買ってこよう。できれば可愛く丈夫な服と靴も買ってこよう。彼女が自分の足で、ずっと笑いながら、どこまでも駆け抜けていくことができるように…。



 

「ほら見ろフィルマ!こんなにお金が溜まったんだ!特に今日は稼ぎが良かったんだぜ!」


トロヴァが横たわるフィルマの隣に腰掛け、小袋に溜まった硬貨をじゃらじゃらと掻き混ぜてみせた。

「うわあ、すごいねお姉ちゃん!おしごと頑張ったんだね!」

「それに明日、市場で新鮮な果物が売り出されるって情報を聞いたんだ。きっとフィルマも今よりもっと元気になれると思うんだよ。しかも明日は休日だから就労はない…あ、でもこの家の掃除をしなきゃいけないのか…それが終わったら、全速力で買いに行ってくるからな!」

「わかった。フィルマ待ってるね。えへへ…どんな味がするんだろう。」

「なんでもカスティ…なんとかって遠くにある緑豊かな所から特別に仕入があるらしくて…」


笑顔を絶やさないで向け続けてくれているフィルマの前で、トロヴァは胸の奥のじりじりとした痛みを必死で隠していた。

ごめんなフィルマ…この小袋に入っているお金のほとんどは、他人を傷つけ、くすねてきたものなんだ。

 


ユーベット孤児院に入居している子供は規則に従った生活を送らなければならない。

毎朝7時には起床し朝食をとり、齢五以上十未満の子供は8時から11時まで勉強に励まなければならない。この勉強はクラエが1人ずつ子供を見回っていたため、3時間みっちり手を動かさなければならないわけではなかった。

その後昼食をとり、13時以降はヌーラ地区内の商店や採石場などで就労に務める。地区内で就労できる証として孤児院からは名前と誕生日が刻まれた銀色のタグが発行されていた(このタグは齢五以上になれば無条件で貰えたため、虚弱で就労ができないフィルマにも与えられていた)。もちろん孤児である以上誕生日がわからない子供の方が多いが、その場合は入居したその日が誕生日という扱いにされており、齢は身体の成長具合を見て孤児院が判断していた。

そうして就労に務めた子供は19時の門限までには孤児院に戻らねばならず、点呼を経て夕食をとることができた。そして入浴、就寝となる。


だが就労とはいっても、当然齢十に満たない子供ができる仕事など限られていたし、そもそも規則で就労自体が4時間までと定められていた。この貧民街で日々の駄賃は知れているうえに、その一部は孤児院の運営に充てなければならなかった(事実上、夕飯はその徴収と引き換えに食べることが許されていた)。

トロヴァはただ就労に務めているだけでは一向に貯蓄など溜まらないことを認めざるを得なかった。そしてその間にもフィルマの容体が悪化してしまわないかないか不安でたまらなかった。

彼女を景気づけさせるためにはもっと多くのお金で栄養価の高い食べ物を与え、健康を維持させなければならない。孤児院の食事は皆平等だが貧しい質と量であることには変わらず、そのうえで虚弱な彼女だけ特別扱いを施すこともないのだから、自分が特別なものを与えなければならない。


…そのためには、見知らぬ他人を傷つけて金を奪うこともいとわなかった。




翌日、颯爽さっそうと孤児院の掃除を終わらせて文字通り全速力で目当ての露店に向かったトロヴァは、僅かに残っていたあかく瑞々しい果物を無事手に入れることができた。歩きながら紙袋に入ったその小さな1玉を目を大きくして眺める。


「美味そうだなぁこれ…きっとフィルマも喜ぶはずだ。でも結構お金なくなっちまったなぁ…。」


最初は目当ての品が買えた喜びで胸が高鳴っていたが、やや軽くなった小袋に次第に物寂しさを感じるようになってきた。でもどうせなら他にも何か買って帰ろうと露店街を歩いていると、昨夜樽雪崩なだれの罠を実行した袋小路の入口に、1人の背の高い女性が佇んでいるのが視界に映った。トロヴァは直ぐに建物の陰に身を潜めると、その女性の様子をじっと観察した。綺麗に手入れされた黒髪は背中を半分隠すほど長く、ぴっちりした迷彩柄の服を着こなして腕を組み、眼鏡を通してじっと事故現場を眺めている。持ち物と言えば、腰に巻き付けている黒い鞄を身に着けているくらいであった。


「あの迷彩柄は…軍人か?女でも軍人っているんだな。でもなんだか大して強くもなさそうだ。眼鏡だし。それなら、今日減った貯蓄を取り戻すのにちょうどいいかもな…よし!」


思わずこぼれたにやけ顔をコートのフードで隠すと、慌てて駆け抜けて正面からその女に勢いよくぶつかるように見せかけて、慣れた手癖で財布の類をまさぐろうとした。だがその刹那トロヴァは腕を強く掴まれると勢いよく女の方へ引き寄せられ、たちまちもう片方の手で胸座を掴まれて身体を高々と持ち上げられた。


「うぐっ!?…なんだてめぇ…離…せよ…!!」


首元が徐々に絞められていくなかで、トロヴァは両足を暴れさせて女を踏み付け引き離そうとした。しかしそれ以上に身体を大きく揺さぶられたと思ったら、視界がぐるりと回転してふわりと宙を泳いだのを察した。そして間髪入れずに背中から大きな衝撃を受けた。樽雪崩の罠の残骸に向かって放り投げられ、仰向けに叩き付けられたのだった。全身が激痛で痺れて強張こわばり、肺を圧迫された反動で咽込むせこみながら頭から地面にズルズルと滑り落ちた。目を開けると、青空と行き交う雲ががぐらぐらと歪むようだった。その視界の上の方から逆さまになった女の顔が見下してきた。


「…随分と度胸のある子供じゃないか。この世界平和維持機構・国際混成軍第2部隊長のルーシーに向かって窃盗を謀るとはなぁ。」


何やら大それた肩書が流れ落ちてきたが、トロヴァはそれ以上にこの女の怪力にただ驚愕していた。


「窃盗は未遂であってもれっきとした犯罪だ。この街では報復として暴行を受ける程度なのだろうが、寛大な私はおまえに罪の償い方を選ばせてやる。①財産、②食糧、③身体、④時間…このうち2つを被害者である私に納めるんだ。…もっとも③の身体は納められても私には別段得にならん。だから実質3択だ。ほら、さっさと選べ。」


その低い声音の督促も相まって、トロヴァは逃げられない威圧感、恐怖感に圧し潰されそうだった。そして蒼白な顔をしながらいきなり提示された条件について必死に思案した。財産、食糧、時間のうちから2つ…今直ぐにでも帰りたいところだったがやむを得ず選ぶとすれば1つは時間だ。もう1つは財産か食糧か…どちらも手放したくはない。お金はどれくらい徴収されるのだろうか…他にもフィルマに買ってやりたい物が沢山ある。だが、帰りを待つ義妹のことを想うと、その身を放り投げても手放すことがなかった紙袋をこの期に及んで失うわけにはいかなかった。

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