以前人間が死ぬ時の感覚についてシスター・ドールは、果てしない穴に落ちて地上の光がどんどん遠くなっていくようなものではないかと想像していたが、トロヴァはその想像を身を以て体験することとなった。だがやがて何かふんわりとしたものに受け止められると、ぼんやりと視界が下から上へ開けてきた。かなり暗いが天井が見える…どのくらい時間が経ったのだろうか。身体は何か暖かいものに覆われている…ベッドだ。寝室に寝かされているのだ。だが首から下は何かに固く抑えつけられているかのように身動きがとれず、指先が微かに震える程度であった…これが伝染病の症状なのか。瞼も重く視界も朧気であるが、意識だけははっきりしていた。身体が暖かいという感覚もわかるが…首から下げていた銀色のタグと下着以外一切身に着けていないことにも気付いた。口元に巻いていたスカーフを含めてすっかり身包みを剝がされている。当然、短剣ユーディジウムの所在もわからない。
「…お目覚めになりましたか、トロヴァ様。」
直ぐ右隣で、不気味なくらい優しい声音の囁きがした。できる限りの力を振り絞って顔を右側に倒し、限られた視界でその声の主…女使用人クーノを探ろうとすると、もう1人の人間が同衾しているのがわかった。右手側の部屋の灯の陰になって姿がよく見えなかったが、柔らかな肩、二の腕の輪郭が徐々にこちらへ擦り寄って来ていた。やがて大きな陰がトロヴァの視界を覆い尽くし、背中から後頭部にかけてもぞもぞと何かが入り込んだと思ったら、正面は顔から胸元にかけて暖かく柔らかな感触に包まれた。口元には、レース越しに豊満な2つの塊が押し寄せてくる。
「…子爵様は、こうして私の腕の中で即死したんですよ。」
全身の神経はひたすらに沈黙を続けていたが、脳内だけは激しく回転しバチバチと音を立てるようだった。伝染病の発生源がこの女使用人クーノそのものだった。彼女の身体から溢れ出す毒素が全身を痙攣させ呼吸困難に陥らせる原因そのもの…すなわち『魔性の泪』に魅せられた者の能力だった。小さな応接室に案内し座高の低いソファーに座らせたのも、紅茶を飲ませようと促したのも、調査に応じる間にスカートの裾から溢れ出し充満させた毒素を吸い込みやすくするためだったに違いない。そもそも紅茶を口にしようとする以前から身体が重く感じるようになっていたことも踏まえれば、初めからスカーフの合間を縫って少しずつ毒素に侵されていたのかもしれない。
だが不可解な点が2つあった。1つは、彼女を警戒してはいたが敵意は持っていなかった…にも関わらず、彼女は自分を始末しようと毒を撒いていた点である。もう1つは、そんな彼女が薄いレースを首に掛けただけの裸同然の姿になりベッドの中で自分を抱き寄せている点…確かにこの体勢で彼女の素肌から溢れ出す毒素を浴びれば即死は免れないだろう。だが、応接室で毒を吸わせておいて半端な状態で自分を生かしている理由が不可解で、不気味であった。
「ふふ…ご心配なさらなくても、いまの私には貴方の命を奪うつもりはございません。ただ…私の願いを叶えてくださればそれでよいのです。」
クーノが細長い指でトロヴァの髪を撫でる。トロヴァは何か言い返そうとしたが擦れた1文字しか発することができず、微かな吐息とともに豊満な肉感に吸収されていってしまう。反動で仄かに漂う甘美な匂いが脳を刺激した。
「私の願い…どうか、私に生きる意味を授けてはくれませんか。」
暗く覆われた視界の中で、クーノのふんわりとした要求がポトリと落ちてきた。そんな要求をするために、色欲を押し付けたような状況を作り出しているというのか。自分は…これから貴女を殺さなければならない、そんな任務を背負っているというのに。
「ああ、こんな大それたお願いを不躾に申し出ては失礼ですね。ええと…どこからお話すればよろしいでしょうか。」
クーノは抱き寄せていたトロヴァを再びベッドの上にそっと横たわらせると、その右側に抱き着くように寝そべった。そして徐にトロヴァの首に掛かっていたタグを弄り始めた。
「…お洒落な銀色のタグを付けていらっしゃるんですね。刻まれているのは人の名前…1つはトロヴァ。もう1つは…フィルマ。女の人でしょうか。きっと貴方の大切な御方だったんでしょうね。」
トロヴァは彼女の生温かい吐息が耳元に、首筋に漂ってくるのをピリピリと感じながら、どこよりも触れてほしくないものに無抵抗に触れられているそのか細い指を跳ね除けたい苛立ちと、身体が動かない悔しさを味わっていた。だがそんな感情の鬩ぎ合いを他所に、クーノは静かに語り始めた。
「この屋敷では昔から、女使用人が交代制で子爵様の夜伽を務めていたのです。ご成婚され、ご令室様が見えてからは下火になりましたが…その前に子爵様の子を孕んでしまった使用人がいました。私の母です。産まれた私がどのように匿われていたのかは知らないのですが、ご子息様が生まれた後頃合いを見て、捨て子を引き取ったという体裁で使用人見習いとしてこの屋敷に暮らすことになったと聞かされました。」
