魔性の泪

生と死の問いかけを重ねた先に待ち受けるものは何か。
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Ⅴ.強欲の魔性

幼女の面影 ―前編

公開日時: 2022年1月26日(水) 22:46
更新日時: 2022年2月8日(火) 20:40
文字数:5,385

「山が……動いている……!?」


トロヴァは地を駆ける馬車から身を乗り出しながら、事前調査の報告書に記された文字通りの驚嘆をこぼした。

峡谷トレランティアで一般道として整備されている谷底から15メートルほどの高さの断崖から視界に捉えたものは、その一般道をズルズルと地響きを立てながら前進する10メートルほどの高さの小山であった。山が動くこと自体が不自然であるが、この峡谷周辺は比較的緑地が乏しいことから、それ以上に場違いな存在感を放ち続けている。考えるまでもなく、『魔性の泪』に魅せられた者の能力によって生み出されたものであった。

 

―ヌーラ地区で、また巨大なつる状の化物ばけものが出現した。


世界平和維持機構にて待機していたトロヴァの耳にその知らせが届いたのは3日前のことであった。しかも化物が出現したのは6年前と同じく地区の西側、建て直されたユーベット孤児院の近くである、と。

因縁の再来はトロヴァの心の奥底に押し込めていた苦い記憶を容易く掘り返し、胸の内側を激しく打ち鳴らして呼吸すら辛いものに変えてしまった。あのときフィルマの生命力と融合した『魔性の泪』を封印することができず、別の人間に乗り移ったものと思われていたが、再び同じ場所で同じ能力が発露したのである。

しかし短剣ユーディジウムの柄をしかと握り締めると、今度こそ『魔性の泪』を逃さず封印しなければならないと意を決した。


だが実際に現場に到着してみると、6年前にルーシーが対峙し遺していた記録など参考にならないくらい蔓状の化物は『成長』していた。

表面は大部分が生い茂った葉で覆われており、あちこちの隙間から蔓が触手のようにうごめいて獲物を探っているようであった。現在地はヌーラ地区からさらに西に数キロ進んだ地点であり、その山はさながら幼児が床をうような動きで、さらに北西方向へゆっくりと進んでいた。北西を道なりに進めば別の都市に辿り着く。この速度ではまだ十分猶予があるのかもしれないが、別の都市がこの蠢く小山の餌食えじきにならないよう早めに始末しておく必要があった。

しかし肝心の魅せられた女が何処にいるのかが見当もつかない。

今回は断崖上から仕掛けることを想定し、左右の腰元にはアンカー付きの2本のワイヤーを装着しているため、蠢く小山に降り立つことは難しくなかった。だが6年前と同じようにこの小山の中に『魔性の泪』が埋もれていたとして、分厚くなった茂みを闇雲に掻き分けていくようでは埒が明かないと判断した。当時ルーシーは核となる部分だけが6メートルほどの高さに伸び上がっていたと記していたが、今回は完全に山なりの形状となっており目印らしいものも見当たらなかった。


そして最も深刻な問題は、あの蠢く小山に一体何十、いや何百という人間が取り込まれており生死が不明であるということだった。

人間を取り込み生気を吸い上げるという特徴が以前と変わらないのであれば、ヌーラ地区では粗方あらかた蹂躙じゅうりんし終えて必要な量の人間を取り込んでおり、新たな獲物を求めて移動していると考えるのが妥当である。実際ヌーラ地区では大勢の行方不明者が数えられていると聞く。だが必ずしも取り込まれた人間が皆死亡しているとは限らない。『魔性の泪』の回収に当たり魅せられた対象以外の人間に危害を加えることは許されるのか。現況をどう線引きすれば自分の判断は赦されるのか。

躊躇ためらっているうちに馬車は速度を落とし、移動する小山と歩調を併せるように並走し始めた。


その時、蠢く小山の地響きの弾みで、人影が1つ背面の茂みの中からこぼれ落ちた。

トロヴァは透かさず双眼鏡を掲げ、道端に力無く横たわったその姿を捉えた。深緑の色地のエプロンワンピースに、赤みがかった髪を後頭部で束ねた女性…そしてその顔を見たとき、全身に鳥肌が立って弾かれたように馬車を飛び出した。


「!?…おい、どこへ行く!?」


今回も黒づくめの服装で御者に扮しているミトが、トロヴァの突然の挙動に驚き思わず振り返ったが、トロヴァは付近の岩場にアンカーを固定すると一気に谷底へと下降した。

前回カスティタスを訪れてから1ヶ月弱が経過し、脇腹の傷も回復して万全な状態にはなっていた。

そして地表に降り立つと、倒れている女性を両腕で抱き上げた。身体にはまだ温もりがある。自分と女性の身体を素早くベルトで固定していると、通り過ぎたはずの小山の化物が落とし物を拾おうとするように数本の蔓を這わせてきた。

