「こんばんは。貴方が私を迎えに来た死神さんなの?」
満月が照らす修道院は、星屑を鏤めたようなステンドグラスを煌めかせる荘厳な祈りの場だった。市街地の外れから丘を上った先で、住民を静かに見守るように聳えているのだと話には聞いていた。しかし辿り着いた先は廃墟であった。天井は広く崩れ落ちて、月光がその悲劇の跡を冷たく照らし出している。床には瓦礫やガラスの破片、倒壊した柱、木屑と化したテーブルや椅子が散乱し、壁を含めてそこら中に血痕がこびり付いている。そして夥しい数の人骨が転がっている。何よりも廃墟は丘の上を吹き荒ぶ風に晒されているというのに、焦げ臭い空気が充満しているようだった。修道院は焼き討ちにあったのではないかと、初見では誰もがそう思うのだろう。
「尤も、身形を比べたら私の方が死神みたいなのでしょうけどね。」
目の前の瓦礫の山の天辺には1人の修道女が腰掛けており、大鎌を夜空に掲げて自嘲気味に呟いている。纏っているダークブルーのローブはあちこちが擦り切れ、煤と血痕に塗れている。被っているウィンプルからは金髪が零れており、吹き晒しの廃墟で静かに靡いている。顔と姿だけを捉えれば月明かりに照らされた美しい修道女…と言い表せられるのだが、ボロボロに刃毀れした大鎌と窶れて生気の無い微笑みが、つい数日前にここで起きたであろう悲劇を物語っているかのようで、かえって血の気が引く思いだった。
それでも、ここには任務で来た以上後退るわけにはいかないので、瓦礫の山を見上げて声をかけた。
「おまえはディレクタティオ修道院のシスター、ドールで間違いないな?」
天辺に腰掛けるシスターは、大鎌を膝元に下してゆっくりとこちらを見下ろした。
「…ええ、そうよ、死神さん。確かそんな名前だったわ。」
どこかふんわりとした返事が落ちてきた。まるで1人だけ永い時間を生きていたみたいに、反応は虚ろだった。
「この修道院の悲劇はすべておまえが1人で作り上げた。間違いないな?」
「…間違いないわ。」
シスター・ドールは何も警戒心を露にすることなく、あっさりと質問に答えてしまう。こちらとしては以上2問の確認がとれてしまえば他に訊くことはなく最後の仕事に取り掛かるだけなのだが、生憎相手が瓦礫の山に居座ったままではどうも仕掛け辛い。
「ねぇ死神さん、どうして私がここで沢山の聖職者を手に掛けたか、訊かないの?」
様子見をしていたら、ドールは身動ぎすることなく話を吹っ掛けてきた。
「あのね、私は殺されそうになったの。でも私は死にたくなかった。ただそれだけの話。だから死神さん、私は悪くないの。お願いだから、私の事を見逃してよ。」
何の言葉をかけるまでもなく、ドールは一方的に弁明をしてきた。だがどう客観的に見ても、この惨状は正当防衛が成り立つような顛末ではない。1人でこの修道院を破壊して、一体何人の人間を殺したというのだろうか。
「シスター・ドール、おまえは自分が何を咎められているのか、わかっているのか?」
予定にはなかった、3つ目の質問をしてしまった。標的の心情を理解しようとは毛頭思わなかったが、どこか癪に障ったことは否定できなかった。だが瓦礫の山の上では、ドールが表情を変えずにやや首を傾げてみせた。
「わからないわ。私は私を殺そうとする者を排除しただけ。人間誰だって、徒に命を奪われたくはないでしょう?」
結果として徒に人間の命を奪ったのはこの虚ろなシスターなのではないかと決定付けざるを得ないのだが、仮にこの修道院の全聖職者が彼女を包囲したとして、すべて返り討ちにできるほど彼女が戦闘慣れしている人間には見えなかった。もちろんここに来るまでの間、市街地の治安部隊らも駆けつけて彼女と対峙したはずなのである。
「修道院を破壊して敵対する人間の命を根こそぎ奪うことが、自分の命を護るために妥当な行為だったのかと、訊いているんだ。」
「当たり前のことを訊くのね。でもそれが、貴方が私を排除しようとする理由なんでしょう?」
ドールの口元が一瞬だけ綻んだのがわかった。こちらも少々喋り過ぎてしまったようだ。だが彼女が問い返してきた内容は間違っておらず、特に是非を答える必要性も感じなかった。その沈黙が、いずれにせよドールに対して意味を持つことになったが。
「…そう。それじゃあ死神さん、私を殺す前に1つだけ教えてよ。」
ドールは両腕で膝を抱え、やや前屈みになってこちらを見下ろして喋り続ける。
「人間は、死んだらどうなるの?」
今度はあまりにも漠然とした問いかけが降りかかってきた。およそ身体で挟んでいる大鎌で人間を斬って回ったであろう者から出る発言とは思えなかった。人間が絶命する瞬間を、彼女はその目で見ていなかったのだろうか。