「しかし…私が九つか十の頃には、再び子爵様の夜伽に宛がわれることになりました。最早若い女使用人は私以外にはおらず、私はほぼ毎晩子爵様のお相手を務めることになったのです…あ、子爵様だけではないですね。宿泊された客人や、成長されたご子息様のお相手もいたしました。恐らくご令室様も他の使用人達も、このことはご存知だったでしょう。私には関心も憐れみもなく、ただ子爵様を慰めるだけの穀潰しとしか思っていなかったようでした。実の母も助けてくれたことといえば、避妊薬を手配してくれた程度でした…子爵様の陰ながらの指示で。母親らしいことなど何もない赤の他人のような関係でした。私は子爵様に都合のいい道具として差し出され、子爵様が亡くなれば最早価値などないただの廃棄物だったんです。」
トロヴァは語るクーノの声音が少しずつ震えてくるのを感じながら、依然として暗い天井をただ眺めていることしかできなかった。脳内では必死にこの場から離脱する策を思案しているものの未だ身体は自由にならない。怪しまれないように冷や汗をかくことも赦されないような緊張感でさらに身体が強張っているかのようであった。やがてクーノが右腕を伸ばしトロヴァの左肩を掴むと、まだ抱き寄せるようにして身体を半分重ね、虚ろな顔を首元に埋めてきた。
「私は母親を恨みました。望まずに産んでは憐れむことのない母親を。ですがそれ以上に望まない命を孕ませた子爵様を恨み呪いました。肉欲の儘に私の身体を嬲り弄んだ男達を呪いました。男と女がどれだけこの世界で権利的に平等だと認められても、根本的な身体のつくり…力関係は平等ではなく、孕ませ孕まされる関係であることに変わりはないのです。況してや私は権利を盾にできるような立場ではない、望んでここに居るわけではないのにここにしか居場所がない人間なのです。そうした力の差を振り翳して、欲望の儘に女を支配しようとする男を強く呪いました。…そしてその呪いがいつの日か具現化しました。止めどない毒素となって私の身体から溢れ出し、男という男を蝕んでは命を奪っていったのです…どうやら毒素は街の方まで流れて行ってしまったようですが。」
カスティタスを襲った伝染病の真相が判明した。盆地という地形であるがゆえに、丘の上のティーズ邸から溢れ出した毒素が街中に滞留してしまったのだ。そして、住民の男性を無差別に毒で侵し命を奪っていった…毒というよりも、クーノが絶望的なまでに男性を嫌悪してしまったことによる呪いだと捉えた方がいいのかもしれないが、結果として規模としては計り知れないものになってしまっていたのだ。
「どうして男は欲の儘に契りも交わさない女を平気で冒すのでしょうか。力の差があれば、身分があればいくら女を冒しても赦されるのでしょうか。平気で望まない命を宿らせてどうして他人面ができるのでしょうか。…抵抗が叶わない女は恥辱と苦痛を理不尽に被り、最悪望まれない命を孕んでしまうのです。生を受けても所詮奴隷にしか成り得ず虐げられる命を…!世界平和維持機構の皆様は、そのような愚かな男共に罰を与え私のような性奴隷を救ってはくださらないのですか!!」
クーノが顔を埋めながら語気を強めるとベッドから呪いが沸々と湧き上がってくるようで、息を吸った途端に命を奪われてしまうかもしれないではと本能的に恐怖した。心臓の鼓動が加速するのがわかったが、それでも身体は凍り付いたように自由が利かない。首筋に溜まるクーノの吐息が、逆に身体を冷え上がらせているようだった。
そして彼女が訴えかける呪いは、近いようでどこか果ての世界の景色であるように思えた。自分には性を交えた経験などなかったし、毎晩羞恥に襲われ望まぬ妊娠に怯える人生など想像もできなかった。他方で、衣食住が保障されているだけでもまだ恵まれているのではないかという皮肉を否定することもできないでいた。柔らかく肉感のある身体、しっとりした肌と髪…それらは女性とは言えど当たり前に備わるものではないはずだと。彼女が自分のことを世界を股に駆ける役人だと思って懇願しているのであれば猶更筋違いである。自分もまたゴミ溜めから掘り出されただけの、使い捨てにしか成り得ない駒にすぎないのだから。
「…もちろん貞操がしっかりされた男もいると思います。この街にもきっと。そんな方々の命まで奪ってしまったかと考えると申し訳ない気持ちで一杯になりました。私はもう男という存在そのものが怖くなっていたのです。私が見てきた男は欲望の儘に女を冒し、見世物にし、嘲けり笑う醜悪な生き物でしたから。…ですが…」
「私の周りから男が死に絶えても、私は満たされることはありませんでした。醜悪な男に冒される夜がなくなったのに、不安でなかなか寝付けませんでした。結局使用人として育てられた私は、人間に仕え奉仕すること以外にこの命の使い方を知らなかったのです…昼も、夜も。」