なんとか捕らえられる前にワイヤーを巻き戻し、トロヴァは断崖に衝突しないよう少しずつ両足で壁を蹴りながら、しかし急いで崖の上へと昇っていった。人間1人を括り付けた身体で昇るとかなりの重力で節々が千切ちぎれそうな気がしたが、数少ない恩師を見捨てることは絶対にしたくないと必死の執念でこれを耐え、迫り来る蔓を振り切って待機する馬車へと駆け戻った。

 


「……先生!クラエ先生!!」


馬車の座席に寝かされていたその女性は、何度も名前を呼ばれ、少々荒く身体を揺さ振られたことでようやく重そうな瞼をゆっくりと開いた。


「…え……誰…?」

「俺だ!トロヴァだ!6年くらい前まで、ユーベット孤児院で世話になっていた…!」


トロヴァは6年ぶりに会った恩師が意識を取り戻した喜びを隠しながら、喰って掛かるように懐から銀色のタグを差し出した。どうしてもフィルマのタグも一緒に見せることになってしまうが、かえってクラエはすんなりと思い出すことができたようだ。


「ああ、トロヴァね…。髪切って男前になってたからわからなかったわ…。確か、ルーシーさんのところで働いてるって…。」


クラエは座席に手を付いて身体を起こそうとしたが力が入らず、移動する馬車の些細な揺れだけでよろけかけたので、慌ててトロヴァが支えに入った。


「先生、まだ無理したら駄目だって…!」

「…平気よ。いまは座っている体勢の方が多分楽だし。それに…貴方は仕事で来てるんだろうから、伝えられることは伝えておかないと。」


クラエは毛布を全身に被せながら座席に腰掛け、トロヴァの腰元の装備を見て姿勢を正し向き直った。昔から大勢の子供の面倒を見るため甲斐甲斐しく動き回る人であったが、さらに責任感が増し強かになったような印象を、トロヴァはその大人びた顔つきから抱いていた。


「…それじゃあ無理しない範囲で解ることを教えてください。3日前にあの蔓の化物が出現した件について。」


「3日前…もうそんなに時間が経ってたのね。あれは確か…孤児院のお昼ご飯を準備していたときだったわ。食後に切り分けようと思って買っておいたフェリスの実を摘まみ食いしちゃった子がいたのよ。」


「…フェリスの実?」

「覚えてないの?あの小さいけど紅くて瑞々しい果実の名前よ。貴方も6年前露店で買っていたでしょう…フィルマに食べさせるために。」


クラエが神妙な面持ちであの昼下がりの悲劇を思い起こさせてくる。当時は名前など気にも留めていなかったが、今となっては悲劇の引き金となった忌々しい果実としてトロヴァの記憶に刻まれていた。


「きっと食前の空腹に加えて、物珍しさとほのかな香りにかれてしまったんでしょうね。アリシアっていうちょっと食い意地の張ったよわい六の女の子が台所に忍び込んで、丸々1個を平らげてしまったのよ。私が気付いてその子を叱ろうとしたら…その子の服の裾からあの蔓が生えてきて…ごめんね、その後のことは全然記憶がなくて…。」

「いや、十分だよ先生。あとは俺の方でこの後の段取りを組むから…。」


心苦しそうにうつむくクラエに声を掛けながら、トロヴァは馬車の窓から依然前進を続ける小山を睨みつつ、状況判断には頭を悩ませていた。

クラエの話を聞く限り魅せられているのはアリシアという幼子のようだが、その名前を呼び掛ければ何らかの反応を見せてくれるのだろうか。同じ齢で魅せられたフィルマは力の制御ができずその身を滅ぼしてしまったが、アリシアは正気を保ち力を自由に操れているのだろうか。

むしろその前に、クラエをまず安全な場所に預けることが先決なのではないだろうか。クラエが再びあの蔓に捕らえられる可能性も否定できないし、『魔性の泪』に挑む自分の姿を見られるわけにもいかない…それともルーシーと親しいクラエならばある程度信頼ができ、秘密の共有が許されるのだろうか。


「変わったんだねぇトロヴァ…6年も経てば当たり前か。ルーシーさんと一緒に世界平和のために働いてるんだもんね。」


思考を巡らせていると、クラエがぽつりと呟いた言葉が耳に入った。彼女の目には立派で名誉ある仕事のように映っているのかもしれないが、お世辞にも誇れるような業績など持ち合わせていなかった。任務とはいえ赤の他人を傷付けて生きている姿は、孤児院時代と大差のないいやしいものであった。