「ああ、どうなるのっていうのはね…例えば致命傷を負ったときって、耐え難い激痛に襲われることで、何も考えられる余裕がなくなっていくものだと思うの。それで、その余裕がないうちにどんどん視界が闇に覆われていくような、果ての無い落とし穴に嵌ってどんどん地上の光が遠ざかっていくような…『死ぬ』っというのはそういう感覚なんじゃないかって、私は想像するの。」
話し相手の友達ができた少女のように、ドールは急に饒舌になってきた。少女が嬉々として繰り出すような話題ではないが。
「でも、問題はその後の話。闇に呑み込まれた私の意識は、その後どうなるのかな。五感がなくなって、何も考えられなくなって、その後私という『意識』はどうなっちゃうのかな。」
ここに来るまでの間、彼女は瓦礫の山(むしろ屍の山と言った方がいいのだろうか)でずっとそんなことを考えていたのだろうか。旅立った渡り鳥の行方を気にするような、焦点の合わないぼんやりとした口調である。だが死人は死んだ感想を喋ることなど叶わない。先程から死神などと呼ばれる儘にされているが、当然死後の意識の所在など知る由もない。
「私は幼くしてこの修道院に拾われた孤児だった。だから物心ついたときからこう教わってきたの。神様を信じていれば、死んでも天国で永遠に生き続けられるって。」
ドールは首元にぶら下がるロザリオを弄りながら、最早ただ気の向くままに喋り続けている。
「もしそれが本当だとしたら、私の『意識』はきっとどこか空高いところにある場所で目覚めて、永遠に漂うことになるんだろうなって。ちゃんと喜んだり、悲しんだりする感情もあって、徒然にどうでもいいことを考えて…具体的に天国で何ができるのかはわからないけれど、私という『意識』は肉体が滅んでも終わらないんだって、そう考えてた。」
「でもこの前、麓の街で昔から親身になってくれていたお婆ちゃんが老衰で亡くなったの。寝たきりで教会に通うことができない人だったけど、亡くなる前に私にこう言ったの。『いつか生まれ変わって、また会える日が来るから』って。素敵な考え方だと思った。俗には前世来世って言葉があるけど、死んだ後でもまた産声を上げて新たな人生が始められるのだと考えたら、そのときは不思議と胸が高鳴ったわ。」
「でも、直ぐに不安に駆られて胸が締め付けられた。仮にその考え方が本当なのだとしたら、いま私が私であると認識しているこの『意識』は元々どこの誰の『意識』だったの?私は産声を上げる前のことなんて何も憶えていない。だからきっと私が死んだとき、私が私の『意識』を保ったまま別の人生を認識できる保障はない。死んだ私の『意識』は、結局深い闇の中に葬り去られてしまうでしょう。でも逆にこうも考えたわ。私の『意識』が前世の無いまったく新しい生命に依るものだとしたら、私が死んでもまた別の生命で私の『意識』が続くかもしれないって。それは、天国なんて不確かな桃源郷に永遠に留まることよりもよっぽどいいんじゃないかって思ったわ。」
遠い記憶を掘り起こし懐かしむような独白が一区切りつくと、ドールの表情は再び曇り虚ろなものに変わっていった。そこまで聞けば、なぜこのシスターが聖職者から追及されることになったのかを推測するには十分であった。
「だからね死神さん、貴方の考えを聞かせてほしいの。貴方もきっと、沢山の人間をその手に掛けてきたんでしょう?人間が死んだらどうなるのかも知らないのに人間を殺すなんて、傲慢だと思わない?」
これ以上この狂ったシスターの話に付き合うのは時間の無駄だと思った。仕事を終えるためには、まず彼女を瓦礫の山から引き摺り下ろすことが先決だった。生憎この任務には、まともな武器といえば刃渡り20センチほどの特殊な短剣しか支給されていない。
「いかなる傲慢も大義名分も人間を殺していい理由にはなり得ない。だが俺はおまえを殺せという任務を負っている。それだけだ。」
そう、自分は正義を語れる裁定者でもないし、これまでの過去を償いたいとも思っていない。ただ汚れ仕事を遂行して生きているだけの男だ。
「ふぅん…じゃあ貴方は自分の意志で私を殺しに来たわけじゃないのね。」
シスター・ドールが両手で静かに大鎌の柄を握り締めた。彼女も弁明が一通り済んだのか、ようやく動いてくれる気になったようだ。
「それなら貴方から雇い主のことを聞き出して…貴方と一緒にこの世界から排除してあげないとね!!」
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