もぞもぞとシーツが擦れる音がして、クーノがトロヴァの上で四つん這いになり顔を近づけてきた。トロヴァの視界は周囲が垂れ下がった彼女の長い黒髪で覆い尽くされ、部屋の灯がその隙間から僅かに差し込む程度の暗闇と化した。
「そこで例の封書が届き、貴方が現れたのです…久方ぶりに対面した男に最初は恐怖で震えてしまいましたが、そのときやはり気付いたのです。私には尽くすことができる人…身も心も繋がっていられる人が必要なのだと!その人のために生きることこそが、私が生きる意味なのだと!!」
クーノは妖しげな笑みを溢しながら、トロヴァの右の肩から首筋、そして耳の筋にかけてゆっくりと舌を這わせた。未だ嘗て感じたことのない痺れが脳を激しく揺るがし、全身を悪寒が奔った。
「いまの私には人を『侵す』力があります。誰をどれくらいの重さに『侵す』か、いくらでも調整できるのです。ですから、今後その力で貴方を外敵からお護りいたしましょう。貴方に仕え、仇なす者は密やかに片付けて見せます。そして夜には、貴方の心と身体を満たして差し上げます。…やはり私は命の使い方を変えられないのです。男は嫌いですが、男なくして生きられないのもまた事実なのです。お恥ずかしい話ですが、そういう風に育ってしまったのです。…ふふふ、生きる意味が見つかる瞬間って、こんなにも清々しいものなのですね…それに貴方と共にすれば…世界中の色欲に塗れた男共を『侵して』駆逐することも夢じゃないかもしれませんね…!!」
冷え切った身体とは対照的に、視界は興奮し捲し立てるクーノの吐息が籠って暑苦しいものになっていた。トロヴァは彼女の熱に当てられて意識までも遠くなっていくような気がした…今この瞬間にも彼女から毒が零れ落ち、自分の身体を蝕んでいるのではないかと思うほどに。
クーノはそのトロヴァの身体の上に覆い被さり、甘えるように大きく息を吐きながら両腕をトロヴァの背中に潜り込ませて再び抱き付いてきた。薄いレース越しに柔らかな肉感が包み込むように圧し掛かってくる。そしてクーノはトロヴァの左耳に口を寄せ不敵に囁いた。
「…ですから、貴方には死なない程度の毒で横たわらせてお願を聞いてもらっていたわけです…ふふふ。あでも、もし不審な動きを見せたらそのときは容赦なく貴方を殺しますからね。あくまでも貴方は、私が縋る可能性の1つなのですから……!?」
突然勢いよくクーノが起き上がり、トロヴァに馬乗りになったまま廊下に面した扉の方を振り向いた。何も聞こえてくる音はない。だがクーノが素早く反応したということは、『魔性の泪』の力に促されて何らかの危険や気配を察知したということになる。
「誰かいる…そこに誰かいるんですね…!?」
クーノがベッドから降りると、部屋の灯の傍に掛けてあった白いローブをさっと羽織り、照らされていた華奢な身体を隠した。そして両手扉を慎重に、音を立てずにゆっくりと開けながら廊下を見渡した。シーツが捲れて上半身が露出したままになっているトロヴァは、僅かに顔を傾けてその様子を眺めているしかなかった。
だがそのとき、開かれた両手扉の上部から何かが射出され、トロヴァの右脇腹に突き刺さった。硬直していた身体ではその勢いを殺すことも儘ならずに激痛が走り、たちまちベッドに血が零れ落ちた。
「…んぐっ…!?」
「!?…ト、トロヴァ様!?」
クーノが明らかに動揺した、ひっくり返りそうな声を上げて透かさずベッドの方に駆け寄ってきた。そしてトロヴァの脇腹に突き刺さった物を確認しようとして、絶句した。
「この短剣…!どうして…処分したはずなのに!?」
その隙を逃さないよう、トロヴァは素早く脇腹に刺さった短剣ユーディジウムを引き抜くと、低い姿勢を維持したまま起き上がってシーツをクーノに向かって覆い被せた。反射的にクーノは後方へ跳ねて回避しようとしたが、一瞬遮られた視界の向こうから短剣を構え飛び掛かって来ていたトロヴァへの対応には明らかに体勢が崩れた。
「くっ…!!」
トロヴァはクーノの首筋へ一直線に飛び掛かっていたが、クーノは既のところで身を翻しその斬撃を右肩で庇った。思わずその傷跡に左手の裾を宛がったクーノはトロヴァの方へ激しい嫌悪を剝きだしたが、間もなくして床にへたり込むように崩れ落ちた。
「うぐっ!?…がはっ…がはっ…これ…は…まさか…!?」
床に向かって激しく咽込んだクーノは呼吸が圧迫され、全身が痙攣し立ち上がることができなかった。乱れた黒髪からは、お誂え向きに色白の項が煌々と照らし出されていた。
「…悪いな…こういう形でしか…救ってやれないんだよ…」
そう言ってクーノの項を一振りで切り裂いたトロヴァだったが、長らく痺れていた身体が突発的な始動と右脇腹の激痛に耐えることができずふらりと後方に倒れて、意識が再び果てしない暗闇へと墜ちていった。
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