「私もね、ルーシーさんに憧れて頑張っていたところがあったんだよね。6年前の出来事は辛い記憶だけど、私も身寄りのない子供たちをもっと沢山お世話して、ご飯も沢山食べさせて、その命を大切にしてもらいたい。この世界に生まれてきた意味を探しに行ってほしい。そうやって自分を奮い立たせていたんだよね。…でも、また孤児院は壊されて…今度はアリシアが…。」

「先生もうわかったから!アリシアは俺が…なんとかするから…。」

「本当に!?大丈夫なのトロヴァ!?貴方、あの化物に1人で立ち向かう気なの!?1人でアリシアを…あの子と化物に捕まっている人達を助けにいくつもりなの!?」


クラエが悲痛な表情でトロヴァの服の裾にすがり付き、声を荒げて訴えかけた。孤児院では皆の継母ままははのようであった彼女らしく、過保護なくらいにその身を案じようとするその叫びは、狭い馬車の中で余計に耳が痛くなるようであった。トロヴァはどういう表情を返せばよいかわからず、視線を逸らして小さく答えるしかなかった。


「…先生はこの馬車から出ないでくれ。そのまま安全な場所まで連れて行くから。」


そのとき、外から馬車の扉を少々強めに叩く音がした。気付けば馬車は停止しており、扉の窓を振り向くと御者に扮しているミトがトロヴァを呼んでいた。


「…失礼します。お客さん、少しお話したいことがあるのですが。」


 

再び馬車を走らせ蠢く小山と並走しながら、トロヴァとミトは御者台で隣り合い座っていた。とはいってもミトは中央に居座っているので、トロヴァは隅に追いやられているかのように窮屈な座り方をせざるを得なかった。


「…それで、いつまで部外者と話し込んでいるつもりだ?」


ミトは相変わらず正面だけを見ながら言葉を寄越してくる。黒づくめの服は顔も覆っているので表情まではわからないが、きっと早急な任務遂行を冷淡に催促しているのではないかと勘繰かんぐった。初対面では下手しもてに出ていたが、その物言いに若干苛立ってしまいへりくだる気も失せてしまった。


「あの人は部外者じゃない。被害者だ。そして俺が昔孤児院に居た頃世話をしてくれた親代わりみたいな人だ。俺と…妹みたいな存在だった、フィルマの。」


そう答えると、しばしの間沈黙が訪れた。

トロヴァはミトの方をちらりと見て、少しは温情の言葉でもかけてこないものかと心の中で煽ったが、彼女はそれ以上関心を示さなかったのかそのまま本題を進めてきた。


「…短剣ユーディジウムには、以前おまえの身体から除去した毒がまだ少し溜まっているだろう。その毒を使えば、あの蠢く小山を機能停止させることは可能なんじゃないのか。」


トロヴァが短剣ユーディジウムを取り出すと、つばはまっている宝石が薄い紫色を帯びていた。確かに毒としては少量かもしれないが、この毒の本質は感染力にある。生気を吸い上げる性質を持つ化物が相手であれば尚更効果は期待できる。


「それとも、取り込まれた人質にその毒が伝染することを危惧しているつもりか。」


ミトは声音を変えずにトロヴァの心の中を追跡してくるようだった。確かに魅せられた者の能力を一般人に向けたことはなく、どの程度制御が効かせられるのも未知数であった。有事とはいえ実質人質と化している人々の命を脅かす権利が今の自分にあるのかどうか、結局判然としないままであった。


「いつまでもこうして奴を眺めていても他の都市への侵攻を許すだけだ。甘ったれた考えをしてないで、早く手を…」


「はぁーあ。どいつもこいつもそんなに説教が好きかよ。言いたいことがそれだけなら、一旦馬車を停めてくれ。考えならある。俺はもう腹を決めたんだよ。」


 

トロヴァが馬車の扉を開けて室内に入ると、座席に腰掛けたままのクラエが心配そうに顔を見上げた。あのときの昼間、帰りが遅かった自分を慌てて出迎えたときの表情を思い出すようであった。


「…さっきからどうしたの?トロヴァ。馬車が何度も停まったり動いたり…。」


「……。」


トロヴァが俯いて何かボソボソとくぐもった。さすがに聞き取れず、クラエは思わず腰を浮かせてトロヴァの口元に耳を寄せていく。


「えっ?なに…?何て言ったの?」


その瞬間トロヴァは素早く右腕を振り抜き、間近に迫っていたクラエの首筋を短剣ユーディジウムで斬り裂いた。


たちまち血飛沫がトロヴァに拭きかかり、馬車の室内を赤黒く染めた。そしてクラエは何の言葉を遺すこともなく、静かにその場で崩れ落ちた。

それを見下ろすトロヴァの視界は、次第にぼやけて震えが止まらなくなった。


「…ごめんなさい。クラエ先生。」

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